27 誰かのために
「はい、伊能です」
いきなり聞こえてきた真澄の声に、伊能は言葉を失って黙り込んでしまった。
真澄の親が出たらこう言って真澄を出してもらおうとは考えていたのだが、うかつにも真澄が出ることを想定していなかった。
なによりも久しぶりに聞く、懐かしい声にこんなに動揺してしまうとは思っていなかった。
無言電話のような沈黙が流れた。
真澄の大きなため息が聞こえてきた。
「私に電話してきたら死ぬって言ったでしょ」
「どうして俺だと?」
「分かるわよ。それくらい」
「ごめん……もう電話しないから。由美は元気かい?」
「この声が聞こえない?」
電話の向こうから「誰からのお電話?パパから?パパからなの?」とはしゃいだ声をあげる由美の声が聞こえてきた。
ぴょんぴょん飛び跳ねて、真澄にすがりつく姿が目に浮かんでくる。伊能の視界が歪んだ。
涙声を悟られないように、喉の奥から声を絞り出した。
「どうしても教えてもらいたいことがあるんだ」
「何よ?」
「いつから俺と別れようと思ってたんだい?」
「もう1年も前からよ」
「俺は人の気持ちを読むのが特技だと思ってきたのに……どうして君の気持ちに気づかなかったんだろう?」
「私のことが本当に好きだからじゃない?」
さらっとした調子で真澄は言い切った。
「そうか……そうかもしれないな。本当に好きな人の気持ちが読めないとしたら、何の意味もない特技だな……でも、俺の気持ちが分かっていて、なぜ君は俺と別れたいんだ?君は俺が嫌いになった?」
「あなたは好きよ。でもあなたのすることが嫌いなの。嫌な上司がいるからといってすぐに会社をやめる。ほんの遊び心だといって浮気をする。儲かるからといってインチキ商品を売る。全部自分勝手な理由だわ」
「自分勝手か……そうか……」
そう言って黙り込んだ伊能に、真澄が探りを入れるような口調で尋ねてきた。
「どうしたの?何かあったの?私たちがいなくなったって、あなたは楽しくやっていける人でしょ?」
「ちょっとわけの分からないことに巻き込まれちゃってさ……」
騒ぐのをたしなめられた由美が大声で泣き出した。
「パパア、パパと話す!由美も話す!」
もう平常に話す自信がなかった。
「ごめん……もう電話しないから……由美を頼むよ。じゃ……」
「あなたは本当に私の気持ちだけは分からないのね」
電話を切る前に聞こえてきたのは、由美の泣きじゃくる声と、真澄のため息だった。
うなだれて歩き始めた伊能の耳に、由美の声が聞こえて、はっとして顔を上げた。
もちろん由美ではなかった。
日比谷公園を散歩している母娘連れが目に入ってきた。
母親は真澄より少し年上に見えた。
娘はおそらく由美と同じくらいだろう。
回りを見渡すと、ビジネスマンばかりだろうと思っていた
日比谷公園に、数多くの子供たちがいた。
「自分勝手……か」
伊能は呟いた。
そして母親にまとわりつくように歩き去っていく幼女の後ろ姿をしばらく見つめていた。
再び歩き始めた伊能は、もう顔を伏せてはいなかった。
まっすぐに前を見据える眼には強い光が宿っていた。
~つづく~
| 固定リンク




コメント
凄いですね。
伊能の動機付けが、表現されていますね。
とても納得が出来ました。
投稿 ドスコイ | 2008年1月24日 (木) 16時33分