目次

#1 巨大ネットカフェとそこに潜むモノたち(たとえば幽霊)
#2 巨大ネットカフェとそこに潜むモノたち(あるいは殺人者)
#3 伊能高忠と奇妙な老人(と謎のヤクザたち)
#4 長野希と奇妙な老人(と謎のヤクザたち)
#5 伊能高忠が失ったもの、そして得たもの
#6 HN(ハンドルネーム)ストレート・レイザー
#7 バベルの塔を戴く男
#8 異能力者組合第1回オフ会(宇宙規模?)
#9 恐るべき異能力者
#10 精霊の独白(September 11, 2001 )
#11 サラマンダーの幽霊
#12 三人の異能力者たち
#13 伊能の副作用(果てしなくだだ漏れするアレ)
#14 見張るモノたち
#15 バラバラ
#16 土岐の嗅ぐモノ
#17 熱い友情で結ばれつつある異能トリオ
#18 サラマンダーの幽霊(2)
#19 容疑者 万全大力 見るからに変質者と呼ばれた男
#20 はじまりの夜
#21 陰気なマッドサイエンティストと1000分の1ミリの爆弾
#22 拉致
#23 10歳の老人
#24 10歳の老人(2)
#25 それぞれのセイギ
#26 それぞれの想い
#27 誰かのために
#28 誰かのために(2)
#29 賢人会議
#30 賢人会議(2)
#31 孤独なテロリスト
#32 警察病院
#33 覚醒
#34 GOD BLESS (神の祝福)
#35 最重要会議
#36 誕生
#37 真の友人
#38 YUKIとストレートレイザー
#39 色はどうする
#40 襲撃――そして死
#41 潜行
#42 電光石火
#43 シャイターン
#44 ゲーム
#45 いくつかの疑惑
#46 ゲームの準備
#47 ゲームの準備(2)
#48 アシッドハウス
#49 アシッドハウス(2)
#50 反撃
#51 変身
#52 生身剥ぎ(ナマハゲ)
#53 バイタルサイン(生命徴候)
#54 五里霧中そして四面楚歌
#55 五里霧中そして四面楚歌(2)
#56 万全激怒する。
#57 真澄激怒する。
#58 魂の消滅
#59 伊能の脱ヤクザ講座
#60 伊能の脱ヤクザ講座(2)
#61 佇む人
#62 目覚めぬ眠り
#63 セイギって何?
#64 末期(まつご)の願い
#65 末期(まつご)の願い(2)
#66 折れないココロ
#67 百万羽のカラスと千人のオタク
#68 前夜
#69 兆し
#70 出撃
#71 異能戦隊サラマンダー
#72 ラストワン
#73 そして死が、宙に舞った
#74 永遠の90秒
#75 国家の誠意
#76 ハローグッドバイ

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76 ハローグッドバイ

 帝都大学病院の一室では、ベッドに座る希に母親が林檎を剥いて食べさせていた。

 母親には一つ気になっていることがあった。

 時折外の景色を見ている希の表情だ。
 何かを待っているような、そんな表情に見えた。

 長い昏睡のせいか、以前に比べてあまり笑わなくなったのも心配だった。

 林檎を頬張っていた希が、突然ベッドからぴょんと飛び下りて窓際に駈けて行った。

 そして何かを見てケラケラ笑っている。
 嬉しくて、楽しくて堪らないといった笑い方だ。

 母親も窓際に来て、希が何を見ているのか確かめた。

 窓の下にいたのは、柄の悪い老人、ヤクザ風の中年男、セールスマン風のちょっといい男、頼りなさげな今風の若い男、キューピー人形のような髪形の、見るからに変質者っぽい小男。

 その5人が何やらポーズを取っている。
 戦隊物のポーズの真似でもしているのだろうか。

 見るからに危なそうな連中なので、窓を閉めようかとも思ったが、あまりに希が嬉しそうなので我慢した。

 希はその怪しい連中に、小さく手を振って答えていた。
 でもとにかく、希のこんな笑顔が見られただけでも大満足だった。


 病院の帰り道、須賀が話し始めた。
「わしはヤクザを引退します。希君が残してくれたセイギのココロがあるのにヤクザはできません。老人福祉関係の仕事をやるつもりです」
 しっかりした口調だった。

 伊能はふと疑問に思った。確か須賀はボケ始めていたはず。

「何かを得ることは、何かを失うことです。わしは希君を失ったが、希君はわしに明晰な頭脳を残してくれた」

「そういえば俺も味覚が戻ったよ。留置場の弁当がやたらと美味かった」
 土岐の言葉に、万全が不満そうな顔になった。

 万全は激しい発毛、脱毛のサイクルが終了したとき、最初と全く違う髪形になっていた。

 頭頂部が河童のように禿げていたのが、今はその部分にだけ毛が生えている。頭の周りを縁取っていた毛髪はきれいに無くなっていた。モヒカンというよりキューピー人形のようだった。

「僕は何を得て、何を失ったんでしょうか?」

 万全の問いに、伊能は思わず噴き出した。
「お前は簡単だよ。頭のてっぺんの毛を得て、周りの毛を失ったんだ」

 万全は不満そうに鼻を鳴らした。

 土岐が伊能の顔をまじまじと見つめた。
「何ですか? 土岐さん、人の顔をジロジロ見て」

「お前笑ってるよ。ちゃんといい顔で笑ってるよ。お前が得たのはそれだな」

「ぼ、僕は?」
 心配そうなタケトの肩を伊能は叩いた。

「お前はあんな凄い友達ができたじゃないか。カラスの王様!」
 タケトは納得したのか嬉しそうにほほ笑んだ。

 伊能は大きく背伸びをした。

 病院の並木道の空気が美味しかったし、何よりも希が元気なのを見ることができたことが嬉しかった。
 しかも伊能たちのことを覚えているらしい。

「さーて、俺は久しぶりに我が家に帰ろうかな。といっても誰も待っていない寂しい家だけどな」

 万全が急に捨てられた子犬のような目になった。
 おそらく実家には帰りづらいのだろう。

「万全、良かったら俺の家に来るか? どうせ誰もいないし、掃除、洗濯をやってくれれば家賃はいらないぞ」

 万全の目が輝いた。
「本当ですか? ぜひお願いします! 僕、掃除、洗濯だけじゃなくてお料理だって得意です。嬉しいなあ、伊能さんの奥さんになれるなんて夢見たいだ……」

「冗談でもそういうことを口にしたら、即座に放り出すぞ」

「嫌だなあ。ジョーダンですよ、じょうだん」

 大学正門のところで、伊能と万全は同じタクシーに乗り込んだ。

 須賀、土岐、タケトの3人は須賀の部下の運転する車に乗り込む。

 別れの時、土岐は無表情で「じゃあな」と言っただけだった。
 伊能は「いつかまた」と言った。
 万全は「月に一回サラマンダーの定例会を開きましょう」と提案したが、皆に無視された。
 タケトは寂しそうに「また会えますよね」と呟いた。
 須賀は「今度会う時までに、わしはホームレス2級を取得しておきます」と言って、部下から「親っさん、ホームヘルパー2級です」と間違いを指摘されていた。


 タクシーが伊能のマンションに着いたとき、夕暮れ時にさしかかっていた。

 ふとマンションを見上げた伊能の顔が、訝しげになった。
 自分の部屋に電気が煌々と灯っているのだ。

 部屋の前にきてドアノブを回すと、カギはかかっておらず開いた。
 何か美味しそうな匂いが漂ってくる。

「パパだーおかえりなさーい!」
 跳ねるように由美が駆けてきて、伊能の腰に抱きついた。

 真澄がエプロン姿で出てくる。
 伊能は驚き、戸惑っていた。

「お帰りなさい」
 そう言う真澄の眼は悪戯っぽく伊能を見つめている。

「ま、真澄、どうして?」

「だから、貴方は私の考えていることだけは分らないって言ったでしょ」
 真澄は優しく伊能を見つめている。

 伊能は思わず真澄を抱きしめていた。

 ふと、玄関に万全がアホみたいに突っ立っていることに気がついた。

 伊能は万全に目配せして、顎をしゃくり「帰れ」と有無を言わせぬ調子で言った。

 おろおろとしながらも、伊能の強い調子に万全は部屋の外に追い出された。そのうえ、ご丁寧に鍵まで掛ける音がした。

 おそらくまだ玄関で抱き合っているのだろうと思うと、彼女いない歴25年の万全はふつふつと怒りが湧いてきた。

 万全は閉じられたドアに向かって立った。

 うぞぞぞぞぞぞぞとキューピー頭の毛が蠢きだす。
 くおおおおおおおおと食いしばった歯の間から空気が漏れる。

 前に突き出した両腕が、微妙な動きを見せる。

 ドアの内側では、しっかりと真澄を抱きしめる伊能がいた。
 突然、真澄がはっと体を硬くする。

 ブラジャーが外れ、急に自由になった豊満な胸がぶるんと弾んだ。

 頬を赤らめて伊能を恥ずかしそうに睨む。
「まだ早いでしょ。エッチね」と囁いた。

 伊能たちの横では、由美が「まだ早いでしょ、エッチねえ」と言いながら、ぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねていた。

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75 国家の誠意

 伊能たちの勾留は12日だった。

 取り調べでは全員が真実を語った。
 警察を馬鹿にしているのかと、激昂する刑事もいた。

「異能力」「ネットに存在する少年の意識体」「カラスの王様」「千代田区を対象とした生物テロ」「多重人格の殺人鬼」など刑事でなくても理解し難いだろう。

 しかし、一つ一つが客観的に裏付けられていく――。

 回収したGB缶は、確かに兵器級の威力があった。

 開発した三上准教授は、その世界では超一流の学者だった。

 事件の前日、自宅の火災で死んでいる。研究所のような造りの建物で、普通ではない激しい燃え方をしていた。遺体も完全に炭化して、一切研究書類らしきものは残っていなかった。

 事件当日、千代田区にカラスが異常集結していたことも、すぐに確かめられた。ジュースの缶を捨てた人間が、数人カラスに突かれて軽傷を負うという事故も起きている。

 二宮は確かに警視庁本庁ビルから飛び降りて死んでいた。
 警戒の厳しい本庁の中を、どうやって屋上まで上ったのだろうと大きな疑問が残った。

 「ネットの意識体」は本人である長野希が、植物状態から5年ぶりに意識を回復したことで、「奇跡譚」としてマスコミにも取り上げられた。
 意識を回復した時間が、希が消滅したと伊能たちが言っている、10月31日午前10時30分だったことも奇妙だった。警察は希のところにも行ったが、こん睡状態の頃の記憶は全く残っていなかった。

「異能力」に関しては、伊能たち全員から能力が消えてしまったため、実証のしようがなかった。

 12日間勾留されたのは、国家としてこの事件をどう扱えばいいのか苦慮したための時間だろう。

 最後の三日間は、容疑者というより賓客のように丁重に扱われ始めた。

 最初は留置場もバラバラにされた5人だったが、最後の三日間は一緒だった。

 釈放の日、年配の看守がきて牢屋のカギを開けた。
 そして、恭しく一礼して「本当に有難うございました」と言った。

 私物を返してもらう時も、やはり年配の係員で、伊能たちに深々とお辞儀をしたのが印象的だった。

「まだ時間がある。皆こっちにきて話そうや」
 伊能たちの取り調べの指揮を執っていた警察幹部が自室の応接間に招いた。

 全員が座ったところで、堂園と名乗るその男がつらそうな表情で
語り始めた。

 鼻も耳も潰れている、いかにも修羅場をかいくぐってきたタイプの刑事だ。
 喋り方も突き放すような感じがある。

「俺は、お前らの言うことを信じることにした。だけど、お化けは信じねえぞ。とにかくお前らの話は馬鹿げているし、滅茶苦茶だが、全て裏が取れる。だから、お前らは日本を救ったヒーローだ。こんなに凄いヒーローはテレビにもいないだろう」

 堂園はそこで言葉を切って、煙草に火を付けた。爪が脂でまっ黄色になっている。土岐といい勝負のヘビースモーカーらしい。

「1本もらえますか?」
 土岐が言うと箱ごと寄こした。

 煙を天井に向かって吹き出しながら話を続けた。
「だが結果として、今回の事件はすべて闇に葬ることになった。だってそうだろう。お前らの話を国家が認めたら、大変なことになる。だから事件の存在をすべての記録から抹殺する。須賀のところの若い衆もチャカを持っていた奴は、少し臭い飯を食ってもらうが、他の公防(公務執行妨害)でパクられた連中はすべてパイ(保釈)だ」

 伊能が口を開いた。
「俺たちは誰かに褒めてもらいたいとか、有名になりたいとか思ってやったわけじゃないですから、そうして戴いて結構です」

 警察官が部屋に入ってきて「車の用意ができました」と伝えにきた。
「じゃあ、そこまで送りましょう」

「いや、僕ら自分で帰れますよ」

「まあそう言わないで、これは本当にささやかな気持ちですから。あ、さっきあなた達を牢屋から出した看守がいたでしょ?」

「はい、年配の感じのいいお爺さんでしたね」

「あの方が警視総監です」

「ええ!」
 伊能たちは飛び上るほど驚いた。

「私物をお返ししたのが、警察庁長官です。公的に貴方達に何もしてやれないので、せめて……そんな気持ちを察してください」

 伊能たちは2台のパトカーに分乗して乗り込んだ。
「一か所寄り道しますけど、すぐ終わりますから」

 パトカーはサイレンを鳴らしてスムースに走った。
 そして警官が門を警備する大きな屋敷に入って行った。

「ちょっと車を降りましょう」

 降りた伊能たちに、屋敷の一角を指差した。
 大きな窓に白髪の老人が立ってこちらを食い入るように見つめていた。

「総理大臣!」
 伊能が気付いて思わず直立不動の姿勢になった。
 他の者も慌ててそれにならう。

 総理は伊能たちに向って、神仏を拝むように両手を合わせ、深々と礼をした。

 どぎまぎしながら伊能たちも頭を下げる。
 しばらくして頭を上げたら、まだ総理は頭を下げていたので、慌ててもう一度頭を下げる。

「さて行きましょうか。どこに行けばいいですか? お好きなところで降ろしますよ」

 伊能たちは暫く声もなかった。須賀などは感涙にむせている。
 それでも行き先を聞かれて、お互いの顔を見た。

 全員が同じところに行こうと思っていたのだ。
「帝都大学付属病院にお願いします」

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74 永遠の90秒

「駄目だ! あの高さじゃ、落ちた瞬間にGB缶が破裂する!」
 伊能も苦痛の表情で叫んだ。

 すでに肉体も精神も限界を超えていた。
 全身の神経や脳が白熱して、溶解していく感じがする。

 それでも伊能は必死で、落ちていく小さな缶を、上空500kmの距離から軍事衛星のカメラで捉え続けた。


 YUKIは歓喜の表情を浮かべて、狂ったように笑っていた。

 突然身体が、意志とは関係なく動き始めた。
 操り人形が踊っているような、ぎくしゃくとした動きだ。

 笑いやんだ。
 いや、顔の半分が笑うのを止めた。

 顔の右半分は、唇を吊り上げて笑うYUKIのままだ。
 しかし左半分は、哀しげだが決意を秘めた男の顔になっていた。
 二宮の顔だ。

 唇の左側だけが動いて、二宮の声で喋った。
「半分なら取り戻すのは簡単だ」

 静かな声だった。
「さあ、一緒に行くんだ」

 二宮の声に、右側のYUKIの顔が恐怖に歪んだ。


 伊能たちは全員が手を繋いだまま、呼吸することも忘れて、伊能が見せる映像を見ていた。

 銀色に輝く缶と重なるように、地上を歩く人々の姿が映り始めた。

 全員が、お互いの絶望を感じた。
 繋いだ手から、絶望までが増幅されて流れ込んでくる。

 落ちる!
 全員が身体を強張らせた瞬間、映像の中を黒い影がよぎった。

 1秒か2秒、映像が途切れた。
 伊能が再度目標を捕捉するまでの時間だ。

 GB缶は地上に触れることなく、空に向かって上昇していた。
 地上に落ちる寸前、カラスの王が舞い降りてきて、獲物を捕えるように缶を掴んだのだ。

 ――まるで鷲だとタケトは思った。カラスの王様じゃなくて、きっと鳥の王様だ。
 なぜか、涙が流れて止まらなかった。

 伊能が時計を見た。
「タケト! 王様に缶を離すように言ってくれ。万全、いやレッドはあの缶に全力を集中しろ!」

「どこに向かって動かすんですか?」
 そう聞きながら、万全の髪が早くも蠢きはじめている。

「上だ! とにかく上へ向って、有り得ないほどのスピードを出せ! イメージを強く持つんだ。あの糞ったれGB缶なんか、一瞬で宇宙までぶっ飛ばしてやるってな」

「で、でも……」

 不安そうな万全を伊能が怒鳴りつけた。
「俺たちの能力は、もともとが有り得ない力じゃねえか。ということは何でもあり得ると信じろ」

 最後は語りかけるような口調になっていた。
 万全を見る伊能の眼は優しい光を湛えていた。

「やります! やってみます、ブルー」

「土岐さんは、俺たちに時間をください。出来るだけ長く引き延ばして下さい」

「分かった。やってみる」

「希君、これが最後だ。君にこんなこと頼むのは辛いんだけど……」

「うん大丈夫。僕の全てで、皆の力になります」

「俺たちに残されたのは一分半、90秒だ!」

 レッド(万全)、ブルー(伊能)、ピンク(土岐)、ブラック(タケト)、ホワイト(須賀)のコスチュームを着た5人が、もう一度固く手を繋ぎなおした。


 イエローを着るはずだった男は、自分の中のYUKIを道連れに、警視庁の屋上から宙に身を躍らせた。

 最後の瞬間、二宮の心は正義のヒーローだった。
 YUKIなど、どこかに消し飛んでしまったのだ。


 フル装備の警官隊を相手に、素手で戦ってきたヤクザたちも残り僅かになった。

 伊能たちに殺到しようとする警官隊に向かって、ついにヤクザたちは拳銃を抜いた。
 威嚇するように構える。

 警官たちにどよめきが起こった。

 ヤクザの拳銃に驚いたのではない。
 ヤクザの背後に固まっている戦隊ヒーローたちに驚いたのだ。

 5人の中で赤いコスチュームの小さな男だけが、マスクをしていなかった。

 突然その大きく禿げた頭頂部から、強烈なピンク色の光線が空に向かって放射された。

 大空に吸い込まれていく光線を、警官たちもヤクザたちも呆気に取られた表情で見つめていた。


 いったいどれだけの時間が過ぎたのか?

 誰にも分らなかった。
 何時間なのか、何日なのか、それとも何十年も過ぎたのか?
 時間感覚の消失。

 分かっているのは、万全が何百回も丸禿になったことと、GB缶がロケットのように上昇を続けていることだけだ。

 万全の髪の毛が、見る間に抜けおちていく。
 ぼぼぼぼぼと抜けていく音が聞こえるほど凄まじい。
 あっという間にツルツル頭になる。
 すかさず禿げたところから、にょろにょろと毛が生えてくる。
 そしてまた抜け落ちていく。
 脱毛と発毛の無限のループだ。

 異能力を使うと毛が抜けるのか、毛が抜けると異能力が使えるのかは謎だ。
 どちらにしても抜ける毛が無くなったら、万全の異能力は使えないらしい。

 希は万全に入り込み、髪の新陳代謝を極限にまで高めた。

 万全だけではない。
 希は全員の中にいた。

 ヒーローに憧れ、純粋にセイギを信じるココロ。
 幼い頃、男の子が誰でも持っているココロ。
 全員がそれを感じていた。

 希は限りなく力を与え続けた。
 そして限りなく消耗していった。


 ふいに伊能が手を離して言った。
「終わった……やったぜ! もう宇宙のゴミくずだ……」
 そう呟いて崩れ落ちるように倒れた。

 大の字になって空を見上げる伊能の目から、涙が溢れていた。

 土岐も顔を両手で覆って泣きじゃくっている。

「ありがとうって言ってましたね」
 タケトがそう言って、膝を抱えて座り込んだ。
「完全に消えてしまうまで、ありがとう、さようならって言ってたよ……」 

 希は消滅した。
 その瞬間を全員はっきりと感じていた。
 土岐によってぎりぎりまで引き延ばされた90秒間の最後の1秒だった。


 我に帰った警官たちが猛烈な勢いで殺到してきた。

 抵抗しない伊能たち5人を、乱暴に地面に押さえつけ手錠をかける。
 ヤクザたちも拳銃を捨て、おとなしく逮捕された。

 いつの間にか野次馬が集まっていて、特撮ヒーローのコスプレをした男たちが連行されていくのを笑いながら見ていた。

――マスクをしていて良かった。
 万全以外の4人は同じことを思っていた。


「ご臨終です」
 医師がそう告げても、母親は少年との添い寝を止めなかった。
 医師の声など聞こえていないようだ。

 父親はがっくりと椅子に腰をおろした。
 医師はちらりと看護師に目配せして、形だけの礼をして病室を出て行った。

 それからどれだけ時間が過ぎたのか。
 母親は少年をきつく抱きしめたり、髪を撫でたりしながら何かを語り続けていた。

 他愛のないことばかり。

 あなたが生まれたとき、どんなに嬉しかったか。
 あなたはお魚とピーマンが嫌いで困ったこと。
 中耳炎になった時、あんまり痛そうに泣くので、私まで泣いたこと。
 あなたはとってもやんちゃだったけど、本当に優しい子だった。
 あなたは一番大事なママの宝物。
 あなたのママになれて良かった。

 悲し過ぎて、どうしようもなくなって、少年の冷たい頬に自分の頬を擦りつけた。

 堪らなくなってきて、力一杯ぎゅっと少年を抱きしめた。

 そのとき何かが聞こえた気がした。

 胸のあたりで何かが動き、何かを言ったような気がした。
 母親はおそるおそる掛け布団を持ち上げて、中を覗き込んだ。

「ママ? 苦しいよお」
 胸に押しつけた希が、希の目が開いてこちらを見ていた。

 5年以上開くことのなかった希の大きな瞳が、昔と変わらない悪戯っぽい光を湛えて母親を見ていた。

 母親は拳を口にあてた。
 そうしないと叫びだしてしまいそうだった。

「ああ神様、神様のおかげなの! こんなことって……ああ、希!希! 目を瞑っちゃダメよ。絶対目を閉じないで!」

 父親も何事かと来て、希を見た。

「あ、パパもいる」
 狼狽した父親はいきなり病室から駆け出し、臨終を告げた医師を呼びにいった。

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73 そして死が、宙に舞った

 YUKIはGB缶(生物兵器)を取り出した。
 スイッチを入れて足元に置く。

 散布が始まる直前に、思いきり蹴とばして下に落とすつもりだった。その方が広く散布できるだろう。

 YUKIは突然背後に強烈な視線を感じた。

 小型の拳銃を握り締めて、素早く振り向く。
 誰もいなかった。大きなカラスが1羽いただけだ。

 YUKIは苦笑しながら拳銃をしまった。

 感覚の鋭いYUKIには珍しいことだった。
 人間の視線とカラスの視線を間違えるとは……。

 YUKIが視線を外しても、カラスは黒ダイヤのような眼で、じっとYUKIを見ている。
 気のせいだろうが意志的なものを感じて、少し気味が悪かった。

 細身の煙草を1本口にくわえた。
 そしてさりげなく横目でカラスを観察した。
 相変わらずYUKIから目を離さない。

 ――それにしても大きなカラスね。こんな大きいカラスは初めて見たわ。目つきも獰猛だし、ちょっと怖いわね……。

 突然カラスが動き出した。
 飛び立つのではなく、のっしのっしという感じでYUKIの方へ歩いてくる。

「しっ! しっ!」
 手で威嚇するようにしたが、気にする気配もない。

 なぜかYUKIを睨みつけたまま、時折背中を膨らませながら、のっしのっしと歩いてくる。

 実はYUKIは鳥類が苦手だ。鳩でも嫌なのに、こんな化け物カラスには恐怖を感じてしまう。

 思わず一歩二歩と後ずさりしていた。
 内側にいた二宮はこの機会を逃さなかった。

 一気にYUKIと交代を図った。
 人格交代の瞬間、YUKIの顔が驚きに一瞬歪んだ。
「おのれ! 二宮かああ!」

 YUKIが言葉を発し終える前に、二宮が表に出ることに成功した。当然YUKIは二宮の意識の底に落ちていく。

 二宮は屋上の端に行った。
 周りの景色、今いるビルの入口を見て自分がどこにいるのか分かった。

 YUKIの携帯を取り出して伊能に電話した。
 伊能は二宮の声を聞いてひどく驚いているようだった。

 しかし、嫌悪している感じがなかったので、二宮は涙が出るほど嬉しかった。
 話したいことはいくらでもあるのだが、時間がなかった。

「伊能さん、二宮です。色々とごめんなさい」

「二宮、そのことは今度話そう。きっと医者がお前の力になってくれるはずだから。それより今は時間がない。今自分が何処にいるかわかるか?」

「はい、ここは霞が関の警視庁ビルの屋上みたいです」

「周りに小さな銀色の缶が見当たらないか?」

 二宮は屋上を見渡した。
 ぎょっとするほど大きなカラスが1羽いて、そのすぐそばに銀色の缶があった。

「ありました!」

「二宮よく聞いてくれ。そして急いで行動してくれ。時間はあと3分しかない。その缶の上に赤いスイッチがある。おそらく今は押し込まれている状態だ。それを指でつまんで引き出してくれ。それが終わったらそれを持って警視庁から出てきてくれ。こちらは入っていけないからな」

「分りました。いますぐやってみます。電話はこのままでいいですか?」

「ああ、分らないことがあったらすぐ聞いてくれ」

 伊能の後ろから懐かしい万全の声が聞こえてくる。
「二宮君なら僕も話したいなあ、タケトだって話したいよね」

 まるで親が子供を叱るような口調の土岐の声も聞こえて来た。
「いいかげんにしろ! 今は時間がない。話なんかあと、あと!」

 ほんの数日会っていないだけなのに、それらの声はひどく懐かしかった。ひどく温かかった。そして遠かった。

 伊能は電話からしばらく二宮の声が聞こえないのが気になった。
「どうだ? 二宮うまくいってるか?」

 聞こえてきたのは、ぞっとするような笑い声だった。
 その嘲るような笑い方に覚えがあった。

「YUKIか?」

「おひさしぶりねえ、伊能さん。二宮君はもう二度と現れないでしょう。私の隙をついたけど、あなた達のことを思い出して涙ぐんでいる間に、簡単に取り戻すことができたわ」

 伊能は話しながら、懸命に警視庁本庁舎ビルの屋上の映像を探していた。
 軍事衛星の精密映像にそれを見つけ、急いで拡大し焦点を合わせていく。やがて携帯電話で話しているYUKIの姿を見ることができた。

「そろそろ散布の時間ね。わくわくするわね」

 YUKIの足もとに銀色の缶があった。

 YUKIが足を大きく振りだすのを見て、伊能は大声で叫んだ。
「やめろ! それだけはやめろ!」

 YUKIに蹴られた缶は屋上のフェンスを高く越え、大勢の人間が出入りしている玄関前に向かって落下を始めた。

「あの高さじゃ、落ちたら缶が破裂するぞ!」
 土岐が珍しく顔を歪めて叫んだ。

 YUKIが狂ったように笑っていた。

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72 ラストワン

 AM10:17

 退避行動まであと3分。

 伊能たちを逮捕しにきた警官隊と、少しでも時間稼ぎをするために抵抗する、ヤクザたちとの争いはすでに乱闘状態になっていた。

 囲みを突破して何人かの警官が伊能たちの近くまで来た。
 しかし際どいところで、須賀の部下たちの捨身の抵抗に食い止められていた。

 ついに発見数が19個に達していた。
 あと1個である。ただし、その1個が数万人を殺す能力を秘めている。

 能力を限界以上に使っている伊能の顔は、僅かな時間で一気に年老いたように見える程やつれていた。

 その表情や口調に、焦りの色がはっきりしてきた。
「土岐さん、あと3分で退避時間です。皆を連れて急いで避難してください」

 土岐はポーカーフェイスを意地でも崩さない。
 しかし、咥えたタバコは逆で、唇から力無くぶら下っている。

 土岐は疑わしげな眼で伊能を見た。
「お前も一緒だろ?」

「いや、俺はもうちょっとだけ探します。皆は危険ですから地下に避難してください」

「悪いが、俺も同じことを考えていたんだ。ここまできて後に引いたら、一生ギャンブルで目が出ない気がする」

 須賀が伊納と土岐の方へ急ぎ足でやってきた。
 目の輝きが違う。おそらく希君のほうだと、伊能は思った。

 早口で、ちょっと舌足らずな話し方はやはり希だった。
「最後の1個ですが、もしかすると、YUKIが持っているんじゃないかな? YUKIなら誰にも見られずに設置できるし」

 伊能はしまったという顔になった。
「そうか! YUKIは二宮の能力も使えるのか!」

 土岐が腕組みして、溜息混じりに言った。
「YUKIと二宮は同一人物なんだろ? しかし、俺には二宮が悪人だとはどうしても思えない。というより匂わないんだ……」

「希君、二宮の人格に呼びかけることはできないかな。俺たちに呼びかけるように……おそらく今はYUKIだろうが、心の奥では二宮が眠っているはずだ」

「できるかどうか……でも試してみます」


 その頃YUKIは警察機構の中心部にいた。

 通称桜田門と呼ばれる、霞が関2丁目にある警視庁本庁舎ビルだ。
 二宮の「見られない」能力を最大限に生かし、誰にもとがめだてされずに屋上まで登ることができた。

 YUKIは三上の家から、生物兵器用の防護服を一着持ち出していた。散布が始まったら着込むつもりだ。

 少なくとも、今日一日は警視庁の屋上という最高のロケーションで、この空前のテロがもたらす死や破壊を見物しながら、パニックに陥った人間たちの惨めなショーを楽しむつもりなのだ。

 ドラッグでもこれほどハイな気分になったことはない。
 YUKIは上機嫌で、これから死の街に変わるはずの眼下の風景を楽しんでいた。

 YUKIは気付かなかったが、YUKIが意識の底に閉じ込めて、もう二度と目を覚まさないはずの二宮が、このときにふと眼を覚ました。

 どこからか聞こえてきた、二宮を呼ぶ幼い子供の声に起こされたのだ。

「希君?」
 希のメッセージを受け取った二宮は、ひどく恥ずかしかった。
「僕は何をやってるんだろう? 皆が必死で戦っているのに、僕だけが逃げていた……」

 二宮は意識の外に出ようとしたが、表に出ているYUKIには隙がなくて難しかった。

 二宮がもう決して表には出ないと決め、YUKIに全てを譲ったのは、須賀や伊能たち、サラマンダーの仲間を自分が裏切ってしまったことをYUKIから知らされたからだ。
 さらにYUKIは殺人まで犯しているという。

 いくら知らなかったとはいえ、自分が殺人者で、さらに仲間を裏切っていたとは……。

 二宮にとって、伊能たちは初めての仲間と呼べる相手だった。
 その伊能たちが、自分の助けを必要としている。いまどこにいるのかを教えるだけでいいのだ。

 なんとかしたかった。時間もないらしい。

 暗く冷たいYUKIの意識の奥で、二宮は祈るような気持ちでチャンスを窺った。

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71 異能戦隊サラマンダー

 AM10:00

 日比谷公園の7か所の入り口から警官隊が突入した。

 通報によると須賀たちは大噴水あたりにいるらしい。
 日比谷公会堂、大音楽堂、テニスコート、花壇や池の方向から、須賀一味を押し包むように突入した。

 しかし、昼前の日比谷公園は閑散としていて、やけにカラスばかりが目に付いた。
 須賀たちはどこにもいない。

 肝心の大噴水では、特撮ヒーローショーが行われていた。
 平日の昼間だというのに、オタク連中が集まっている。

「いい年して、こいつら働いてないのか?」
 フル装備で汗だくになって走ってきた警官たちは、いまいましげに眺めていた。

 ヒーローショーはオタクたちの人垣でほとんど見えない。時折、赤やピンクの衣装が見えるくらいだ。

「どうもガセ情報らしいな……畜生め! 人騒がせな野郎がいたもんだ」

 ヘルメットを脱ぎながら、口惜しそうに吐き捨てた警官が、ショーの方を見て訝しげな顔になった。

「おい、このショーは何かおかしいぞ! どこにも看板がない。ポスターやチラシもない。大体ショーだというのに、音楽もないし司会者もいない。マイクすら無いじゃないか!」

 その警官は緊張した表情になって、ショーの人だかりに向かって歩いて行った。

 人垣の一番外側にいるオタクに声をかける。
 やけにでかいオタクだった。
 まるで格闘家のように獰猛な体つきに見えた。

 しかし、服装が珍妙だった。
 ど派手な緑色に光る、電飾付きのカエルの帽子を目深にかぶっている。
――よくこんな帽子をかぶれるもんだ。
 内心呆れながらも、顔の汗をタオルで拭いながら、気安い調子で声をかけた。

「これは何のショーなんですか?」

 カエル帽子の男は、こちらを振り返りもせずにぼそっと答えた。
「えーっと、確か落武者戦隊ハゲテンジャーかな」

 そのドスのきいた声、喋り方をきいて警官は、改めて周りを見回した。

 そこにいる全員が背を向けている。
 しかし、全神経をこちらに対して研ぎ澄ましているのが分かった。

 良く見ると、ジーンズに蛇皮の雪駄履きの男とか、首にも腕にもやたらに太いゴールドの鎖を巻いている男とか、なんかチグハグだった。

 警官はさりげなく立ち去り、途方に暮れている上司に報告した。
「噴水のところにいるオタク連中は怪しいです。ひょっとすると、あれは全員がヤクザ者かもしれません。連中が輪になって取り囲んでいる中に須賀たちがいるんじゃないでしょうか」


 AM10:00

 法務省や検察庁、裁判所などが集中する霞が関1丁目。

 街角に置かれた自販機の前で、二人の男が缶コーヒーを飲んでいた。ごく普通の勤め人に見えた。

 10時になると男たちは時計を見ながら、ビジネスの約束でもあるかのようにそそくさと立ち去った。

 空き缶を捨てる際、ゴミ箱の裏側に銀色の缶を隠すように置いた。

 誰にも不審を抱かれることのない、自然な動作だった。

 しかしカラスたちの眼は見ていた

 ビルの上から、街路樹の枝から、カラスたちの数十個の眼が、男たちの行動を見逃さなかった。

 置き去られた銀色の缶の周りに、カラスたちが数羽舞い降りてきて「ギョエーギョエー」と喧しく鳴き喚いた。

 どこからか、別の二人の男が現れた。
 銀色の缶を大きな魔法瓶のようなものに入れた。

 一人の男がカラスたちに手をあげた。
「サンキュー、カア公」


 伊能たちは極度に集中していた。
 警官隊のことは完全に意識にない。

 10時を過ぎてから矢継ぎ早に、回収成功の報告が入り始めた。

 約10分の間に、15個が回収された。

 カラスたちの活躍は思った以上だった。
 半分以上がカラスのおかげだった。


AM10:10

「あと5個だ! どこだ? 土岐さん、何か見つからないか?」

「今、もう少し範囲を広げられないかやっているところだ。ところで伊能、屋内ってことはないのか? ビルの中で空調とか狙われたら、カラスたちにも見つけられないぜ」

 須賀の部下が二人同時に叫んだ。
「回収!」

「これで17個。あと3個だ!」
 伊能がそう言いながら時計を睨んだ。

 伊能たちを守るように取り囲んでいるヤクザ達の方で、激しい怒号が聞こえてきた。

 やはり警察には見破られたと伊能は苦笑した。
 しかし怯む気持ちは全く無かった。
 逆に覚悟が決まって、すっきりした気分だった。

――とにかく今は集中しなければ。皆、あと15分持ちこたえてくれ。これが終わったら、刑務所に送られても、死刑になっても構わない。我ながら身勝手に生きてきた俺が、知らない誰かの為に命さえ懸けようとしている。馬鹿臭いと思うけど、俺は俺の人生の中で、初めて正しい事をしている自信がある。意味もなく殺されようとしている人がいたら、精一杯助けようとする。誰が何と言っても、それが正しいことだ。
できれば今の俺を真澄に見てもらいたい……。

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70 出撃

 AM7:00

「出撃じゃ!」
 須賀の声に全員が一斉に立ち上がった。

 須賀の部下が伊能を呼び止めて、紙袋を差し出し中身を見せた。
「昨日、秋葉原で買い集めた衣服の中に混じっていたんですが……必要ないですか?」

 伊能は少しの間黙り込んだ。
 やがて何かを思いついて顔をあげた。
「使えるかもしれない。一応持ってきてください」


 千代田区は、昼間人口と夜間人口の差がもっとも激しい区だ。
 夜間人口(居住者)は4万4000人と23区で最も少ない。
 ところが昼間人口は約19倍の85万人に膨れ上がる。
 その差は約80万人。

 その人数の大部分が、朝の通勤ラッシュに揉まれながら出勤してくる人間だ。

 この朝、その約80万人の中に、千人足らずの偽オタクたちが紛れ込んだ。

 付け焼刃的な扮装なので、相当おかしなものも多い。
 オタクというより、ただの変質者に見えるものもいる。
 それでもヤクザには見えなかったので、全チームが無事に配置についた。


 AM8:30

 霞が関に出勤してきたOLたちが不安そうに空を見上げた。
 無数のカラスが、空を縦横に飛んでいた。
 注意して見ると、信号の上、道路標識の上、自販機の上、ビルの看板など到る所で羽を休めている。

「ねえ、こんなにカラスって多かったかしら ?なんか変じゃない?」

「ホラー映画みたい……気味が悪い」

「まさか地震とか起きないよね?」
 そんな会話を同僚と交わしながら官庁ビルに入って行った。

 他にも不安げに空を見上げる者は多かった。
 しかし、これだけのカラスがいながら、ほとんど鳴き声をあげていないことに気が付いた者は僅かだった。

 伊能たちは日比谷公園にいた。
 大噴水の淵に5人並んで腰かけた。
 さりげなく手を繋いでいる。

「じゃ土岐さんフルパワーで始めましょう!」

 伊能と土岐はそれぞれの異能力を発動させた。
 土岐は嗅覚で、伊能は監視カメラ等の映像から、テロリストのサーチ(探索)を始める。

 希の力が流れ込んでくる。
 伊能も土岐も極限まで能力が高まるのを感じていた。


 帝都大学病院の一室では、困惑する医師を無視して、少年に繋がる全てのチューブを取り外していく母親がいた。

 外し終ると、母親はそっと少年の傍に横たわり、きつく抱きしめた。どんどん冷たくなっていく体を抱きしめ続けた。

 AM9:00

 警視庁に1本の電話が入った。

「サラマンダーの事件で手配されている男が日比谷公園にいる。変な髪形の危ない奴だ。一緒に手配されているヤクザの組長らしき男も一緒にいる」という情報に警察は色めき立った。

「須賀が一緒だとすると抵抗する恐れがある。組員たちが一緒かもしれない。拳銃の携帯、防弾チョッキ、盾の装備など態勢を整えて逮捕に向かえ!」
 即座にフル装備の警官約100名が準備された。

 AM9:20

「伊能! 国会議事堂周辺に、カメラを集中させてくれ!」

 土岐の叫びに伊能は国会周辺のすべてのカメラ映像を映し出した。

「あれだ。中国人風の二人。手にガイドブックらしきものを持っている! 観光客を装っている。一人は長身、小太り、ベージュのジャンパー、紺のズボン。一人は長髪、小柄、赤いセーター、白いズボン!」

 須賀の部下が携帯電話でその方面に連絡する。

「霞が関A―4出口! 日本人2人組。茶髪、中肉中背、黒っぽいスーツ、大きな黒いボストンバッグ、もう一人は灰色の作業服、サングラス、短髪、小柄!」

「東京地検前! 外国人風、イラン人かな。短髪、黒髪、長身、白長袖トレーナー、ジーンズ。もう一人も外国人。同じくイラン人かもしれん。野球帽、紺のジャンパー、紺のズボン、小柄だがデブだ!」

 伊能の見せる映像から、異臭を嗅げるまでに土岐の能力は高まっていた。
 要チェック人物を土岐が次々に特定していく。
 連絡を受けた偽オタクたちは、該当者を発見して尾行を始める。
 伊能の能力と土岐の能力は完全に連動し始めていた。

 AM9:40

「現在までに11組発見です!」
 須賀の部下が叫ぶ。

 何か言いかけて、かかってきた電話に出た。
 電話を終えると蒼白な顔になって叫んだ。

「警視庁近辺に配置したチームから連絡! 警官隊が緊急出動しました! 100人近くの大部隊です。目的地は日比谷公園方面。サイレンを鳴らさずに向かっているとのことです!」

 伊能はちっと舌打ちをした。
「見つかったか! やっぱり警察は敵だな。別動隊を急いで集めて俺たちの周りをガードしてくれ。2、30分食い止めてくれればいい。俺たちは急いでこれに着替えるぞ!」

 伊能は先ほど須賀の部下に見せられた紙袋を指差した。

 中を覗き込んだ万全が歓声をあげた。
「わーい! 戦隊物のコスチュームだ!」

 渋い顔の伊能や土岐と対照的に、万全とタケトは嬉しそうだ。
「これから、異能戦隊サラマンダーのコスプレショーだ! 顔も隠れるしな。別動隊はファンのふりをして俺たちをしっかりと取り囲んでくれ!」

「俺って何色だっけ?」
 土岐に万全が答えた。
「ピンクです!」

「ええええ! 別の色じゃダメか?」
「駄目ですよぉ。決まりですもん」
 苦い顔でピンクのコスチュームを土岐は着始めた。

「うぐぐぐぐぐぐ」
 万全が苦しそうな声を上げた。

 頭を覆うマスク部分に頭がどうしても入らない。
 ボディはぶかぶかなのに。

 伊能が呆れた声を出した。
「なんで、そんなに頭がでかいんだ?」

「あ、頭がでかいのは万全家の唯一の誇りです!」

 10時が迫ってきた。
 そのとき、日比谷公園に警官隊が突入を開始した。

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69 兆し

 その日の朝、YUKIは空を見上げ、やけに多くのカラスを目にして思わず微笑んだ。

 手配は完璧に終えている。
 今日、未曽有のテロが行われ、この国は混沌に陥るだろう。

――カラスは死者の出るところに集まってくる。素晴らしい兆しだわ。

 AM5:00

「最後の確認です」
 伊能が須賀の4人の部下を含めた全員の前で話し始めた。

「須賀さんの部下、待機組を除いた880名。これを2名ずつ440組のチームに分けました。このうち400組は先ほど説明した通りの場所に待機してもらいます。現場到着は8時30分」

 伊能が指したホワイトボードには、永田町20組、霞が関20組、丸の内20組など地域別の動員数。国会議事堂、首相官邸、検察庁、法務省など建物別の動員数など細かく記してあった。

「武器の携帯については最後まで悩みましたが、敵2名に対してこちらも2名で当たることを考えれば、やむをえないという結論に達しました。ただし目的はテロリストを捕えることではありません。所詮彼らはこのテロだけに雇われた者にすぎません。目的はGBという生物兵器の回収です。回収方法については――」
 伊能は再びホワイトボードを指した。

「缶の上部にある赤いスイッチ。これが押し込まれている状態がONの状態です。これをつまんで引上げる。それでOFFになります。目覚まし時計と同じ、単純な構造です。ただし念のため各チームで用意した大型の密閉型ポットに必ずしまってください」
 伊能は言葉を切って、皆の顔を見渡した。

 どの顔も決意に満ちていた。
 万全ですら凛々しく思えたほどだ。

「行動時間は10時20分まで。10時20分になったら速やかに退避行動を取ってください。基本的には地下鉄で、地上は危険が大きくなります。俺と伊能さんは別々に行動したほうがいいと最初は思いましたが、俺たちが繋がることでの能力の増幅を考えて、一緒にいることにしました。俺たちがいる、いわば作戦本部は日比谷公園に置きます。残る40組80人の方には、別動隊としてそれぞれオートバイで各所に待機してもらいます」

 ふと窓から外に目をやって伊能は「あっ」と声を上げた。
 皆が一斉にその方を見た。

「凄い……」
 全員が一斉に同じ呟きをもらした。

 タケトは窓際に駆け寄って声もなく見つめている。

 外は明るみ始めていた。
 遠く千代田区のある方向の空に、無数の黒い点が固まって、そこだけ真黒な雲がかかっているように見えた。

 伊能は力強く言葉を続けた。
「特にカラスに注意するように! カラスが騒いでいたら、すぐにその場所へ行ってください。最後に隊長から一言お願いします」

 須賀が少し照れくさそうに立ち上がった。
「えー、おほん」と咳ばらいをしたとたん止まらなくなった。

「えーほ! えほげほげほほほへええへへへ!」
 ひとしきり咳きこんでから、急に真顔になって言った。

「本来は希君から何か言ってもらうべきなんじゃが、その時に備えて希君には力を溜めてもらっておる。わしからは一言だけ!」

 須賀は80歳を超えた老人とは思えない気迫を籠めて全員を見回した。
「正義の力じゃ!」

 須賀はひとり感極まった顔になった。

「討ちてしやまん! 鬼畜米英じゃ! 断じて事を行えば、鬼神もこれを避けるじゃ! 欲しがりません、勝つまでは! 一人一殺! 毒を食らわば皿までも!」

 伊能が慌てて須賀を止めた。
「とにかく……まあそんなことだ! 皆、いっちょう、やったろうじゃないか!」

 おお!というウォークライが響き渡った。
 時刻は6時に近付いていた。

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68 前夜

 伊能たちが部屋に戻ると、須賀の4人の部下たちがひっきりなしにかかってくる電話と格闘していた。
 オタクに変装せよとの指示にとまどった、ヤクザ達からの電話だ。

 たちまち伊能たちも巻き込まれた。

 一人が叫ぶ。
「伊能さん! つるつるに頭を剃っていて、でかい蜘蛛の刺青を入れてる奴がいるんですが、どうしましょう?」

「帽子、野球帽をかぶってください!」

 別の男が叫ぶ。
「鰐皮のスニーカーはダメですか?」

 万全が答える。
「だめです! 普通のにしてください!」

「右手の指が1本、左手の指が2本足らないんですが?」

 土岐が苦笑いしながら答えた。
「手袋してください。アニメキャラ付きの!」

「顔に大きな切り傷が……ちょっと待ってください……おう、何? バッテン? ああ、そりゃひでえな。すみません顔にバッテンの大きな切り傷があるんですが?」

 伊能たちは顔を見合わせた。
「待機!」

 男は肯いて電話に向かった。
「お前は待機だ! 外には出るな!」

「女装はダメですか? 本人の趣味らしいんですが?」

 伊能がため息をついた。
「その人の体格は?」

「はい、いま聞いてみます。お前、ガタイは? なにい! 195センチ、120キロ?」
 伊能が呆れて手を振った。
「だめだめ! 待機!」

 須賀が叫んだ。
「破門じゃ! なんじゃ女装趣味とは! うつけ者め!」

 伊能が土岐に向って言った。
「土岐さん、ちょっとここ任せていいですか? 俺は明日の配置を考えますんで」

「ああ、まかせろ」

「タケトと万全も頼むな」
「はい!」
 タケトが元気良く返事した。
 万全は何か不満そうだ。

 伊能は言い直した。
「頼むぞ、レッド!」
「はい!」
 万全が誇らしげな表情で返事をした。

 帝都大学病院の一室では、目覚めぬ少年の手をさすり続ける母の姿があった。

「危篤状態と考えてください」
 医師がためらいがちに言った言葉は、まるで聞こえていないようだった。

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67 百万羽のカラスと千人のオタク

 希からテロ計画の全貌を知らされた後、しばらくだれも発言できなかった。

「バイオテロってやつか……」
 伊能が呻くようにつぶやいた。

「これは……俺たちじゃどうしようもない」
 土岐がそう言いながら時計をちらりと見て、先を続けた。
「おおよその場所が分かったとはいえ、明日の午前十時に千代田区内20か所で一斉に生物兵器の拡散が始まる。しかもそれが小さな銀色の缶だ。今が午後3時、たった19時間後だ。警察や自衛隊に動いてもらうしかないだろう?」

 伊能が首を振った。
「それは二つの理由で出来ません。まず、この話をどうやっても、国家権力に信じさせることができないということです。情報の入手経路一つとっても、希君の存在をどう説明します? ましてや俺たちは立派なお尋ね者です。もう一つは、こちらがより重要ですが、なんとか信じさせて国家権力を動かせたとします。テロリストたちは警戒態勢を見れば、動かないでしょう。そしてまったく俺たちの予想もつかない時、予想もつかない場所でテロを決行する。20個の生物兵器をすべて回収するチャンスは明日しかない。しかも俺たちだけで、むしろ警察は邪魔になるだけの敵と考えたほうがいい」

「しかし……どうやって……」
 土岐と万全が同時に言った。

 伊能も腕を組んで黙り込んだ。
 重い空気の中、須賀の部下がコーヒーを運んできた。相変わらずオタクの格好のままである。

 コーヒーを受け取りながら、伊能がはっとした顔になった。
「須賀さん! この前須賀さんが招集した、潜行しているという千人の組員はどうなっています?」

 須賀が怪訝な顔つきで答えた。
「まだそのままじゃ。わしの組への警戒が強くて、動くに動けんのじゃ」

「よし! それではその方々を戦力にしましよう」

「いや、しかし奴らが動けばすぐに逮捕される……」

 伊能がコーヒーを配る須賀の部下を指差した。
「その人たち全員にオタクになってもらいましょう。この前オタクに扮した4人の方にも指南役をつとめてもらいます。あまり同じ恰好ばかりじゃおかしいので、万全にバリエーションを考えさせましょう」

「え? ぼ、僕が? できるかなあ……」
「お前が普段する格好を教えてやればいいんだ」
「あ、そうか」
 照れ笑いを浮かべる万全をよそに、須賀は早速部下に指示を与え始めた。

「今夜中には全員準備させます。明日はどう動かせば良いのでしょう?」

 血色のよくなった須賀に伊能は力強くうなずいた。そして土岐のほうを見て言った。
「土岐さん、俺はこのところ妙に能力が強くなっているのを感じているんですが、土岐さんはどうです?」

「確かに、俺もそう思っていた。以前は近くの人間の匂いしか感じられなかったのが、今は相当広い範囲、おそらく半径100メートル以内の異臭なら嗅げると思う」

「俺と土岐さんの能力をフルに発揮して、テロリストの位置を特定する。ある程度生物兵器が置かれる場所は分かっていますから、あらかじめその周辺に配置した須賀さんの部下に回収してもらう」

 土岐が険しい顔になった。
「生物兵器のスイッチが入れられるのが午前十時。噴霧開始がその30分後……僅か30分足らずの時間で全部を発見できるか? どう考えても無理だと思うぞ」

「あ!」
 それまで黙りこんで膝を抱えていたタケトが突然大声を出した。

「カラス!」
 皆気味の悪そうな顔つきでタケトを見た。

 タケトは一人興奮して話し始めた。
「僕、この前警察病院でカラスの王様と友達になったんです」

「ああ! 言ってたね!」
 万全がうれしそうに言った。

 伊能は疑い深げに「それで?」と訊いた。

「そのときに王様が言ってたんです。もし助けてほしいことがあったら、100万枚の光るコインと100万個の光る玉を持ってこいって」

 伊能はますます渋い顔になった。
 しかしタケトは気にする様子もない。ますますニコニコとして言った。
「これは説明するよりも、実際に見てもらったほうがいいですね」

 タケトはパソコンに向かって何か操作を始めた。
 しばらくするとプリンターが動き出し、1枚の紙を吐き出した。

「なにそれ?」
 万全が興味しんしんで覗き込んだ。

「千代田区の航空写真です。じゃ皆さん、屋上に行きましょう!」

 訳のわからないまま、タケトの勢いに押されて全員が屋上に上がった。

「おい、何をする気だ?」
 たまりかねて伊能がきいた。

「今からカラスの王様を呼びます」

「だ、だってお前100万枚の何んとかはどうすんだ?」

 タケトはズボンのポケットから数十枚のパチスロのメダルと一つかみのパチンコ玉を取り出して見せた。

「なるほど、しかし数が全然足りないぞ」

 タケトは悪戯っぽく笑った。
「何かで読んだんですけど、カラスって3までしか数えられないんですって。きっと大丈夫ですよ」

「そ、そんな無茶をして王様が怒ったらどうすんの? 僕、突かれるのは嫌だなあ」

 タケトは万全の震え声など聞こえなかったように、空を見上げながら言った。
「皆で繋がると能力が強くなるし、同じことを体感できるんですよね? じゃあ、手を繋ぎましょう」

 須賀、伊能、土岐、万全、タケトの5人が手を繋いだ。
 タケトにならって全員が空を見上げた。

 一羽のカラスが見えた。
 タケトが鳴いた。
 カラスそのものの声で。
 しばらくしてそれに呼応するかのようにカラスの鳴き声がきこえた。
 何も起こらない。

 万全はそっとタケトの顔をのぞき見た。
 タケトの目が鳥のように表情のない真っ黒な目になっていた。
 あわてて目をそらす。

 日の落ちていく方向の空に、ポツリと黒い点が現れた。
 その点は一直線に悠然と、しかし物凄いスピードで向かってきた。
 見る見るうちに影は大きくなる。

「わ、鷲だ……」
 万全が怯えた声をあげる。

 伊能は羽ばたきの風を頬に感じた。

 目の前に見たこともないほど巨大なカラスが舞い降りていた。
 翼のさしわたしが1メートルはゆうに超えるように見える。
 太く巨大な嘴、威圧的な鋭い眼。
 まさにカラスの王の風格だ。

 タケトが鳴いた。
「王様にお願いがあります」
 皆にはそう聞こえた。

 カラスは首を傾げるようなしぐさをした。
 そして首をのばして、タケトを訝しげな眼で睨んだ。
 伊能たちのことは眼中にないといった風に見える。

 カラスの嘴がわずかに開いた。
「お前か。百万枚の光るコインと百万個の光る球は用意したのか?」
「はい、ここに」

 タケトはカラスの前にパチスロのコインとパチンコ玉をありったけ置いた。

 ギョロリとカラスの目玉が皆を睨んだ。
 万全は思わず目を伏せた。
 完全に位負けしていた。

 カラスはのしのしと置かれた物の周りを歩いた。
 そして一つ、二つといった風に嘴でつつき始めた。
 5個まで数えたところで、ふいに顔をあげて凶悪な目でタケトを睨んだ。
 鋭い嘴を大きく開いた。

「確かに! 百万枚の光るコインと百万個の光る玉受け取った! 私への願いは何だ?」

 タケトは航空地図をカラスの前に広げた。
「ここが僕と王様が初めて会った病院です。分かりますか?」

 カラスは首を伸ばして地図を覗き込んだ。
「もちろんだ」

「明日一日、この地図の範囲内で、このコインと同じ色の缶を置き去るものを見つけて欲しいんです。見つけたらその場所で鳴き続けてください。王様の全ての家来にお願いしたい」

「そんなことか。分かった。簡単なことだ」

 伊能がタケトに囁いた。
「いったい何羽位家来がいるのか聞いてくれ」

 タケトが訊ねると、飛び立とうとしていたカラスの王様が答えた。

「百万羽だ」

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66 折れないココロ

「ぬかったわ!」
 丸一日以上、こんこんと眠り続けていた須賀が、喚きながら寝室を飛び出してきた。

 三上が炎に包まれる、わずかに前のことだった。

 居間には万全一人がぼんやりとテレビを見ていた。
「お、万全さん、皆さんはどこじゃ?」

 万全は、泣きそうな顔で須賀を見つめた。
「伊能さんと土岐さんは昨夜別々に出かけたきり戻ってきません……タケトはパチンコに行くとか言って今朝出て行きました。もう……皆戻ってこないんじゃ……」

「うぬぬぬぬぬぬぬぬぬ……」
 須賀の顔が真っ赤になった。
「ぬかったわ! わしが年寄りだから気を使いおって! 希君も、他の皆も!」

「の、希君?」
 訳が分からず、万全は須賀のボケが始まったのかと思った。

「希君もいないのじゃ! わしの中に自分のカケラを置いて、外に出ておるんじゃ。おそらく、敵の手がかりを必死で探してるんじゃろう……おそらく伊能さんたちも……」


 伊能は、マンションの屋上にいた。
 両手を高く空に突き上げ、くるくると回っていた。

 昨夜から一睡もせずに、千代田区中のありとあらゆる監視カメラをチェックして、YUKIの姿を探していた。

「俺はなんでこんなことをやっているんだ! 誰が死のうと関係ねえ! ましてや腐った官僚どもが減るなら結構じゃねえか! 畜生、頭がどうにかなりそうだぜ!」

 伊能はそう喚き散らしながら、能力がどんどんパワーアップしていくのを感じていた。恐ろしいほど数多くの映像が鮮やかに脳裏に浮かび、それを瞬時に識別できるのだ。

 その中に土岐の姿を何回か見つけていた。
 土岐は霞が関や秋葉原の人ごみの中で、一人立ち止って顔をあげ、目をつむって何事かに集中していた。
 土岐もまたYUKIの匂いを探しているのだと伊能は思った。


 希はネットの海に、自分を拡散していた。

 残り少なくなってしまったと感じる自分自身を、さらに拡散するのは怖かったが、パパやママを救うためだと思ってすべての勇気を振り絞った。

 今までとは比較にならないほど大量のデータが流れ込み、もはや希は自分が破裂する極限状態にいると感じていた。

 破裂したら、その後どうなるのか分らなくて、希は絶叫したいほどの恐怖に囚われた。

 そのとき希の拡散した極小な一部が、三上の発信した「願い」に接触した。
 希は一瞬で「願い」の内容を読み取り、再び自分を一つにまとめた。

 希は呼びかけた。
「異能戦隊サラマンダー! 大至急集合してください! 全てが分かりました!」

 伊能はピクリと反応して回転を止めた。しばらく動けないのがもどかしかった。

 土岐は日比谷公園でベンチに座って目を瞑り、人々の匂いを嗅いでいた。その目がはっと見開いた。

「やったか! 希君!」
 伸びた不精ひげを撫でながら、嬉しそうに立ち上がり、タクシーを拾いに通りへ向かった。

 タケトはパチスロをやっていた。
 突然びくっと体を震わせると、店員が見ていないのを確認してパチスロのコインをポケットに詰め込んだ。


 須賀はオタクの扮装をしたままの部下たちに大声で命じていた。
「飯の支度をせい! 腹が減っては戦も出来ぬからな。みんな腹を減らして帰ってくるじゃろう!」

 すっかり元気になった須賀を見て、万全の顔にも生気が戻った。
「あ、僕髪型セットしなきゃ!」
 いそいそと万全は鏡の前に座った。

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65 末期(まつご)の願い(2)

 母屋に足を踏み入れた時、三上の顔は仮面のように強張っていた。

 家屋敷すべての売買契約は完了している。
 その代金のほとんどがテロに費やされた。

 唯一の使用人だった老婆は、三上からたっぷりの慰労金を貰い、昨日、孫のもとへ去って行った。

 三上はゆっくりと無人の母屋の中を歩いた。
 全てに別れを告げる儀式なのかもしれない。

 長い廊下の突き当たりに、祖父の使っていた書斎があった。
 祖父が死んで以来、三上はこの部屋にだけは入ろうとしなかった。
 使用人にも、この部屋への出入りを固く禁じてきた。

 ドアの前で三上は一瞬立ちすくんだ。
 しかし意を決したように、ドアを開いた。

 むっと埃臭いにおいが押し寄せてくる。

 広い書斎の中ほどに、祖父のお気に入りだった大きな樫の机が据えられている。かろうじて空間らしきものがあるのは、机の上だけで、壁際の大きな書棚から溢れた書籍類が、床のほとんどを埋め尽くしていた。

 机の上には書きかけのレポートと、参考資料らしきものが高く積み上げられていた。

 祖父の愛用の万年筆を見て、三上はポケットにしまった。

 そのとき、レポートの下から封書が覗いているのが見えた。
 取り出してみると、きちんと封がしてあり、宛名は「聖へ」となっている。

 三上はその封書も背広のポケットにしまった。

 庭に下りると、邸内の私設研究所に向かった。
 中に入り自分のデスクに座った。

 こんなとき、煙草の一本でも吸えればよかったのにと、苦笑いを浮かべた。

 無菌室の冷蔵庫から、銀色の缶を取り出した。
 そして完全密閉された空間の中で、赤い起爆装置を押した。
 これで30分後には、自分の体でGB(GOD BLESS)の威力を確認できる。

 すでに研究室は外側から完全にロックされている。
 あまり苦しむのは嫌なので、5時間後には大量の火薬とガソリンによって、跡形もなく燃え尽きるようにセットしてある。

――これで終わりだ……
 椅子に座っていたら、少しうとうとしてしまった。

 目が覚めたのは、缶がシューと音をたてて薄い霧のようなものを発射し始めた音でだった。

 匂いはない。吸い込んだ感じでも特に違和感は感じなかった。
三上は腕時計を外して、時間の経過による症状の変化を書きとめようとした。

 さっきポケットに入れた祖父の万年筆を使うことにした。
 そのとき同じようにポケットに入れた祖父の手紙に気がついた。

 三上は丁寧に手紙の封を切った。
 便箋には懐かしい祖父の力強い字が書かれていた。

 時折文字が乱れているのは、余程焦っていたのかもしれない。
 おそらく自分を裏切った官僚どもへの血を吐くような怒りが綴られているのだろうと思いながら、三上は祖父の手紙を読み始めた。

 
『聖へ
 今回のことでは、お前たちにまで大変な迷惑をかけてしまった。全ては私の科学的な先見性の無さに起因している。少しの権威を鼻にかけて、新しい事態を見ようとしなくなっていたのかもしれん。今、目の前にいる患者を救うことばかりに目が行ってしまった結果がこれだ。聖よ、官僚どもを恨んではならんぞ。あれらは、ああいう生き物なのだ。なんとか責任を回避し、失点を最小限に抑える。友人でも仲間でも、引っ張れる足は引っ張る。そしてひたすら組織のヒエラルキーの上を目指す亡者のようなものなのだ。我々は科学者だから、責任の回避はできない。人の命という最も大切なものを扱っているのだから尚更だ。聖、私がいま一番悲しいのは、お前にだけはこんなにみじめな姿をさらしたくなかったことだ。私の失脚により、お前もつらい学究生活になるかもしれんが、どうか三上家の誇りを抱き続けてくれ。聖、覚えているか?お前が5,6歳のころカブトムシを庭で飼っていたよな。紐で繋いであったのだが、ある日寿命だったのか、死んでぶら下がっておった。お前の悲しみ様といったら大変だった。聖、お前は寂しい育ちだったが、優しい心を持っている子だ。いつか大きな研究を成し遂げて、私の汚名をすすいでほしい。お前と過ごした時間は、私にとって何にも代えがたい時間だった。私の孫に生まれてくれて、本当にありがとう。心から、ありがとう』

 読み終わっても三上は、ぼんやりと手紙を見詰めていた。

 突然、胸の奥から押し出されるような咳が出始めた。
 時計を確認する。
「30分で肺炭疽の初期症状か。相当早いな……」

 露出している皮膚を調べる。
 手、首筋にうす赤い斑点のようなものが出ている。
 体温は37,2度。微熱だ。

 三上は、祖父の手紙にひどく動揺を感じていた。
 だがもう後戻りはできない。
 たとえ計画を中止しようと思っても、YUKIへの連絡方法もない。第一この部屋は完全密閉すると、携帯電話は使えない。

 椅子に掛けた上着のポケットがチカチカ光っていた。
 外にいる時に受信したメールだ。
 別居中の妻貴子からだ。

 貴子には明日、帝都大学に来るようにいってある。
 離婚届に判を押してやると言ったら、二つ返事だった。
 三上にとって一人息子の尊(たける)を奪った憎い女でしかなかった。帝都大学は高濃度の炭疽菌が撒かれる予定だ。

 メールを開いた。
 思わず立ち上がった。
 その瞬間ひどくせき込んだ。
 口を拭ったティッシュに赤い血痕が残った。

{明日予定通り10時に伺います。学生会館のカフェですわね。書類はこちらで用意いたしますので、あなたは印鑑を忘れないように。それから、あなたに会うことを、うっかり尊に言ってしまったの。そうしたら、幼稚園休んで一緒に行くってきかないの。なにがなんでもパパに会いたいって泣くから、今回だけ特別に連れて行きます。なんか買って手なずけないで下さいね。それでは}

 尊が来る!

 三上は慌ててメールの返信を打ったが、電波状態が悪くて送信できない。パソコンから、と思って貴子のアドレスを携帯電話で見ようとしたら、電池切れで画面が真っ暗になってしまった。

「くそ!」
 怒りにまかせて机を叩こうと腕を上げたら、肩甲骨から肩にかけて激しい筋肉痛に襲われた。
 さらに猛烈な腹痛が起きたと思ったら、突然噴水のように嘔吐した。

「外部と連絡が取れるのは、パソコンだけか……」
 しかし、すでに両手の指までが強張りはじめていた。

 再び嘔吐。
 今度は真っ赤な血液だった。
「早い、いくらなんでも早すぎる」
 三上は生まれて初めてパニックに陥っていた。

――三上家の誇りを……
――私の汚名をすすいでくれ……
――人の命という最も大切なもの……

 三上は狂ったような眼で時計を見た。
 あとどれだけの時間が残されているのだろう?

 強張りはじめた指をこじ開けながら、三上は猛烈な勢いでパソコンに向かい始めた。

――このメッセージを拾ってくれ!気が付いてくれ!頼む、俺のバカげたテロを阻止してくれ!異能戦隊サラマンダー!

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64 末期(まつご)の願い

 テロを翌日に控えて、三上は満足げに自宅の庭を散策していた。

 須賀の殺害に失敗するなど、小さなミスはあったが、それも結果としては警察権力が、奴等の動きを封じる結果になってくれた。

 実行部隊のリーダー役のYUKIも失敗に恥じる風もなく、ひたすらにテロの確実な成功に向かって集中していた。

 つい先ほど、YUKIに細菌兵器と指示書を渡した。
 三上は須賀のことには一切触れず、全ての報酬をすでに振り込んだことと、短い感謝の言葉を呟くようにいった。

 全額が前金で貰えたことに、YUKIは驚いたが、受け取った大きなボストンバッグの軽さにも驚いた。

 バッグの中身は、テロに使われる細菌兵器が20個。

 全て、床に置くタイプの噴霧式殺虫剤を、三上が手作りで改造したものだ。高さ15センチ、太さが直径15センチほどなので、ずんぐりした小さな銀色の缶だ。

 トップに赤い小さな突起があり、それを押すと30分後に噴霧が開始される。

 自動販売機の横とかに置いても誰も気にしないだろうし、ちょっと雑草でも生えていれば、容易に姿を隠すこともできる。

 あまりの軽さに何も入ってないように思えるほどだが、中には1グラム当たり五千億個の炭疽菌が詰められている。

 伝染性こそ付与できなかったが、発症スピード、致死スピード、100パーセント近い致死率を達成した。

 三上は文字通り自分の全てであるこの小さな菌に{GOD BLESS 神の祝福}と名づけた。
 明日、神の息吹が本物の地獄を出現させるだろう。

 ――私がやることは、あと一つ――
 母屋へ向かおうとしたとき、あるものが目に飛び込んできた。

 最初に見えたのは小さなシーソーだった。
 木立の隙間から、それは見えた。

 三上は邪魔な木の枝をかいくぐりながら、そっちに向かった。
 ようやくその場所にたどり着いた。

 三上は立ち尽くしたまま、目の前に広がる光景を見つめていた。
 遠い昔、この場所は三上のもっとも大切な場所だった。

 もう何十年も来ていなかったが、ここにある全てのものが、自分を待っていてくれたのだと感じた。

 新品でピカピカ黄色に輝いていたシーソーは、今ではペンキも剥げ落ち、木も腐っていたが、それでも三上に「乗ってごらん、きっと楽しいよ」と語りかけてくる。

 ブランコも滑り台も、サッカーの練習に使ったネットも、ボロボロになっていたが、ちゃんとそこにあった。

 ここは祖父の聖一郎が、三上のために作った公園なのだ。

 両親も無く、友達もいないらしい三上のために、聖一郎が独力で作った公園だった。

 肉体労働の経験の無い聖一郎にとって、木の伐採から始まる作業はつらかった筈だが、使用人たちが手伝おうとしても決して許さなかった。

 いつも背広姿のお爺ちゃんが、たまの休みにはランニングシャツ一丁になって、ふうふう言いながら泥だらけで笑っていたのを思い出す。

 だが、いつまでも完成しないので、三上も関心を失っていった。

 確か5歳のクリスマスのことだ。

 普段より一段と慌しく働いて、三上の相手もしてくれない祖父に腹を立てて、三上は一人で絵を描いていた。

 外は薄暗くなってきた。
 ケーキとか買ったのかな、と心配になったころ「聖! 聖! ちょっと来てみろ!」と祖父の大声が玄関から聞こえてきた。

 走っていくと、泥だらけの祖父が、見たことも無いような笑顔で笑っていた。

「さあ来い! さあ、早く早く!」
 手を引っ張られるように、三上も走った。

 祖父の手が妙にごつごつして傷だらけだった。

 夢かと思った。
 あるいは魔法か何かだと思った。

 小さな三上にとって密林みたいだった木立のなかに、まん丸の小さな公園が出来上がっていた。

 ブランコもシーソーもジャングルジムも見たことが無いくらいピカピカ光っていた。

 小さな砂場と池まであって赤い魚が何匹も泳いでいた。

 可愛らしい絵の描いてある小さなベンチに、祖父は腰を下ろした。
「どうだ? お爺ちゃんのクリスマスプレゼントだ。お前だけの公園だぞ」

 三上は目を丸くした。
「僕だけの? 本当に僕だけの? じゃ、僕がここの王様?」

 祖父は聖の冷え切った両頬を優しく挟んで肯いた。
「そうだ、お前が王様だ。お前が許してくれなきゃお爺ちゃんだって勝手にブランコにのったりできない」

 もう相当暗くなっていたが、さっきからむずむずしてくる衝動を抑えきれなくなった。
「じゃ、お爺ちゃん、遊んでみていい? いいでしょ?」

「もちろん、いいさ。お前が王様だ。好きに遊びなさい」

 もう夢中で遊んだ。
 意味も無く笑えてしょうがなかった。

 いつしか真っ暗になって、空からチラチラと雪が降り始めて、祖父は三上に声をかけた。
「王様! ご飯の時間だよ。さあ、帰ろう!」

 三上は滑り台のてっぺんで、ちょっとべそをかいた。
「これ、明日もある? 消えない?」

 祖父は豪快に笑った。
「この公園はずーっとお前のものなんだから、安心しなさい」

 そして、いつもの言葉を言った。
「お前は何も心配することはないんだよ」


 あのとき祖父が座っていたベンチは子供用の小さなものだった。
 だいぶ朽ち果てていたが、なんとか腰を下ろすことができた。

 無性にタバコが吸いたくなったが、持ってきていなかった。
 そこらの木の陰から、祖父が出てきそうな気がした。

 三上は何かを振り払うように、激しく何度も頭を振った。
 落ちている木の葉を拾ってしげしげと眺めた。
 小石を蹴った。

 とにかく、自分が泣いていることだけは認めたくなかったのだ。

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63 セイギって何?

 はうあ!と言って万全がいきなり立ち上がった。

 目がイッちゃてるので、とりあえず無視しようと伊能は思った。
 考えることは皆同じのようで、タケトも急に寝たふりをしているし、土岐はトイレに行ってしまった。

 伊能は顔を伏せて、自分の手相を真剣に見つめるふりをしたが、万全の視線の圧力に耐えかねて顔を上げた。

 万全の目がすがるように絡みついてくる。
 物凄く器量の悪い野良犬みたいな目だ。

 ため息をつきながら、伊能は仕方なく訊ねた。
「どうした?」

「ここ何日か、会社に欠勤の連絡するの忘れました。どうしよう! きっと皆心配してます。僕がいないと分らないことも色々あるのに……」

「心配ならお前のケータイに連絡してくるだろう? それよか、ニュースでお前を見て、パニくってるんじゃないか?」

 物凄く器量の悪い野良犬が、悪い病気にかかって死にかかっているような目になった。

「そ、そうです! あわわ、大変だ大変だ大変だ。電話しなきゃ、部長が怒る! 課長がキレる! 課長代理が怒鳴る! 係長が呆れる! 主任が……主任は笑うか?」

 一瞬考え込んで「そんな事より電話、電話!」と言いながら、あたふたとケータイを取り出した。

 突然普段より200%明るい声で喋りはじめた。

「あ! 万全です。あ、係長ですね? いや、あれこれとありまして、連絡が遅れて申し訳ありません! ちょっと立て込んだ事情がありまして……は? いや、あら、そんな一言でですか? はい、はあ、時間がないですか……警察? はあ、あの、そりゃまたご迷惑を……いや、あの、僕は無実です! 純潔です! 潔白です! 信じてください……はい? 部長? 部長に代わるんですか? は、はい! あ! 部長! なんか変な誤解とか、もういやんなっちゃいます。何をしておるんだと言われましても、僕のほうが聞きたいくらいな感じでして。はあ、あ! それは分ってます! 実はですね、全てはセイギのためなんです! え? あ? ちょっと、お、お待ちなせえ……」
 電話を切られたらしく、万全は呆然とケータイを見詰めている。

「どうした? なんて言われたんだ?」
 さすがに可哀想になって、伊能は少しは情をこめて声をかけた。

 万全の目が伊能に向けられた。
 物凄く器量の悪い野良犬が、悪い病気で死ぬ寸前に気が狂ったような目だった。

「僕がセイギのためですって言ったら……部長があきれ果てたような声で、言いました。セイギ? ああそうか。お前はクビだ、二度と会社には来るな。電話も許さん。この、度し難きバカ者め……ってどういう意味ですかね? なぜ怒るんだろう? あ、もしかすると、部長って悪なんですかね?」

 万全はしきりに首をひねりながら「会社に来るな。電話も許さん。これからどうやって仕事をすればいいんですかねえ」と途方に暮れたように呟いている。

 伊能は立ち上がって、万全を励ますように肩を叩いた。
「もういいんだ。会社には行かなくていいんだ。何かいい仕事を紹介してやるよ。お前は正しいことをした。俺たちもだ。誰にも理解されない、何の利益もない、ただ誰かを助けるために命を懸ける。だからこそセイギなんだ。ねえ、そうだろ?」

 いつの間にか土岐とタケトも万全の周りに集まっていた。
 少し照れたような顔で、万全は笑った。
「そうか、僕、クビになったんだあ……なんか人生ゲームみたいだな……全然予定してなかったから驚いちゃった。あはは」
 万全の小さな目に涙が光っていた。

 少し器量が悪いが、愛嬌のある子犬のような目だった。

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62 目覚めぬ眠り

 止めるのも聞かずに外に飛び出した万全とタケトは、雨に打たれたずぶぬれの姿で帰ってきた。

「大声で叫んだのに、姿を見せてくれなかった……」
 しょんぼりと肩を落とす二人に、伊能たちが沈痛な目を向けた。

「希君も相当危険な状態らしい。病室には面会謝絶の札が下がり、医師や看護師がひっきりなしに出入りしているそうだ。中がちらりと見えたそうだが、小さな体から何本ものチューブが出て、機械につなげられているらしい……」

 土岐は黙って立ち上がり、窓際に行くとじっと暗い空を見つめた。
 須賀は、希の影響か、こんこんと眠り続けている。

 ずぶ濡れのまま立ちつくす万全とタケトに伊能が声をかけた。
「二人とも暖かいシャワーでも浴びてこいよ。風邪をひくぞ。万全、お前水から上がった河童みたいだぞ」

 万全は口を尖らせて、伊能に何か言い返そうとしたが、再び肩を落としてシャワー室に向かった。

 静まり返った部屋に、雨音だけがやけに大きく響いていた。


 YUKIの勝ち誇った声が二宮の脳に鳴り響く。
「これで分かったでしょ。あなたはもともと存在していないの。私の妄想なの。私の中に生まれた、取るに足らないような人格」

 二宮はもう何度目になるのか、あの恐ろしい映像が脳裏によみがえるのを見せられた。目をつぶっても見えてしまう恐ろしい映像。

 タケトの喉を自分の手がすっぱりと切り裂いていく。
 恐怖に見開かれたタケトの目。
 あふれ出す真っ赤な血。
 狂ったように笑いが止まらないのは、まさに自分だった。

 二宮は頭を抱えて座り込んだ。
 雨に打たれて蹲る二宮に気がつく人はいない。

 このまま消え去ってしまいたかった。
「分かった。僕は消える。僕は消える。僕は消える……」

 数分後、すっくとYUKIが立ち上がった。
 服装は二宮のままだが、明らかにYUKIだった。

 周りに誰もいないことを確かめて、YUKIは声を上げずに哄笑した。愉快でたまらないといった様子だ。

 アイデンティティの希薄な二宮が、図書館の古文書を読んだ拍子に憑依された生身剥ぎ(ナマハゲ)とかいう化け物も、サラマンダーの馬鹿げた連中に撃退されてから姿を現さなくなった。

 二宮が目覚めることも、もうないだろうと確信できる。
 ついにYUKIは完全な体と人格を手に入れた。

 3日後に迫る史上空前のテロを思うと、YUKIの体はかつてどんな薬物でも、SEXでも得られなかった興奮に震えた。

 雨はひときわ激しくなって、やがてYUKIの姿を覆い隠してしまった。

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61 佇む人

 土岐はずっと窓から外を眺めていた。
 希の容態を確かめに行った男たちの帰りを待っているのだ。

 空は嫌な色の厚い雲に覆われて、今にも雨が降り出しそうだった。

 須賀はまた眠っている。
 タケトと万全はテレビの前でなにやら騒いでいる。
 どうやら万全がブラジャーはずしの技を見せているらしい。
 伊能は煩げに眉をひそめながら、何か考え込んでいた。

 土岐はひっきりなしにタバコに火を付けていた。
 病室で見た、希の青ざめた陶器のような頬が脳裏に浮かぶ。

――あの子を救えるのなら、俺のくだらない人生にも意味ができるかもしれない。
 同じことばかり考えていた。

「土岐さん、まだ雨は降りませんか?」
 伊能がそう言いながら、土岐の隣に来て空を見上げた。

「そろそろだな」
 土岐が言ったとたん、大粒の雨が音を立てて落ち始めた。

「あ、帰ってきた」
 伊能がマンションから少し離れた場所で止まったタクシーを指差した。

 4人の男たちが降りてくるのが見えた。
 用心してマンションの前までは来なかったようだ。
 練習したとおりの歩き方で、4人のオタクがこちらに向かってくる。
 雨など気にしていない様子の、妙に堂々としたオタクだった。

 伊能が苦笑した。
「雨が降るのは想定外でした。雨が降ったら紙袋のポスターが濡れないように、抱きかかえて走ってこなければ……」

 男たちがマンションの中に入るのが見えた。
 伊能は玄関に向かった。

 ふと、土岐の様子がおかしい事に気づいた。
 土岐は食い入るような目で、外を見つめていた。

 そして、いきなり窓を全開にした。
 激しさを増した横殴りの雨が、容赦なく室内に入ってくる。

 土岐は体を乗り出すように、一点を見つめている。
 伊能は土岐の見つめる先に眼をやった。

 マンションの向かい側に立つ1本の電柱の脇に、雨に打たれてぼんやりと人の姿が浮かび上がっていた。
 眼を凝らすと、次第に明確な人の姿になった。

 二宮だった。
 いつからそこに佇んでいたのか、二宮の姿は悲惨なほどやつれきっていた。

「二宮!」
 思わず伊能は叫んだ。

 万全とタケトも窓際に駆け寄ってきた。
 土岐はほとんど落ちそうなほど身を乗り出している。

 伊能が「土岐さん、危ない」といって土岐のベルトに手をかけた。
 土岐は二宮の感情の匂いを嗅ごうとしていた。

 二宮の目が土岐の眼をしっかりと捉えた。
 二宮の目はあふれる涙で一杯だった。
 青ざめた唇が震えながら、何かをつぶやいたように見えた。

 伊能がもう一度、二宮の名を呼ぼうとしたとき、そこにはすでに二宮の姿はなかった。
「土岐さん、二宮はなんて言ったんだろう?」

 土岐はひどく悲しそうな顔をしていた。
「ごめんなさいって言ったんだ。あいつは心の全部でごめんなさいと謝っていたよ」

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60 伊能の脱ヤクザ講座(2)

 物凄い形相で、須賀が部屋から飛び出してきた。
「わしの刀はどこじゃ? 曲者を成敗してくれる!」

「お、親っさん! 自分です! よく見てください!」

 そう叫びながら、狼狽して追ってくる男を、須賀は訝しげな目でじっと見つめた。

 頭に手ぬぐいみたいなものを巻いている(後でバンダナというものだと教えられた)。
 擦り切れたようなジーンズ。
 アニメが印刷されたシャツ。
 背中には大きな横長のリュックを背負い、腰にもポーチが付いていた。
 両手にぶら下げている紙袋には美少女アニメのキャラクターがでかでかと印刷してあり、丸めたポスターが何本も突き出していた。
 不恰好なメガネの奥の目は、須賀を必死で見つめていた。

 その目を見て、ようやく須賀は曲者の正体がわかった。
「なんと! お前か!」

 男はほっとした表情で何度も肯いた。
 須賀は後ろを振り返った。
 満足げな表情の伊能と、笑いを必死でこらえているタケトがいた。
 その背後にいる見慣れぬ三人の男たちも須賀の部下のようだ。

「これは伊能さん! こやつら、まったくヤクザ者には見えませんぞ。素晴らしい変装じゃ! ところで、これは何に変装したのかの?」

「オタクですよ。外見から一目でわかるところは、ヤクザと同じです。ただし他人に与える影響は正反対です。ヤクザに対しては恐怖心を抱いて、警戒し注意をはらう。オタクだと分かれば、安心して無警戒になります。特に千代田区にはオタクの聖地・秋葉原もありますから、オタクを見慣れていますしね」

「なるほど……これがオタクという者ですか。なんか貧乏そうな感じじゃのう。これなら警官に見られても、職務質問とか受けなくてすみますな。よし! お前たち、早速希君の病院に行って、現在の希君の容態を調べてくるのじゃ」

 大きな返事をして、飛び出して行こうとする男たちを伊能が呼び止めた。
「ちょっと待って下さい。確かに見た目だけはヤクザに見えなくなりました。しかし動作や言葉遣いに気をつけないと、違和感を与えてかえって注目される可能性もあります」

「なるほど。どうしたら良いですかのう?」

「紙袋を持つことで、腕の動きは押さえられます。まず歩き方ですが、少し前かがみの姿勢で、小股でちょこちょこ歩いてみてくれますか?」

 4人の男たちが歩き始めた。
 ぎくしゃくして、不自然な感じだ。

 伊能が個別の指導を始めた。
「あなたはもう少しゆっくりと歩いてください。なるべく内股気味にしたほうがいいです」

「あなたは肩から前に出るような歩き方ですね。少し伏目がちにして、前のめりにとっとっとと、小刻みな感じで歩いてみてください」

「動作はなるべく小さく。姿勢は背中を丸めるような感じで。常に視線は下向き。会話するときには、相手の顔を見ないで、つぶやくような喋り方をしてください。そうすれば周りにも聞こえませんしね」

 男たちは1時間くらい伊能の指導のもと、オタクになりきるための特訓をした。

 そして、まったくヤクザとは思えない男が4人誕生した。

 男たちが病院へ出かけた後、須賀がポツリとつぶやいた。
「あやつら、元に戻れるんじゃろうか? すっかり気持ちの悪いモノになりきってしまったが……」

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59 伊能の脱ヤクザ講座

 伊能はメモ用紙に何かを書き始めた。
 時折、宙を睨んで考え込んでいる。

「須賀さん、変身させる人たちに、自分の服のサイズ、ウエストサイズ、靴のサイズを書かせてください」

 伊能の言葉に、男たちは自分のサイズをメモ用紙に書いた。
 伊能は自分が書いたメモと、男たちのサイズが書いてあるメモを一緒にタケトに渡した。

 タケトはメモを見てすぐに伊能の考えが理解できたらしく「そっかー、なるほどねえ」と目を輝かせて微笑んだ。

「買物のお金は須賀さんから貰っていけ」

 伊能の言葉に須賀は頷いた。
「4人分ですから、50万ほど持たせれば足りますでしょうか?」
 伊能は「とんでもない」と言って手を振った。

「その10分の1、5万円でおつりがくるでしょう。すみませんが、誰かに車を運転してもらえますか? 行先はタケトが心得ていますから」

 男たちの一人がタケトのそばに行った。
 一番大柄で悪役レスラーのように凶悪な人相の男だ。

「自分がお供させて頂きます」
 タケトの前で一度、直立不動の体勢になってから、うやうやしく一礼した。

 タケトはきまり悪げな顔で、頭をかきながら「ども、こちらこそ、かたじけない」と変な挨拶をした。

 タケトたちが買い物に出かけると、須賀はひどく疲れた様子で立ち上がり「失礼して一休みさせてもらいます。タケトさんがお帰りになったら起してくだされ」と言って寝室に入って行った。

 いつの間にか万全はソファーに座ったままうとうとと寝込んでいる。土岐は希のことが気にかかる様子で、ひっきりなしに煙草を吸っていた。

 伊能は真澄のことを考えた。
 どうして真澄は怒ったのだろう?
 とにかく不本意ながら、真澄の希望する離婚を承諾したのにもかかわらず……

――由美はどうしているだろうか?もう会えないのだろうか?
 そんなことを考えているうちに伊能も眠りに落ちてしまった。

 目覚めたのは2時間ほど経った頃だった。
 タケトの元気な「ただいまー」という声で起きたのだ。
 見ると土岐も疲れた顔で眠り込んでいた。

「買えたか?」
 タケトたちは二人とも両手一杯の荷物を抱えていた。
 タケトはにっこり笑ってVサインを出した。
「ばっちりです!」

「よし! じゃあ空いている部屋で変身タイムだ!」
 伊能は眠っている万全や土岐はそのままにして、タケトと4人の男たちを連れて空き部屋に入って行った。

――20分後。
 変身を終えた男たちを、伊能は満足げに眺めていた。
 男たちはお互いを見て呆気にとられている。

「誰か須賀さんを起こしに行ってください」

 伊能の言葉に、リーダー格の男が肯いた。
「自分が行ってまいります」

 男が「失礼いたします」と言って須賀の寝室に入って行った。

 一瞬の間をおいて須賀の叫び声が聞こえた。
「く、曲者じゃあ! であえ! であえい!」

 時代劇フアンの須賀らしいセリフだった。

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58 魂の消滅

「希君が応答しなくなりました……わしの中にいることは感じるのじゃが、さっきから何度呼びかけても返事がないんじゃ……」
 須賀はぐったりとソファーに腰掛けて、頭を抱え込んだ。

 土岐が煙草をくわえたまま、落ち着きなく皆の間を歩き回り始めた。

「俺たちの異能力(ちから)を増幅させるために、あの子は相当無理してたんだ……ちきしょう! どうして、そのことに気付かなかったんだろう……」

 土岐は顔を歪めてそう呟き、壁を思い切り殴った。
 大きな音がして、土岐の握りしめた拳から血が滴り落ちた。
 誰かに向かって言ったことではなく、自分自身を責めていることは明らかだった。

「須賀さん。この前、希君がネットの中で、何者かに自分の一部を取られてしまったことがありましたよね。そのとき希君は自分が{減っちゃった}と言ってました。同じように今回も、希君の存在そのものが減少というか、摩耗してしまった感じなんですか?」

 伊能の質問に、須賀は顔をあげた。
 そして心臓の鼓動を確かめるように、胸のあたりに手を置いて、じっと考え込んだ。まるで希がそこにいるかのような仕草だった。

「希君がわしの中にいるとき、確かな存在をしっかりと感じます。今もここにいます。ただ、存在感が小さくなっているというか、希薄になったような気がします」

 まだ傷が痛むのか、タケトが首の包帯に手をやりながら声を出した。
「あの、希君って霊魂とか意識体みたいなものですよね。身体は別な場所で眠っていて、心だけが遊離して戻れなくなった。もし、心がボロボロになって、消えちゃうようなことになったら……身体はどうなるんでしょうか?」

 土岐がぎょっとした顔になった。
「そうだ! 病院に行って希君の容態を確認しなきゃ! 俺、ちょっと行ってくる!」

 すぐに飛び出していきそうな土岐を、須賀が呼び止めた。
「土岐さん、お待ちなさい。病院ではイラン人たちの襲撃事件の余波がまだ続いております。警備も厳しいはずじゃ。今や、わしらは警察から追われる身。そんなところにノコノコと出向いたら、まさに飛んで火に入る夏の虫でしょう」

「でも俺は顔写真も出てないし……」
 土岐が不満そうに言った。

「あ、僕が行きます! 僕はニュースにも出てないし!」
 タケトが元気よく手を挙げた。

 須賀が呆れたような苦笑を浮かべた。
「あなたは警察病院から脱走の身でしょう! ここはわしの部下に任せてください。絶対にヤクザ者だと分らないように変装させて様子を見に行かせます」

 須賀が2回手をたたくと、どこで待機していたのか、数秒で4人の男が須賀の前に整列した。

 全員が、きちんとスーツを着ている。
 しかも昨日まで彼らが着ていた、ヤクザ仕様の高級品ではなく、普通のビジネススーツのようだ。

 ところが不思議なことに、ヤクザ以外の何者にも見えない。
 伊能はなぜだろうと思ってよく観察してみた。

 まず顔、特に目つきが違う。
 鋭いとか怖いとかだけではない。目の配り方が独特なのだ。
 歩き方、コーヒーの飲み方、椅子の座り方、笑い方、新聞の読み方、身ごなしのすべてが違う。
 純度100%のヤクザだということだ。

 須賀がそれを見て溜息をついた。
「お前たちは、それで堅気に見えると思っているのか? どこで揃えた服を着ているんだ?」

 男たちは不安そうにお互いを見ている。
 リーダー格らしい男が、おずおずと話し始めた。

「あの、サラリーマンがスーツを買う量販店に行きました。開店前の店を脅かして開けさせまして、とにかく一番普通のサラリーマンっぽいのを揃えさせました。ネクタイやシャツ、靴まで全部揃えたんですが……ダメですか?」

 須賀が助けを求めるように伊能たちを見た。
「うちの本部は、夜明けと同時にガサ入れがありました。100人以上もフル装備の警官が来たそうじゃ。機動隊かと思ったらしい。新宿界隈ではヤクザ風の男は片っぱしからぶち込まれているそうじゃ。わしも完全に身を隠すために、身の回りの世話をする者がヤクザ丸出しじゃ困る。そこで、こいつらに堅気に変装しろと言ったのじゃが……」

 4人の屈強な男たちが、肩をすぼめて立っていた。
 同情して見ていた伊能の頭に、ひとつのアイデアがひらめいた。

「須賀さん、いい方法がある」
 ほうと須賀が顔を向けてきた。
 男たちもすがるような眼で伊能を見た。

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57 真澄激怒する。

「セイギのためだ」
 伊能の言葉を聞いても、真澄はあまり驚かなかった。
 ただ「それで?」と聞いてきた。

「俺はもうお前たちとは会えないかもしれない。あるいは極悪非道の犯罪者扱いされるかもしれない。だから、一刻も早く離婚届を出してくれ。俺の署名はそちらで書いてほしい」

 しばらく沈黙があった。
 やがて氷よりも冷ややかな声が返ってきた。
「わかったわ。それだけ?」

「あともう一つ。しばらくの間都心部、特に千代田区には絶対に近寄らないでくれ。通過するのも避けてほしい」

「それは、あなたのため? 私のため?」

「お前たちのためだ」

「そう……」

 またしばらく沈黙があった。
 真澄が口を開いた。

「あなたの心に、いま何があるの? 私たちと別れることの悲しみ? セイギのために何かする昂り?」

「いや……どっちかっていうと、引き返せないところまで来てしまった絶望かな」

「私の気持ちは分らないみたいだから、教えてあげる。私は今怒っているわ。本当に物凄く怒っているわ」

 電話が切れた。
 伊能はしょんぼりと肩を落として居間に戻った。

 伊能を見て、土岐が何かを察したらしくぽんぽんと励ますように肩を叩いた。
「タケトの話が面白いぜ。タケト、さっきの二宮の話を伊能にも聞かせてやってくれ」

「タケトじゃなくてブラック……」
 万全がつぶやく。

 タケトはソファーの上で両ひざを抱え込んで座っていた。
 大きな目がくるくるとよく動く。

「この前二宮さんが来たときに、変なことを聞いたんです。眠っているのと、記憶を失っているのは同じことかな?って。僕はそんなことないでしょうって答えたんです。起きた時に、いままで記憶を失っているなんて思ったことないですもんね。そうしたら二宮さんは真剣な顔で考えこんでました」

「なるほど……二宮は気が付いていないってことか……」

 考え込む伊能に万全が明るい声をかけた。
「ねえブルー、ブラックはすごいよ。カラスの王様と友達になったんだって!」

「カラスの王様?」

 タケトが少し恥ずかしそうに肯いた。
「警察病院で暇を持て余していたら、見たこともないほど巨大なカラスが飛んできて、僕の部屋のベランダで翼を休めたんです。あ、これは話せるなと思って話しかけてみたらバッチリでした。カラスって頭いいんですねえ」

「だけど、そんなことしたら知能がカラス並みになっちゃうんだろ? ばれなかったのか?」

 タケトは笑った。
「ようやく僕も能力の使い方が分かってきました。寝ちゃえばいいんです。動物と話した後はすごく眠くなるんです。そのまま寝てしまえば回復も早いみたいです」

 皆が感心しているところに、須賀がよろよろと出てきた。
 その姿に全員が息をのんだ。
 信じられないほど急激にやつれていたのだ。

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56 万全激怒する。

「死ななきゃ殺される」と訳の分からないことを言いながら、万全はうろうろと部屋中を歩き回った。

 本当に死にたいのならベランダに出て飛び下りれば確実なのに、なぜかそうはしなかった。

 常備薬の正露丸を見つけて、一瓶全部飲んだ。
 途端に全部吐いた。
 猛烈な悪臭を放つゲロを伊能が掃除したが、いまだに正露丸の匂いが消えない。

「ウンコを食べれば死ぬはずだ。誰か僕にウンコを下さい」と涙眼で懇願してきたときは、土岐がこれ以上ないほど冷酷な顔で「自分の糞を食え」と言った。

 万全のせいで、伊能と土岐は結局一睡もできなかった。

 朝のワイドショーが始まる頃になって、ようやく万全も疲れたのか、ソファーでぐったりとなった。
 伊能と土岐も、その様子を見てソファーに座ったままうつらうつらと眠り始めた。

 しかし万全の獣のような唸り声で飛び起きた。
 万全が物凄い表情でテレビ画面を睨みつけている。
 昨夜のサラマンダーの事件を報じていた。

 テレビで喋っているのは毒舌で有名なオカマだった。

 オカマが司会者に「もう一度さっきの写真をみせてくださる? 爺さんじゃなくて、あの奇妙な男の写真。出来ればアップで写してください」と言った。

 画面一杯に万全の顔が映し出された。

 警察で写真を撮られる際に、笑おうとしたのか、顔が変に歪んでいた。

 バベルの塔のような髪形は、ピサの斜塔みたいに傾いている。
 小さな目を精一杯見開いているのに、焦点が合っていない。
 味付けのりを貼り付けたような太い眉は、なぜか片方だけ吊り上っている。
 なにか人をイラつかせるものが、その表情にはあった。

――あらためてテレビで見ると、万全の顔はきついな。戦隊ヒーロー物に出てくる怪人みたいだ。

 伊能はそう思ったが、口には出さなかった。
「死ぬ死ぬ発作」がおきると困るからだ。

 しかし、テレビのオカマが呆れたような口調で話し始めた。
 顔は嫌悪感MAXだ。
「見てよ、この男。この、顔! 悪いけど、どうしたって普通の人ではないわよね。こんな一目で異常者だと分かるような人間が、どうして大手を振って歩いているのかしら? その辺の対策とかしてもらわないと怖くて外も歩けないわ」

 伊能と土岐はさりげなく万全に目をやった。
 万全は肩を震わせてうつむいている。

 オカマが最後に言った。
「なんなの、この髪型。禿げを隠すにしたって、目立つようにして、どうすんのよ」

 万全がそれを聞いて、いきなり躍り上がるように立ち上がった。
「なにおう! この腐れオカマ野郎! 目に物見せてやるわいな!」
 口調までおかしくなっている。

 うぞぞぞぞと万全の髪の毛が蠢きだした。

 伊能は慌てて万全を止めた。
「何をする気だ! あいつはブラジャーしてないぞ、たぶん……」

 万全の髪の毛がへなへなと力なく動きを止めた。

 いきなり万全が伊能の胸に飛び込んできた。
「く、口惜しいよお! あんなオカマにまで馬鹿にされて……」

 そのまま大声で泣きじゃくり始めた。
 伊能は、物凄く嫌だったが、必死で我慢した。
 また「死ぬ死ぬ」騒ぎになったら困るからだ。

 しばらくすると万全の泣き声がやんだ。
 ようやく落ち着いたらしい。

 伊能はなるべく優しい声で「大丈夫か、万全?」と声をかけた。

 すすりあげながら万全は、伊能の胸に押しつけていた顔をあげた。
 小さな目は涙に濡れていた。

 そしてやはり小さな鼻のあたりは、黄褐色のどろどろの鼻水と涙でぐちょぐちょだった。
 伊能の胸と、万全の鼻の間には鼻水の吊り橋が架かっていた。
 思わず突き飛ばしそうになったが、伊能は全力で我慢した。

 そのとき万全が頬をちょっと赤らめて伊能をじっと見た。
「伊能さんの胸って……あったかい」

 気がつくと、万全が床に転がって鼻血を流していた。
 伊能は自分の拳を見た。
 鼻水らしき粘液が付いていた。

 伊能は猛ダッシュで浴室に駆け込んだ。
 着ていたものを全て脱ぎ、シャワーを浴びた。
 拳は念入りに何十回も洗った。

――絶対謝らない。
 そればかり考えていた。

 浴室から出る時、伊能ははっとあることに気がついた。
――真澄もニュースを見ただろうか? いや見ていなくても、必ず知ることになる。おそらく警察も行くに違いない。なるべく早く事情を話さなければ……。

 万全なんかを相手にしている時ではない。
 真澄にどう説明するか、考えなくてはならない。

 難しい顔で居間に向かうと、万全のはしゃいだ声と、聞きなれない声が聞こえてきた。
 訝しく思いながら居間のドアを開けた。

 丸めたティッシュを、これ見よがしに鼻に詰め込んだ万全が、本当に嬉しそうに誰かと話していた。
 相手の男は伊能に背中を向けていて、誰だか分らなかった。

 首に包帯を巻いている。
 男が振り向いた。
 タケトだった。

「伊能さん! お久しぶりです! 昨日のニュースを見て、もう大変だって思って。病院脱走してきちゃいました」

「どうやって、ここへ?」

「この前二宮さんに須賀さんの家を教えてもらいました。それで今朝訪ねて行ったら、ここに連れてきてくれたんです」

「いや……でも体大丈夫か? 病院に戻ったほうがいいぞ。俺たちはお尋ね者だからな。もう打つ手もないし……」

 タケトは明るい目で伊能を見て、少しはにかんだような微笑みを浮かべた。
「ピンチなんでしょ? だから僕も来たんです。僕も異能戦隊サラマンダーですからね」

 首に巻いた包帯が痛々しかった。
 だがタケトの登場で何かが変わった。

 万全が笑っている。
 土岐も少し元気になった。
 伊能は真澄に本当のことを話そうと決めた。

 おそらく信じてはくれないだろう。
 本当のことが一番嘘くさいこともある。

「何でこんな事をしたの?」
 真澄は聞くだろう。

 俺は本当のことを言う。
「セイギのためだ」

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55 五里霧中そして四面楚歌(2)

 須賀の部下たちが懸命に捜索したが、YUKIを見つけることは出来なかった。

 希の状態はかなり悪いらしく、須賀自身もひどく衰弱していた。

 須賀は伊能達の強い勧めに渋々従って横になったが、すぐに眠りに落ちた。頬が落ち窪んで、まるで死人のような寝顔だと伊能は思った。

 伊能達はなんとなく、居間に集まっていた。
 テレビの深夜放送は、通信販売の番組を垂れ流している。
 煩わしいので、伊能はリモコンでミュートにした。

 誰も口を開かなかった。
 万全は眼をしょぼしょぼさせて、皆の様子をうかがっている。
 土岐はくわえ煙草でダイスを転がしていた。

 伊能は時おり思い出したようにYUKIの携帯に電話していたが、全くつながる気配はなかった。

 暗い眼でひたすらダイスを転がしている土岐がぽつりと呟いた。
「もう駄目だな……オーラスだ」

 誰も返事はしなかった。
 万全の肩ががっくりと落ちた。
 伊能はため息を漏らした。

「俺たちの持っている情報を警察に渡しましょう。もちろん匿名で。あとは警察の判断次第。残念だけど仕方がないでしょう」

 伊能の言葉に、土岐は目を細めた。煙が目に沁みたのかもしれない。
「俺が心配なのは、希君だ。存在そのものが減ってきているって、どういうことだ? あの子が消えたら、本体はどうなる? 死んじゃうのか? とにかく、これ以上希君の力は絶対に使えないな」

「やっぱり二宮君は、あの化け物だったのかな……」
 万全が悲しげな声を出した。

「そのことは今考えても無駄だ。すべて憶測にすぎないからな」
 伊能がそう言って、ふとテレビの方を見た。

 須賀の顔が大写しになっていた。
 慌ててリモコンを操作して音声を出す。
 早朝のニュース番組らしい。

「昨夜12時頃、新宿のネットカフェ『サラマンダー』で客が刃物を持って暴れ、従業員一人が顔に大けがを負いました。この店では今月に入ってから殺人事件や殺人未遂事件が起きており、関連を慎重に調べております。なお、今回の事件に関わっていると見られる数人の男が指名手配されました。須賀常太郎(83才、暴力団愛桜連合総長)、伊能高忠(35才、職業不詳)、土岐明秀(年齢、職業不詳)、万全大力(25才、会社員)……」

 警察で取り調べを受けた時に撮られた万全の写真と、物凄く恐ろしい顔の須賀の写真がアップになった。
 伊能と土岐の写真は無い。

「あれか! 入店のときに書かされたカード。畜生! 偽名にしておけばよかった」

 伊能が悔しがっていると、万全がふらふらと立ち上がった。
 目がうつろになっている。

「あわわわわ……正義の味方どころか、犯罪者になっちゃったあ……もう駄目だあ、会社も首だあ、結婚もできない、親兄弟親戚が泣く……」

「おい、万全!」

 伊能が心配して声をかけると、万全ははっとしたように体を震わせた。何か重大な事に気がついたらしい。

「け、け、け」
「けけけ?」
「刑務所……僕、刑務所に入るんだ! 鬼畜のような連中の慰み者になるんだあああ!」
「おい! 万全、ちょっと落ち着け」

 伊能の言葉はまるで聞こえていないようだ。
 亡霊のように浴室に向かって歩いていく。

「死ぬ……絶対に死ぬ、今死ぬ、すぐ死ぬ、断固として死ぬ!」
 万全は浴室に入って、内側から鍵を閉めた。

「おい! マジかよ! 万全、ここを開けろ!」
 伊能がドアをどんどん叩いた。

 身の毛のよだつような叫び声が中から聞こえてくる。
 異変に気がついた須賀の部下が、ドアを蹴り破った。

「万全! 大丈夫か?」
 飛び込んだ伊能は万全の顔を見て絶句した。
 口のまわりがデコレーションケーキのようになっている。

「万全、お前何をした?」

「歯磨きのチューブを一本飲めば死ぬって言うから……」

「誰が言った?」

「小学校の時、隣の席の岡田君が……」

 伊能は万全の肩を叩いた。
「あのなあ、おそらくその岡田君はな……馬鹿だぜ」

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54 五里霧中そして四面楚歌

 ひどく消耗した感じの須賀を、伊能と土岐が両脇から支えて車から降りた。

「万全、おまえは女を連れてくるのに付き添ってくれ。俺たちは先に部屋に行ってる。須賀さんは早く横にしたほうがよさそうだからな」

 伊能の言葉に万全は少し不満げな表情で肯いた。
 おそらくレッドと呼ばないことが不満なのだろう。

「わしは大丈夫……」
 そう言う須賀は一気に年老いたように見えた。

 伊能と土岐は思わず顔を見合わせた。
 そして二人で須賀を抱え、部屋に向かった。

 須賀の部下たちが拳銃を引き抜き、YUKIを入れた車のトランクに集まるのが見えた。

 部屋に入り、嫌がる須賀をなだめて布団に横たえた。

 乱暴にドアが開かれ、髪を振り乱した万全が飛び込んできた。
 小さな目が極限まで大きく見開いている。
「き、消えた!あの化け物女が消えちゃった!」

 伊能が万全の腕を力一杯握り締めた。
「どういうことだ?ちゃんと説明しろ!」

「わかんないよ! 開けたらいなかったんだ! トランクは内側から開かないのに……今みんなが探してるけど……やっぱりあいつはお化けなんだよ!」

 3人の男たちが入ってきた。
 全員がひどく緊張した顔つきになっている。
 それぞれの手にはしっかりと拳銃が握られていた。

「女が消えました。自分らは護衛のため戻ってきましたが、ほかのものが今探しています」

「内側からこじ開けたような形跡はないんですか?」

 伊能に男たちの一人が首を振った。
「全くありません。そんなこと絶対に不可能な作りなんです。車自体特注品ですし、まあこういう使い方もあるということは想定してますから」

「ちょっと俺に見せてくれないか?」

 土岐の言葉に男が訝しげな顔をした。
「見るって、トランクですか?」

「ああ、頼みますよ」

 男たちが顔を見合わせていると、須賀がよろめきながら起きてきて一喝した。
「言われたとおり土岐さんをお連れせんかい!」

 慌てて男たちの一人が土岐を連れて外に出て行った。

 須賀はぐったりとソファに座り込んだ。
「あの女に逃げられると、わしらも打つ手がありませんな……」

「……そうですね。しかしいったいどういうことなんだろう?」
 伊能も頭をがりがりと掻きむしった。

「希君にも、もう無理はさせられません。いま、休んでおりますが……限界だと思います」

 万全もしょんぼりと座っていた。
 小さな体をますます小さくして、迷子の子供のように不安そうな目をしていた。

 土岐が戻ってきた。
 険しい顔をしている。

「土岐さん、どうでした?」

 土岐は煙草をくわえて火をつけ、大きく吸うと、すぐに乱暴に灰皿で押しつぶした。
「感情の匂いがわずかに残っていた」

「どんな?」
 伊能を見る土岐の表情が僅かに歪んだ。

「二宮の匂いに似ていた」

「二宮! なぜ? どういうことだ!」
「そんな馬鹿な!」

 土岐は再び落ち着かない様子で煙草を取り出して唇にくわえた。
「二宮独特の感情の匂いと似ていた……ただ……」

「ただ?」

「俺はこれほど切ない、哀しみの感情を今までに嗅いだことがない」

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53 バイタルサイン(生命徴候)

 希が大きな氷の中に閉じ込められていた。
 必死で氷を打ち砕こうとするが、表面に傷一つつけられない。
 見る間に希はぐったりとしていく。

 希の母、由美子ははっとして目が覚めた。

 昨夜希の病室でずっと本を読み聞かせていた。
 小さな男の子が不思議な世界を旅する物語だった。
 それはいつの間にか自分が熱中してしまうくらい面白い物語だった。

 そのまま希の手を握り締め眠ってしまったらしい。

 深夜の病室はいつも通り静寂に包まれていた。
 常夜灯の淡い光が、風にでも吹かれたかのようにすーっと暗くなった。

 由美子はそのとき気がついた。
 握ったままの希の手が氷のように冷たくなっていることに。

 慌てて由美子は希の両頬を手で挟みこんだ。
 冷たかった。
 半開きのあどけない唇も色を失っている。

 ナースコールを立て続けに押す。
 パジャマの胸をはだける。
 薄い胸に耳を押し当てた。
 かすかに聞こえる心臓の鼓動。

 由美子は冷たい体に体温を取り戻そうと、声にならない叫びを上げながら手でこすり続けた。

 看護士と続いて医師が入ってきた。
 医師は希の様子を一目見るなり「バイタル!」と看護士に命じた。

 押しのけられた由美子は壁際で震えながら「神様…ああ神様どうか」とつぶやき続けていた。

 医師の指示によって大きな機械が運び込まれてきた。
 何本ものコードが希に繋がれた。

 それが終わると医師が由美子の元へ来た。
 由美子は医師の表情を食い入るように見つめた。

「バイタルサイン、脈拍、呼吸、血圧、体温のことですが、これは基本的な生きている証のようなものです。希君の場合、新しい病変が起きたとは考えにくいのですが、なぜかこのバイタルが全体的に低下しています。これは長く意識のない患者さんに比較的よく見られることです」

 由美子は医師の袖をしっかりと掴んだ。
「それで、先生、希はどうなるんですか?」

 医師は由美子から視線をそらせた。
「まだ今の段階では……ただ、このままバイタルが落ちていって……最悪の事態もありえます……」

 由美子は力が抜けて床にへたり込んでしまった。
――あの物語を早く読んであげなくちゃ。
 昨夜途中で終わった、少年の素敵な冒険の物語。
 なぜかそのことばかり考えていた。

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52 生身剥ぎ(ナマハゲ)

 人体としてデッサンが狂っていた。

 YUKIだったときに身に付けていたタイトなスカートはビリビリに破れ、腰みののようにまとわりついている。

 そこから力士のように太い毛むくじゃらの足が突き出していた。
 目は虎のように黄色く輝いている。

 思わず伊能は恐怖に凍りついてしまった。
 化け物が長い刃物を振り上げた。

――やられる!
 伊能は眼を瞑った。

「貴様!動くな!」
 誰かに背中をつかまれ引っ張られた。
 目を開けると警官が数人階段を駆け下りてくるのが見えた。

「伊能!早く上がってこい!」
 土岐が叫ぶのが聞こえた。

 伊能と入れ替わるように化け物の前面に立った警官が上ずった叫び声をあげた。

「なんだなんだなんだ!こいつあああ!動くなああ!あああ!やめろおおお!」

 物凄い勢いで警官隊が逃げてきた。
 伊能達を押しのけて逃げていく。

 土岐が一人を捕まえて怒鳴りつける。
「お前ら警察だろ?逃げんじゃねえ。あいつをなんとかしろ!」

 蒼白になった若い警官は土岐の手を振りほどいて喚いた。
「冗談じゃない!俺達はただの警官だ!地球防衛軍じゃない!あんな化け物と闘うほど給料もらってない!」

 逃げる警官を呆気にとられて見送るうちに、土岐はすぐそばに生臭い息使いを感じた。

――しまった。

 目の前にナマハゲがいた。
 牙をむき出して笑っていた。

 そしてそのまま動かなくなった。
 最初、土岐は自分の能力が発動したのかと思った。

 しかしナマハゲを照らすピンク色の光に気が付き振り返ると、万全と手を握る須賀の姿があった。

 万全の禿げた頭頂部から、ピンクの光が発していた。

 伊能がすかさずナマハゲの身体にマイオトロンを押しあてた。
 ナマハゲは崩れ落ちるように床に倒れた。
 みるみる元の姿に戻っていく。

「親っさん!大丈夫ですか?」
 須賀の部下たちが駆け込んできた。
 全員が拳銃を構えていた。

「その女を運べ。すぐにおまわりがどっとやってくるぞ。急げ!」
 須賀の部下たちは拳銃をしまうとYUKIに向かった。
 半裸の状態になって倒れているYUKIを軽々と運び去る。

「わしらも急ぎましょう。こんなとこで警察に捕まるわけにはいきません」
 須賀の言葉に全員が走って外に出た。

 須賀がよろめいた。
 伊能が身体を支える。
「大丈夫ですか?」

 須賀が苦しそうな表情で伊能を見た。
「わしは大丈夫ですじゃ……しかし希君が……」

「希君が?どうしたんですか?」

「希君が……希君が、減ってきてしまった!」

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51 変身

 YUKIは意識を失って床に倒れた。

「土岐さん、その女をソファに座らせてください。俺はまだ動けそうにないです。あと5分位で大丈夫だと思うんですが」

 伊能の言葉に土岐は肯いた。
 くわえ煙草のまま、倒れているYUKIを抱え上げてソファに座らせた。

 YUKIは完全に意識を失っている。
 顎を胸に付けるように力なくうなだれている。
 長い黒髪が顔を覆い隠していた。

「なんか、この女ちょっと怖い……」
 万全がYUKIを気味悪そうに見ながら呟いた。

 そして伊能の隣に座って、再び腕を絡めてきた。
 伊能がその手を邪険に振り払う。

「お前の方が怖いよ。もう手は繋がなくていいんだ。須賀さん、俺が動けるようになったら、すぐにこの女を連れて行きましょう。部下の方たち何人かに車で来てもらえますか?」

 須賀は肯いて携帯電話を取り出した。
 短いやり取りを終える。

「10分ほどで迎えにくるそうじゃ」
 須賀の言葉に、皆ほっとしたような表情になった。

「しかし、結構美人ですよね。おっぱいは小さいけど……」
 万全が少し虚脱したような様子で呟いた。

「とにかく二宮じゃなくて良かったよ。この女から聞き出すことはたくさんあるな。テロ計画の全貌。二宮の監禁場所。こいつの異能力の正体……」
 伊能の言葉が止まった。

 微かな笑い声が聞こえたような気がした。

 伊能がYUKIを凝視している。
 YUKIは相変わらずぐったりとうなだれている。

「お前……今笑ったか? 気が付いているのか?」
 伊能が少し蒼ざめながら、厳しい口調で言った。

「ま、まさか。笑い声なんかしませんよねえ」
 動揺を隠す様に、万全が妙に明るい声を出す。

 しかし須賀も土岐も緊張した表情でYUKIを見ている。

 YUKIは糸の切れた操り人形のような格好のまま、微動だにしない。

 顔の全面を覆っている黒髪のせいか、その場所だけやけに黒々と闇が深くなっているような感じがした。

「万全、ちょっと女の様子を確認しろ。髪の毛が邪魔で表情が見えない。俺に顔が見えるようにしてくれ」

 万全は露骨に嫌な顔をしたが、伊能のただならぬ様子に渋々と立ち上がってYUKIの所に行った。

 万全は、恐る恐るYUKIに手を伸ばそうとした。

――ククク……。
 笑い声が聞こえてきた。

 万全の動きが凍りついた。

 ひどく耳障りな笑い方だ。
 人間以外の、何か得体のしれない動物の声に聞こえた。

 声は……、
 女の方から聞こえる。

「万全! 離れろ!」
 伊能が叫ぶ。

 万全はぎこちない動きで一歩離れようとした。
 しかし蛇のように素早く伸びてきた手に、しっかりと手首をつかまれた。

 慌てて振り払おうとしたが、万全の手首の骨が悲鳴を上げるほどの怪力で、逆に引き寄せられてしまった。

 YUKIという女は華奢と言ってもいいくらい痩せていた。

 万全の手首を掴んでいる手は、プロレスラーのように筋骨たくましい腕だった。
 手の甲には、獣のような長く黒い剛毛がびっしりと生えている。

 しかし明らかにそれはYUKIの腕だった。

 顔も上げずに、腕だけが別の生き物のように万全を襲ったのだ。

 土岐がマイオトロンを持って立ち上がった。
 伊能も動こうとしたが、まだ無理だった。

――ククク……。
 女がゆっくりと顔を上げた。

 その顔を目にしたとき、伊能は叫びをあげて逃げたかった。

 皆そう思ったろう。

 万全などは捕まっているから、女の顔を見たとき危うく失禁しそうになった。

 さっきまで日本的な顔立ちの女だった。

 顔を上げて皆を見ているのは、服はそのままだが全く違う人間だった。
 醜いといえる、恐ろしい顔の男だった。

「お前は誰だ?」
 伊能が訊いた。

――須賀さんの部下が来るまで、あと5分くらい。早く来てくれ。こいつは物凄くヤバい。

「うわあああああ」
 万全が情けない悲鳴をあげた。

 元は女だった顔が、まだ変化し続けていた。

 色白の細面だったのが、顔のいたるところにぼこぼこと瘤のようなものが現れ顔の形を変えていく。

 細かった眉毛はどんどん太くなっていく。
 細い顎はしっかりとした顎になった。
 歯の大きさまでが変わっていく。
 映画でみる狼男の変身シーンのようだった。

 恐怖に凍りついた伊能達は、何をすればいいのか考えられなかった。嫌な音を立てて、骨や筋肉までが変化していく様子から目が離せなかった。

 長く感じたが、変身が終わるまで3分くらいだった。
 そこにいるのは大きな化け物じみた男だった。

「い、伊能さん。つ、角が……」
 変身を終えて、にやにやしながら伊能達を見つめる男の額の両側には、角のような瘤が盛り上がっていた。

 先ほどのYUKIとは比べようもないほど禍々しい雰囲気を発散させている。

「お前らはYUKIに一杯食ったわけだ。YUKIが意識を失えば、俺が出てこれるからな」

「あんたは何者だ?」
 伊能の問いに男は歯をむき出し笑った。

「泣ぐ子はいねがあ。悪い子いねがあ」

 いつの間にか男の手には床屋がヒゲ剃りに使うような長い剃刀が握られていた。
「俺の名はストレートレイザー。本物のナマハゲだ」

「ナマハゲって秋田の?」

「ああ、あれは観光用のナマハゲだ。本当は生身剥ぎ(ナマハギ)という山に棲む一族だ。何百年も昔から、俺達は子供を食って生きている。もっとも俺はYUKIの身に居候しているだけだ.言っておくが俺は何の能力も無いぞ。俺はただ殺すだけだ。お前たちの生身をそっくり剥いでやろう」

――こいつは無理だ。逃げるしかない。こんな化け物とは……

 体が動くようになった。
 伊能は叫んだ。
「皆逃げるぞ! 万全、手を振り払え。合気道だ!」

 ――もうすぐ須賀さんの部下が来る。なんとか逃げなければ……。
 騒ぎに気がついた店員が、渋い顔で近寄ってきた。
 唇ピアスの男だ。
 ナマハギの前でうんざりしたように言った。
「寝てるお客さんもいるんで、少し静かに……」

 店員が絶句した。

 鼻の下にぽっかりと赤い穴が口を開けた。目にもとまらぬ早業で、上下の唇を剃刀で削がれたのだ。

 あっと口を押さえて蹲った。
 真っ赤な血がぼたぼたと床に滴り落ちる。

 そのすきに万全はなんとか手を振り払い、脱兎の如く出口に向かって逃げ出している。

 土岐は須賀に手を貸して、一緒に出口を目指した。
 伊能も何とか動けるようになって後を追う。

「泣ぐ子はいねがあああ!」
 ナマハギが長い剃刀を手に追ってくる。

 振り返ってその姿を見た伊能は、これは人間ではないと確信した。

 表情も走り方も声も、全てが人間離れしている。
 特にスピードが凄い。
 これではあっという間に追いつかれてしまう。

 先頭を走る万全に向かって、伊能は叫んだ。
「万全! マキビシだ! マキビシでこの化け物を足止めしろ!」
 万全は地上に上がる階段にさしかかっていた。
 伊能の声に慌ててポケットの中を探る。
 ひとつかみのマキビシをまき散らす。
 須賀や土岐、伊能の前に撒かれた。

「いてててててて! 万全のバカ野郎め! どこにまいてやがる」
 土岐が喚く。

 万全は後ろも見ずに逃げていく。

 まだ動きの鈍い伊能は、背後にナマハギの息遣いを感じた。
 いつ身体に鋭い刃物の感触を感じることになるのだろうか。

 ふと、さっきナマハギの言った言葉を思い出した。
「YUKIが意識を失えば、俺が出てこれる」

――こいつの意識を奪えばYUKIに戻るのか?

 伊能は立ち止った。
 手にはマイオトロンを握りしめている。
 狂ったような顔のナマハギが目前に来ていた。

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50 反撃

須賀の皺だらけの首に、太く静脈が浮かんでいた。

 YUKIはその静脈を凝視しながら、一気に須賀の近くまで行った。

 簡単な仕事だ。

 切って下さいとばかりに浮かび上がっている頸静脈と、その下に隠れている頸動脈を切断するだけの仕事だ。

 10秒とかからない。

 口元に笑みを浮かべながら、YUKIがその静脈を切断しようと手を振りかぶったとき、俯いていた須賀が急に顔を上げて、YUKIを見た。

 幻覚に溺れている目ではなかった。
 恐怖を感じている目でもない。
 鋭利な、それでいて澄み切った、奇妙に意思的な眼差しだった。

 YUKIも殺しのプロだ。
 何があっても躊躇はしない。
 一気に須賀の首を切断しようと手を振り下ろした。

 振り下ろそうとした。
 1ミリも動けなかった。

 振り上げたままの手は、まるで神経が遮断されたように、どんなに力んでも動かない。

 YUKIは腕だけではなく、全身が動かないことに気づいた。
 目玉しか動かない。
 目だけを動かし他の三人を見た。

 土岐という男はYUKIを見つめながら煙草に火を付けている。
 片手なので不自由そうだ。

 もう一方の手は隠すようにして、須賀としっかり手をつないでいた。

 伊能というちょっとハンサムな中年男は、なぜかYUKIに向かって携帯電話を向けている。
 土岐に寄り掛かるようなだらしない格好だ。

 そして伊能と恋人のように腕をからめているのは、万全とかいうハゲの変態男だ。

――こいつらホモか?

 そうとしか見えないくらい、全員がくっつくように固まっていた。

 YUKIは万全の髪形がいつの間にかほどけて、落武者状態になっていることに気付いた。

 禿げた頭頂部が真っすぐYUKIに向いていた。

 そしてその円形の禿から、どぎついピンク色の光のようなものがYUKIに向かって放射されていた。

 その下品な光がYUKIを拘束しているらしい。

 YUKIは、悔しさで発狂しそうだった。
 滅茶苦茶に暴れようとしているのに、指一本動かせない。
 眼だけがますます狂気を帯びていく。

「貴様ら、あたしに何をした?すぐに動けるようにしろ」
 YUKIはようやくそれだけを喋ることができた。
 唇さえ動かせないのだ。

 突然伊能が狂ったように喚きだした。
 相変わらず携帯電話をYUKIに向けている。

「おい、このクソ女。てめえの負けなんだよ。俺たちの事をなめやがるから、こんな事になったんだぜ。確かに万全なんかハゲでチビでケチな変態野郎に見えるけどな。だがこいつのしょぼい異能力が、今お前を縛っている。こいつのちっちゃな念動力でも、お前なんか殺そうと思えば、殺せるんだぜ。ん?」

「ひどい……」
 万全がポツリと呟いた。

「あ、悪い悪い、怒るなばんぜ……じゃなくてレッド。ほら、いつもの反作用だから、心にもないこと喋り散らしてるだけだから」
 恨めしげな眼をした万全に、ちょっとだけ気を使ってから伊能は先を続けた。

「万全の能力だけじゃない。俺の能力だって役に立ってる。お前は人に幻覚とか見させる能力があるみたいだな。つまり脳に作用する何かができるわけだ。まさか店に入ったとたんにやられるとは思わなかったけどな。見事に全員やられたよ」

「どうやって正気になった?」
 YUKIは伊能を食い入るように睨みながら、歯の間から言葉を絞り出した。

「お前、俺の異能力を知ってるか?最初は衛星のカメラに俺の視覚がリンクした。ということは他のカメラ、監視カメラとか、ケータイのカメラにもリンクできるんじゃないかと試したてみた。これが出来たんだな。だから俺は幻覚を見始めた時に、ケータイのカメラを撮影モードにして、そこに視覚を切り替えることができた。ケータイには脳がない。お前の異能力もきかないだろ?」

「他の奴らはどうして?」

 伊能はポケットからやはり携帯電話くらいの大きさの物を取り出した。
「これはマイオトロンといってな、お前と闘う為に用意した武器だ。FBIが開発したという優れもので、スタンガンより効果がある。スタンガンみたいに体に電流を流すんじゃなくて、脳神経そのものにパルスで衝撃を与える。幻覚剤なんかで異様に興奮している奴にも効果があると説明書に書いてあった。だから俺が全員にマイオトロンを押しあてたんだ」

「凄いショックだった。一発で目が覚めたぜ」
 土岐が煙草の煙を吐き出しながらいった。

「おい女、お前の能力をすぐに解除しろ。さもないと気絶してもらうことになるぞ。いつまでもケータイのカメラ越しに見ているのも疲れるしな」

「そうだな。伊能の手ぶれがひどいから、映像を見ていると気持ち悪くなる」

 土岐の言葉にYUKIは驚いた。

「伊能が見ている映像を他の人間も見られるのか?」

 伊能が得意そうな顔になった。
「女、お前俺達が仲良く手をつないだり、べたべたくっついているのを見てホモだと思ったろう?これにはちゃんと訳がある。俺たちの能力はしょぼいけどな、繋がることが分かったんだ。しかも繋がることによって、能力の共有だけではなく、能力自体のパワーが増幅されることも分かった。特にお前が狙っていた須賀さんは凄いぞ。須賀さんには特にこれと言った能力は無いが、他人の能力を増幅させることにかけてはピカイチだ。現に今お前が動けなくなっているのも、万全の能力を須賀さんが増幅しているからだ」

 突然YUKIがけたたましく笑い始めた。
 整った日本人形のような顔立ちなのに、口だけが赤く耳まで裂けているように見えた。
「まったく下らない連中だ。それでお手々繋いでたのかい。まあゲームは私の負けさ。だけど私は何も話さないよ。拷問でも何でもするがいい。それから私をここから連れ出したいなら、気絶させるしかないよ。オマワリだって警戒中なんだ。ひと騒動起こしてやる」

 伊能が須賀を見た。
 須賀は仕方がないと言った風に肯いた。
 伊能は万全の肩を叩いた。
「ばんぜ、じゃなくてレッド!あの女の頸動脈を1分ばかりつまんでくれ。それで気を失うだろう」

 伊能はYUKIに向かって言った。
「これで分かっただろう。万全の能力はブラジャーのホックを外すのが精一杯の小さな力だ。だけどなブラジャーのホックを外すほどの精密な動きと力があれば、人間の体内の血管や神経をいじくるのは訳なくできる。まあ、これからお前は体験するわけだがな」

 万全の小さな目がYUKIに向けられた。
 YUKIは、自分がいま恐怖を感じ、震えていることに気がついた。

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49 アシッドハウス(2)

 万全は蛙を見ていた。
 緑色の、子供の握りこぶしくらいの蛙を見ていた。

 小学校2年か3年のとき、夏休みに行った田舎で捕まえた蛙だ。

 愛くるしい目をした蛙は、万全が苦労して捕まえた小虫をよく食べた。

 友達のいない万全にとって唯一の友だった。

 小さな川のほとりにしゃがんで、万全は「ケロ」と名づけた蛙を水に漬けてやっていた。
 ケロは気持ちよさそうに目を瞑っていた。

 水面に影が差し、万全はいきなりケロを奪われた。
 意地悪な顔をした数人の田舎の子供たちが集まっていた。

 6年生くらいの、にきび面の大きな男の子が、万全を憎々しげに睨みながらケロを握り締めていた。

「返せよ!ケロを返せよ!」
 背の小さい万全が叫びながら飛びつくが、どうしても手が届かない。

「なんだべ。こいつ蛙に名前付けてっぞ。馬鹿じゃないべか」

「返せ!返せ!」
 必死に飛びついてくる万全をうるさそうに振り払い、にきび面は仲間の少年の麦藁帽から麦わらを一本抜いてケロの肛門に差し込んだ。

 万全は一瞬きょとんとした。
 何をする気なのか見当もつかなかったのだ。

「蛙との遊び方、おらが教えてやっぺ」

 体に息を吹き込まれて、ケロは信じられないほど大きく膨らんだ。
 目玉も舌も苦しげに飛び出している。

 にきび面は風船のようになったケロを思い切り地面にたたきつけた。

 破裂音がした。
 後は何も覚えていない。

 ――超能力を身につけよう。
 布団の中で泣きながら決意したことだけを覚えている。

 そのケロが、気がつくと万全の前にちょこんと座っている。


 土岐は失った子供を見ていた。

 かつて一度結婚をした。
 かつて一人子供がいた。

 利発な可愛い男の子は、不幸な事故で死んだ。
 3才だった。
 土岐の目の前に、変わらぬ姿のその子が立っていた。


 須賀は戦場にいた。

 弾薬の尽きた高射砲部隊の中隊長として、敵機の飛び交う幻の空を見上げていた。


 伊能は大勢の二宮を見ていた。
 どの二宮も寂しげな顔をしていた。


 YUKIは全員を見ていた。

 YUKIの異能力「アシッドハウス」によって、それぞれの幻覚のなかに沈み込んでいく4人を愉快そうに見ていた。

――無様な連中だ。
 YUKIの発する体臭に含まれる、LSD25に似た強い幻覚作用をもたらす成分の虜になっている4人の男たちをあざ笑った。

――もはや彼らが私の姿を見ることはない。

 YUKIは右手の爪を見つめた。
 真っ赤に塗られた長い付け爪だ。

 特殊素材で作られたその爪は、剃刀以上の切れ味をもつ。
 さて、そろそろと思ったとき、伊能が立ち上がった。

 目はうつろで何も見ていないようだ。
 伊能は機械人形のようにギクシャクした動きで、仲間たちに武器のようなものを押し当てている。

 小さな悲鳴が聞こえてくる。

――ついに仲間を攻撃してる。馬鹿ね。
 YUKIは須賀に向かって真っ直ぐに歩き始めた。

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48 アシッドハウス

 サラマンダーに到着したのは約束の午前0時より10分早かった。

 伊能を先頭に、万全、須賀、土岐の順番で地下の入口に続く階段を下りて行った。

 万全が手に持っているコンビニの袋には、飲み物のペットボトルや軽食類が入っている。

 タケトが飲食物に薬を入れられた可能性を考えてサラマンダーの飲食物には一切手をつけないことを決めたのだ。

 サラマンダーの入り口のドアを開けると、強すぎる芳香剤の匂いが鼻をついた。

――引き返せ
 なぜか伊能の心にそんな思いがよぎった。

「いらっしゃいませ。再開したサラマンダーにようこそ」
 以前話したことがある、唇の端にピアスをした男が馴れ馴れしい微笑みを投げかけてきた。

「お一人ずつこちらのカードにご住所、連絡先をご記入ください。警察からの厳しいお達しでして」

 伊能達は並んでカードに記入しはじめた。
 伊能が真っ先に書き終えてカードを店員に渡した。

「ありがとうございます」
 といって受け取った男の唇の端に、ピアスに被さるような涎が白く溜まっていた。

――前にもそんな光景を見たな
 ぼんやりとその白い泡を見ていると、その中から糸くずのようなものが見えた。

 しかも蠢いている。

 はっとして凝視すると、男はぺろりと舌で舐めとってしまった。
 そして何事も無かったかのように微笑している。

――何をやっているんだ!引き返せ!
 衝動のように湧き上がってくる強い思いに、伊能は他の三人を見た。

 万全は熱心にカードに記入を続けている。
 細かい几帳面な字で丁寧に書いている。

 須賀は多少眠いらしく、少しぼんやりしている。

 土岐は何度も鼻をひくひくさせては、首を傾げている。
 まだ危険な匂いは感じないらしい。

――考えすぎか?臆病になっているのか?

 伊能は店員から入店時刻を刻印された伝票を受け取った。
 0・00と刻印されている。

 途端に店員の後ろに張ってあるこんな言葉が目に飛び込んできた。

{ゲームがスタートすると、リセットはできません。どうぞごゆっくりお楽しみください}

 再度見ると、それはあるネットワークゲームに関する長い注意書きで、文章の中にバラバラに存在している言葉が浮かびあがって伊能の目に飛び込んできたようだった。

――変だ!何かヤバい!
 伊能が皆に注意を促そうと思った時、他の三人はコミュニティスペースまで進んでいた。

 コミュニティスペースには、何人かの他の客たちがくつろいでいた。

「ちょっと皆、待って!」
 呼びとめた伊能の大きな声に客たちが一斉に伊能を見た。

 全員が同じ顔だった。
 全員が二宮だったのだ。

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47 ゲームの準備(2)

  それぞれが自分の使いやすい護身具を選んだ。

 伊能はマイオトロンとスリングショットにした。
 万全はグレネードとマキビシ。
 土岐はマイオトロンと伸縮式警棒。
 須賀はスタンガンを選んだ。

「考えれば考えるほど、このゲームは気に入らない」
 伸縮式警棒を、重さを確かめるように振りながら土岐が呟いた。

「確かにそうですね……」
 伊能は読んでいたマイオトロンの説明書から顔を上げた。

「まず相手の人数が分らない。まさかユキって女一人じゃあるまい。この前の襲撃みたいに本物の銃を持っているかもしれない」

「でも、それなら屋外の方が良くないですか?あんな場所で発砲したら、あっという間に警察に囲まれますよ。むしろサラマンダーと、場所を指定しているところが俺は気に入らないですね」

「ヤクザは駄目だが、俺たちなら何人来てもいいって言ってたよな。まったくなめられてるわけだ」

「実はそれが一番不思議なんですよ。俺や万全はともかく、土岐さんの嗅ぐ能力は奴らにとって脅威のはず。もしかすると、知らないんじゃないかとも思えるんですよね」

「二宮だったら知ってるぜ」

「そうなんですよね……」

「とにかく、サラマンダーの中でどう行動するかを決めよう。須賀さんと万全はどこ行ったんだ?」

「グレネードの栓が固いとかで、何か道具を探しにキッチンの方へ行きましたよ」

「呼んでくるか」といって土岐が立ち上がったとき、異様な声が聞こえてきた。

「うぎゃああ」
「うえほえほえほえほ」
「かんぎ!かんぎせんまわじて!」
「まどだ!まどあげろ!げほげほ」

 キッチンとリビングの間のドアが開いた。

 護身具の説明をした男が、須賀を抱えるようにリビングに駆け込んできた。須賀の口をタオルで覆っている。

 黄色っぽい煙のようなものがリビングに流れ込んできた。

「窓を開けてください!」
 男が叫ぶ。

 腐った玉ねぎと硫黄が混ざったような匂いに、伊能も土岐も思わず吐きそうになる。目に突き刺すような痛みが走る。涙が溢れ出す。

 それでも伊能は走って窓を全開にした。
 10分ほどでようやく目を開けても大丈夫なくらいになった。

「何があったんですか?」
 伊能が須賀に訊ねた。

 須賀はまだ咳きが止まらず、男が懸命に背中を撫でさすっていた。

 男が憎々しげにキッチンの方を見ながらいった。
「グレネードを暴発させたんですよ。あの変な頭の人が。わざわざ黄色くDANGERって書かれている場所にアイスピックを突き立てたんです。いったい何を考えてるんですかね!」 

「何も考えていないんだろうなあ……あれ?万全はどこだ?」

 伊能と土岐がキッチンに行ってみると、万全が悶絶していた。
 右手にアイスピックを持ったままだ。

 30分後意識を取り戻した万全は、皆の冷ややかな視線に小さくなった。

「さて、万全さんも大丈夫なようですから、今夜の打ち合わせをしましょうか」
 須賀は無表情にそう言うと、軽く咳きこんだ。

 万全がさらに小さくなった。

「さっき土岐さんとも話したんだが、サラマンダーに入ってからの動き方を決めておかないとまずいと思う」
 伊能が切り出した。

「とにかく敵の目的は須賀さんを殺すことだ。俺たちの目的はユキという女を捕まえることだ。当然こちらとしては、須賀さんを完全に守りつつ、ユキを探すということになる。敵がユキだけなのか、仲間もいるのか、どんな武器を持っているのか、なぜサラマンダーという場所を指定したのか、分らないことだらけだ」

「わしの安全など、二の次にして下され。ユキを捕まえることを最優先でお願いしたい」

 土岐が首を振った。
「いや、須賀さんは一人じゃない。希君と二人分だ。だから敵も須賀さんにこだわるんだろう」

 伊能はサラマンダーの見取り図を出した。
 土岐や万全に聞きながら、手書きで作ったものだ。

「入口カウンターの前がコミュニティスペースになっている。いつも誰かがいる場所だ。ここに本陣を置いたらどうだろう?須賀さんにはここにいてもらう。ガード役は土岐さんだ。土岐さんなら危険な奴が近付けば匂いで分る。万一のときには、例の凄い異能力も使える」

「伊能と万全がユキを探すのか?」

「いや、ユキは探さない」

「えっ」思わず全員が声を上げた。

「ユキの目的は須賀さんだ。必ず向こうからやってくる。俺と万全は獲物を追いたてる勢子役だ」

「それはいいですね。僕も賛成です」

「あっ、希君だ!」土岐の目つきが柔和になる。

「それともう一つ、僕からの提案なんですけど、夜まで時間がありますし、皆さんの異能力の可能性を探ってみませんか?もしかすると、凄い武器になるかもしれませんよ」

「賛成です!隊長!」
 万全が急に元気になった。

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46 ゲームの準備

 潜伏用マンションとはいえ、親分用だからなのか、相当贅沢なマンションだった。

 やたらに広いリビングを中心に、洋室和室が4部屋ある。
 それぞれの部屋にドアがあり、広さもゆったりとしている。

 伊能と土岐は別々の洋室で寝た。
 万全はベッドでは寝られないといって、一つしかない和室で須賀と枕を並べて寝たようだ。

 伊能は久しぶりに熟睡できた。

 真澄の家出、異能力の発現、その代償として作り笑いすらできなくなり、仕事も失った。
 思えばこの3か月は地獄のような日々だった。

 伊能はベッドから勢い良く下りて「よーし!やったるか!」と自分に気合を入れた。

 リビングにはすでに伊能を除く全員が集まっていた。

「おはよう!」

「よう、おはようさん」
 新聞をソファーで読んでいた土岐が、機嫌の良さそうな顔で挨拶を返してきた。

 万全はと見ると、鏡の前に立って、寝乱れた髪形のセットをしていた。

「レッド!おはよう!」
 伊能が声をかけると、「おはよう!ブルー」と言って、鏡越しにウインクをしてきた。

 その姿に、伊能は腰が抜けるほどぎょっとした。
 以前どこかで見た、昔の刑場をさまよっていた亡者の絵にそっくりだったからだ。

 磔(はりつけ)やさらし首になった者が、痩せこけた餓鬼のような体に、ぼろのような衣をまとい、さまよっている絵だった。

 恐る恐る確かめるように万全を見た。
 万全はセットに使う道具をずらりと並べて悦に入っている。
 しかも実に几帳面に等間隔に並んでいる。

――しかし、この姿を見ると、異能者というより狂人だな……

 マンションに用意してあった浴衣を着て寝たようだが、帯がほどけ、なで肩の貧弱な体が見える。

 万全の胸毛は凄かった。
 ほとんどゴリラ並の剛毛なのだが、残念なことに範囲が狭すぎた。

 みぞおちの辺りに、逆三角形に生えた胸毛は、女の陰毛にそっくりだった。

 そんなことを考えながら、呆れて見入っていると、鏡に映る万全がぽっと頬を赤らめた。

「ブルーてば、そんなに寝起きの姿を見つめないで下さいよ。なんか、恥ずかしいじゃないですか」

 そう言ってはだけた胸に生えた陰毛のような胸毛を隠すそぶりをした。

「ば、バカ野郎!呆れて見てたんだ。やめろ!身体をくねらせるのは。冗談でも嫌だ」

 伊能は奇妙な目つきで照れている万全に構わずに、ソファーでぼんやりとしている須賀の所に行った。

「あれ、どうしたんですか?須賀さん、目の下に隈が出来てますよ。昨夜はあまり眠れなかったんですか?」

 須賀は深い溜息をついた。
「眠れるわけがありません」

「どうしたんですか?」
 伊能は須賀の前に座った。

「わしは年をとったせいか寝つきが悪くてのう……それにこんな稼業だから、いつ殴り込みを受けるかわからんじゃろ。ちょっとした物音でもぱっと目覚めてしまうのじゃ」

「なるほど。昨夜は何の音が?」

 須賀は鏡の前で鼻歌を歌っている万全の後姿を憎々しげに睨んだ。
「昨夜は万全さんと布団を並べて寝たんじゃ……万全さんが、寂しいから、とか言って妙にぴったりと布団をくっつけて敷いたんじゃよ。まるで新婚夫婦のようにのう……」

「なんか、凄く嫌な話になりそうですね」

「万全さんの寝付きの良さにまず仰天しました。おやすみなさい、といってから数秒後にぐわあとアヒルの鳴き声のような鼾が聞こえてきました」

「へええ……そりゃ、堪んないですねえ」

「いやいや、最初はふざけてるんじゃろうか、と腹も立ちましたが、鼾なんぞは1時間ほどでおさまりました」

「じゃ、それ以外にも何か?」

「鼾が終ったとたんですじゃ」

「何ですか?」

「それは屁で始まりました」

「へ?」

「わしの方に尻を向けて、ぶりばりぶりばりばりと、床の間に飾ってあるコケシが倒れるほどの屁じゃった」

「へええ……」

「しかも何十発も続くのじゃ!どうも尻で深呼吸をしているとしか思えん。栓をしてやろうかと思った時、突然屁はやみました」

「うーむ」

「そして、きりきりきりきりという異様な音が響いてきたのじゃ」

「な、なんですか?」

「歯ぎしりじゃ。どうして人間にあんな音が出せるんじゃろう?どんなに耳を塞いでも、脳の中に直接響いてくるような……壁に掛けてある絵が、その音で少しずつ傾いていき、朝になったら完全に斜めになっておりました……」

「なんて有害な奴なんだ」

「いやいや、歯ぎしりなんぞは可愛いものですじゃ……伊能さん」

「はい?」

「わしは生まれて初めて、堅気の人を殺したいと思いました……」

「何があったんです?」

「明け方になって、ようやくわしも眠りに落ちました。ほんの僅かな時間ですがのう。何かの気配でわしはいきなり目が覚めました。とてつもなくおぞましい感覚がわしを襲ったのじゃ」

「お化けじゃないですよね?」

「お化けの方がどんなに良かったか……目覚めるとわしの布団の中に万全さんが潜り込んでいました……」

「うへええ!」

「そして赤ん坊のように」

「赤ん坊のように?」

「わしの乳首を吸っておりました」

 須賀は浴衣の前をはだけて、右側の乳首を見せた。

 細い白髪に囲まれたしわしわの小さな乳首が、真っ赤に腫れあがっていた。

「失礼します!」
 須賀の子分たちが、大声で挨拶してから入ってきた。

 朝食を運んできたのかと思ったが、重そうな段ボール箱などを運んできたのを見て、これは違うなと気がついた。

 箱から出されてテーブルに並べられたのは、さまざまな種類の拳銃と、日本刀やナイフ類。

 並べ始めたそれらを見て、いつも以上に機嫌の悪い須賀が男たちを一喝した。
「馬鹿たれがあ!チャカやドスなんぞ誰が持ってこいと言ったか!虫より馬鹿な奴らじゃ。堅気が使える道具と言ったじゃろが!」

 須賀の怒声に、すっかり蒼ざめてうつむいていた男たちの一人が、ほっとしたような表情で顔を上げた。
「親っさん、それならこっちの箱に入っております」

 須賀はじろりと男を睨んだ。
「だったら、とっとと並べんかい!チャカなんぞ片付けろ」

 須賀の身の回りを固めている子分たちは、愛桜連合の精鋭に違いない。街で見かけるやくざ達より、はるかに凄味のある男達が須賀の前では子供のように怯えている。

「さて、皆さんちょっとここに集まって下され。ここに並べたのは、いわゆる護身具じゃ。今夜の闘いは、わしらに圧倒的なハンデがある。向こうはわしらを殺すことに、なんのためらいもない」

「そうですね」
 伊能も昨夜それを考えていた。

「わしらはその女を絶対に殺してはいかん。テロの手がかりは、その女だけじゃからな。だから相手を殺さずに無力化するグッズを揃えたのじゃ。自分に合った道具を選んで下され」

 土岐が手のひら位の大きさの携帯電話かポケベルのように見えるものを手に取った。
「これは何ですか?これも武器?」

 護身具を並べた男が答えた。
「それはいいですよ。マイオトロンといいまして、アメリカのFBIが開発したものです。スタンガンと違って、これは直接脳神経に作用して一時的に機能不全にします。薬中にもばっちり効きます」

 伊能は懐かしいものを見つけた。
「これはパチンコですよね?」

「そうです。スリングショットって呼ばれてますが、ゴムが強力で、鉛玉を飛ばすわけですから相当ヤバい物ですよ」

「あ、マキビシだ!こっちは殺虫剤かな?」

 声を上げた万全を見て、男はぎょっとした顔になった。
「それはグレネードという毒ガスです。敵が多人数ならいいですね。マキビシは追ってくる相手に対して撒きます。忍者と同じです」

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45 いくつかの疑惑

「さて、明日に備えて早く休みたいところでしょうが、希君から少し話しあいたい事項があるようですじゃ」
 須賀はそう言うと、眼を閉じた。

 再び目が開いたとき、希の輝くような瞳が現れた。
 しかしその眼は涙に濡れている。

 まだ体のあちこちが痛むらしく、恐る恐ると言った様子で屈伸運動をしていた土岐が驚いて希に駆け寄った。
「どうした! 希君!」

「ごめんなさい……ごめんなさい……僕のせいでみんなを危険な目に……ごめんなさい」

 しゃくりあげる希を土岐が優しく抱きしめて頭を撫でた。
「希君は悪くない、悪くないでしゅよ」と繰り返す、土岐の顔も涙がだだ漏れしている。

 この場面を知らない人が見たら仰天するだろうな、と伊能は思っていた。

 子供のように泣きじゃくる爺さんを、強面で無表情な中年男が、こちらも泣きじゃくりながら抱きしめている。

 年寄りホモカップルの愁嘆場のように見えた。

 しばらくして、少し落ち着いたのか希が話し始めた。
「僕なりに一生懸命考えてみました。今回一番不思議なのは、どうして僕たちの行動をユキという人が知ることになったのかということです。先ほど須賀さんの部下から連絡がありました。徹底的に捜索したけれど、盗聴器は発見されなかったそうです」

「すると、須賀さんの部下が立ち聞きでもしていない限り、俺たちの誰かから情報が漏れた、ってことか……」
 伊能が呟いた。

「考えたくはないが……俺たちの中に裏切り者がいる……」

「いや、それなら俺の鼻が嗅ぎつけるはずだ」
 土岐が断定するように言った。
「裏切り、内通といった思惑を持っていれば、必ず嗅げる。もっとも二宮みたいにもともと自我が希薄な奴の匂いは嗅ぎにくいがな……」

「二宮……!」
 全員が思わず顔を見合わせた。

「皆さんが今思ったことを実は僕も疑ったんです。もし間違っていたら二宮さんには本当に申し訳ないんだけど……」

「いや、今はそんな事を言っている場合じゃない。あらゆる可能性を考えてみるべきだ」
 伊能の言葉に土岐も肯いた。

 万全はなにか釈然としない様子だ。

「さっき新宿署のコンピュータに侵入してサラマンダーで起きた二つの事件の調書を読んできました。最初の事件、若い女性が首を切られてシャワー室で殺された事件ですね。これはストレートレイザーと名乗る人物がネットで犯行声明らしきものを出しています。このときサラマンダーにいたのは僕たちのなかでは、万全さん、二宮さん、タケトさんの三人です。警察が店の客に事情を聴き始めた頃には万全さんは出勤していませんでした。タケトさんの調書だけが残っています。二宮さんは異能力のせいか調書を取られていません。二番目の事件、タケトさんが襲われた事件では警察の動きも速く、ほとんど間をおかずに、店の客全員からの調書を取っています。このときも店にいたのは、万全さん、二宮さん、タケトさんの3人です。タケトさんは被害者。万全さんの調書はあります。このときも二宮さんは取り調べを逃れています」

「だがタケトの話だと犯人は女だ。俺はそれがユキという女だと思っているが……」

 伊能の言葉に希は肯いた。
「二宮さんの顔を思い浮かべて下さい。非常に女性的な顔をしていませんか?」

 それぞれの顔に驚きの表情が浮かんだ。
「女装?」

「二重人格かもしれんな……男の人格と、女の人格を持っているのかもしれん。男のときは二宮で、女のときはユキか……それならば、俺が当初感じていた異臭が突然消えた理由もわかる」

「あくまで、これは可能性です。もし間違っていたら、僕はなんといって謝ったらいいのか……」
 一同を重苦しい沈黙が支配した。

 それを打ち破るように万全が勢いよく立ちあがって、憤懣やるかたのない調子で発言した。
「皆は大事な事を忘れている!」

 全員が背筋を伸ばして万全を見つめた。
 万全は大きく咳払いを一つして続けた。

「万全じゃなくてレッド! 伊能じゃなくてブルー! 土岐じゃなくてピンク! 二宮じゃなくてイエロー! タケトじゃなくてブラック! 希君でも須賀さんでもなく隊長、でしょ!」

「ば、いやレッド……」

 こうして話し合いは二宮に対する疑惑と、万全のIQに対する疑惑を生んで終了した。

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44 ゲーム

「伊能さんのおかげで奴から情報を聞きだせました。この通りですじゃ」
 須賀は伊能に深々と一礼した。

 それから少し不思議そうな顔になって伊能に聞いた。
「ところでお二人はなぜここに?こんな現場は見せたくなかったのじゃが」

 伊能はシェイダの監禁されている部屋のほうをちらりと見てから答えた。

「土岐さんから、須賀さんがあの男を殺すつもりだと聞きましてね。土岐さんはまだ体が痛いみたいだし、取りあえずそれだけは止めようと思って万全と二人で来ました」

「わしの部下がよう納得しましたな」

「説得するのはプロですから」
 ここで笑えたらいいのに、と伊能は思った。

 それから万全を指差して、こう付け加えた。
「それから俺のおかげじゃないですよ。万全の異能力のおかげです」

「万全じゃなくて、レッド……」
 万全がそっぽを向いて呟いた。

 伊能は顔を歪めて須賀を見た。苦笑のつもりだった。
「部屋に入ったとき、あのシェイダという男がレッドを見て怯えたんです。理由は分かりませんがね……それでひょっとしたらと思って、ば、いやレッドに言ったんです」

「ほう、なんと?」

「あの男は女物の下着を付けているらしいぞ。ブラジャーをはずしてやれ」

 須賀はそれを聞いて思わず吹き出した。
 万全は憮然たる表情だ。

 ようやく笑いやんだ須賀が、感謝のこもった目で伊能と万全を見つめた。

「あの男の始末は、奴を使っておった神州連合にまかせることにしました。わしは怒りのあまり、希君のことを忘れておりました。わしが人を殺すところなど、どんな理由があっても子供に見せるわけにはいきませんからのう」

 須賀の目に穏やかな光が戻っているのを見て、伊能はほっとした。
「それで、須賀さん、どんなことが分かりましたか?」

 須賀は小さな紙片を伊能に渡した。
「わしの暗殺を依頼した者の携帯電話の番号ですじゃ。『ゆき』という名前の女らしい。奴とは麻薬の取引で関係していたそうじゃ。奴はテロ計画についてまったく知らないと言っておる」

 万全が勢い込んでいった。
「それなら、その電話の持ち主を調べてもらいましょうよ!」

「無理だな」
 そっけなく伊能が答える。

「身元の割れるようなケータイは使わないだろう……」
 須賀も同意するように肯いている。

「さて、どうしたものかのう……」
 沈黙が支配した。

 伊能が自分の携帯電話を取り出した。
 紙片の番号を入力していく。

「い、伊能さん?」
「ブ、ブルー?」
 須賀と万全が驚いて声を上げた。

 伊能は携帯電話を耳に当てて、須賀たちを見た。
「考えていても始まらない。まあおそらく、出ないでしょうがね」

 突然、伊能の表情が緊張に強張った。
 携帯電話のマイクボタンを押して、通話が皆に聞こえるようにする。

 伊能の携帯電話から、女の声が響いてきた。

「はじめまして。あら、伊能さんね、この番号は?」
 女の声はからかうような調子を含んでいた。

「何でも知っているんだな。あんたがユキさんか?」

「そう。あなた達の知りたいことの全てを知っている女、YUKIです」

「あんた……」
 意外な展開に伊能は絶句した。

 電話から女の笑い声が響いてくる。
「もうひとつ言えば、あなた方のお仲間、二宮さんを預かっているのも私ですわ。首が細くて、胴体から切り離すのが楽そうね」

 伊能は須賀を見た。
 須賀は沈痛な表情で頭を振った。
「二宮さんはまだ見つかっておりません……」

 その様子を見ていたかのように、女は話を続けた。
「分かったでしょう? 坊やを助けたい? それなら私とゲームをしない?」

「どういうことだ?」

「私はサラマンダーにいるわ。私を捕まえられたらあなた達の勝ち。ただし、ヤクザ共は一人も使っちゃ駄目よ。外に待機させただけでもゲームはおしまい。あなた方は何も知ることができずに、坊やの首だけを受け取ることになる」

「なぜ、そんなゲームを?」

「プライドよ! 須賀っていう爺さんを殺さないと気が済まないの。いいこと? だから必ず須賀も一緒に来るのよ。他の異能力者は何人来てもいいけどね」

「で、いつから?」

「明日の夜12時から、朝の6時まで。あなた達が私を捕まえるか、私が須賀を殺すかのゲーム。理解した?」

 須賀が伊能から電話を奪った。
「よかろう。ただし決着がつくまで、一切、二宮さんに危害は加えないと約束してもらう」

「わかったわ。じゃあ明日」
 女は笑いながら電話を切った。

 三人とも黙って携帯電話を見つめ続けた。
 また、女の笑い声が聞こえてくるような気がしたからだ。

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43 シャイターン

 肉体の苦痛になら、いくらでも耐えられる。
 所詮死ぬまでの僅かな時間だ。

――シェイダはそう考えていた。
 だからヤクザたちにどんなに責め苛まれても、うめき声すら漏らさずに耐えた。

 元の人相が分らなくなるほど、顔が蒼黒く腫れあがり、口から折れた歯と血を吐きながらも、眼だけは侮蔑の光を湛えて須賀の部下たちを見据えていた。

 何度か気を失い、そのたびに水をかけられ目覚めさせられた。

 どれだけの時間が経ったのか、気がつくと目の前に一人の老人がいた。

 老人は右手に長い刃物をぶら下げていた。
 厳しい眼でシェイダを見ている。

――これがスガか……
 小柄な老人は異様な迫力を発していた。

 異教徒のなかでもさらにクズ、ヤクザのボスなどに屈してなるものか、シェイダは血の混じった唾を老人に吐きつけた。

 老人はそれを避けようともしなかった。
「こやつはいくら責めても無駄じゃな……」
 老人はそう呟くとゆっくりと刃物を振りかぶった。

――これで終わる……
 シェイダは思わず微笑んだ。

「須賀さん」
 突然二人の男が入ってきた。

 背の高い男は、シェイダの顔をじっと見つめている。
 しかしシェイダはその後ろの男から目が離せなかった。

「Azrael!」
 シェイダは初めて恐怖を感じて呟いた。

 イスラムの死の天使がそこにいた。
 バベルの塔を頭に戴いている。

 小さな男は奇妙な表情を浮かべてシェイダを見ていた。
 シェイダをじっと見つめていた背の高い男が、死の天使に何事か囁いた。

 老人が一歩下がり、代って死の天使がシェイダの前に立った。

 うぞぞぞぞぞぞぞぞと微かな音が響いてくる。
 くおぉぉぉぉぉぉぉぉと死の天使が呼吸を漏らす。

 異様な気配がシェイダを包み込む。
 シェイダは圧倒的な恐怖にとらわれた。

 バベルの塔がゆっくりと回転しはじめ、徐々にほどけていく。
 やがて禿げた頭頂部がむき出しになった。

「Zakkum!」
 それは地獄の果実に似ていた。

 さらに、髪の毛の1本1本が、邪悪な蛇のように立ち上がり始めた。

「シャイターン!」
 シェイダは叫んだ。

 シャイターンとはキリスト教で言うサタンのことだ。
 死をもって終わる苦痛ならば耐えられるが、死後も永遠に続く苦痛には耐えられない。

「許してくれ。なんでも話す。シャイターンを俺の前から遠ざけてくれ」

 背の高い男と、シャイターンは部屋を出て行った。
 抜け殻のようになったシェイダは、知っていることのすべてを語り始めた。

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42 電光石火

 須賀と土岐は六本木にある高級マンションに連れて行かれた。
 数ある潜伏場所の一つらしい。

 襲撃者の男は、別な場所に連れて行かれた。
 若い男だったが、目が恐怖に怯えていた。

 須賀たちの所にも5、6人の筋骨たくましい男たちがいた。

 須賀に電話がかかってきたのは、マンションに着いてから1時間たったころだろうか。

 しばらくは黙って聞いていた。
「よし、そいつらをシラミ潰しにしろ。そのシェイダというボスはわしのもとに生かして連れてくるんじゃ。夕方までには片をつけろ」

 うやうやしく命令を聞いていた若い男が、言いづらそうに口を開いた。
「渋谷のイラン人グループは、神州連合がバックにいますが、どうしましょうか?」

 神州連合は西日本の雄として、愛桜連合とは犬猿の仲だった。

 須賀は黙って電話をかけ始めた。
「おお、須賀ですじゃ。久しぶりですのう。実は今朝ほどイラン人のグループに襲われましてな。わしをかばった大事な若者頭が命を落としましたのじゃ。幸い4人のヒットマンのうち一人を捉まえましてな。どうやら渋谷界隈を縄張りにするシェイダという男が首謀者らしい。これから、こいつら全員追い込みかけるが、あんたがバックにいるんじゃないかと、うちの若いものがいうのでな。もしそれが本当なら、あんたも的にかけなきゃいかんからの」

 それからしばらく須賀は相手の言うことを黙って聞いていた。
 大声で必死に弁解しているのが、受話器から漏れ聞こえている。

「ほうか。あんたもシェイダたらいう奴の捕獲に協力してもらえるか。まあ、よろしく頼む」

 電話を切ると、須賀は無表情に若者に告げた。
「神州連合のトップにクンロク入れといた。やつらを案内役として使え。100人ぐらいで当たれ。今夜中にシェイダって奴をわしの前に連れてこい」

「押忍!」と返事して連絡に走ろうとする若い者を、須賀が呼びとめた。

「神州連合の会長が言うのには、きゃつらは武器の密売もやっているらしい。外国人組織にしては統制が取れているらしい。全員に伝えておけ。きゃつらはチャカを弾くのにためらいがない。こっちもそれでいけ」

 須賀はタンスに行き、中から立派な拵えの日本刀を取り出してきた。
 波紋を光りに透かして見ながら、丁寧に打ち粉をはたいていく。

「須賀さん、その刀は?」
「わしの愛刀ですじゃ。シェイダが全部話したら、これで伊吹の仇を討ってやります」

「す、すると……」

「そっ首を叩き落としてやります」
 庭の芝生を刈ってきますというような調子なので、土岐も思わず軽い調子で「そうですよね」と肯いていた。

 その頃シェイダはパニックに陥っていた。

 自分の居場所を部下にすら教えないほど用心深い男だったが、須賀襲撃が失敗したとの連絡をうけた後、配下の誰にも連絡が取れなくなっていた。

 やっと電話がかかってきて、シェイダは飛びついた。
 しかし電話の相手は部下ではなかった。

 信州連合とシェイダの連絡役を務めている、玉城という蛇のような眼をした男だった。
「まだ生きていたか?」

 およそユーモアのセンスの感じられない玉城の声が、多少愉快そうに聞こえた。

「玉城サン、何がオキテルノ?セツメイシテヨ」
 電話の向こうで玉城が笑っていた。
 シェイダは玉城の笑い声を初めて聞いた。

「お前ら、須賀の親分を狙ったんだって?馬鹿な奴らだ。会長からの連絡を伝えるぞ。今後一切お前らの協力はしない。それどころか、間もなく俺達もお前らを追い込むぞ。お前はもう死んでるんだよ」
 玉城の嘲るような笑い声の聞こえる受話器を叩き切った。

 シェイダはある限りの現金、武器、ドラッグをトランクに詰め込み、隠れ家にしている三軒茶屋の小さなスナックを出た。

 外は天気が良く明るかったが、シェイダの心は暗黒だった。
 どこからとも現れた4人の男がシェイダを取り囲み、体中に固い銃口が押し付けられたからだ。

 シェイダにとって初めての感情だった。
 絶望か――シェイダは大人しく男たちの車に乗り込んだ。

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41 潜行

 須賀は伊吹の身体をそっと横たえると、静かに立ち上がった。
 須賀の全身から立ちこめる、猛烈な怒りと悲しみの匂いに、土岐は思わず一歩後ろに下がった。

 同時に土岐の全身を激痛が走った。
 銃弾をかわす際に、人間の限界を超えた動きをしたせいか、僅かに動いても、すべての神経に衝撃が走る。

「土岐さん、大丈夫ですかな? 貴方のおかげで助かりました。お礼は後ほどゆっくりと……」
 よろめく土岐を支えながら、須賀は厳しい目で辺りを見回した。

 いつの間にか、須賀の部下たちが4人拳銃を抜いて集まっていた。
 襲撃者の一人が、足に銃弾を受けたらしく血を流しながら倒れていた。

「そやつを連れて来い。全てを聞き出すのじゃ。わしは柄をかわす(身柄を隠す)ぞ。今、警察で余計な時間を取られたくないからのう」

 須賀はちらりと伊吹の遺体に目をやり、僅かの間目を瞑り沈黙した。
 須賀は再び目を開いて、静かな口調で言った。
「組に伝えよ。潜れ、とな」

 そして土岐の身体を支えながら、車に向かった。
 パトカーのサイレンがけたたましく近づいてくる。

 逃げ遅れた襲撃者は、ガムテープで口をふさがれ、伊吹の遺体とともに、車のトランクに押し込められた。

 車の中でも、須賀の指令は矢継ぎ早に発せられた。

「本部で盗聴器が仕掛けられていないか、特にわしらの居住していた部屋と会議室を中心にくまなく調べるのじゃ」

「サラマンダーに行った伊能さん達と、警察病院に行った二宮さんに護衛を送れ。見つけたら、わしらの新しい潜伏場所に連れてくるのじゃ」

「どうも外国人のようじゃが、あの男の知っていることは全て吐かせい。本人の素性、組織であればその実態、ボスの名前、依頼者の名前、襲撃の具体的な指示をした者、全てを聞き出せ」

「伊吹の遺体は丁重に葬れ。そうじゃ、伊吹の作った花壇の辺りに葬るのが良かろう。いずれ時が来れば改めて葬儀等執り行うことになるじゃろう……」

「医者を呼んでおけ。土岐さんの身体を診てもらう」

 僅かに顔をしかめながら、じっと座っていた土岐が須賀の手を軽く押さえた。
「いや、須賀さん、俺なら大丈夫です。しばらくすれば治まるはずです」

「しかし土岐さんの異能力も凄いものですなあ」

「いや……俺もびっくりしました。今までマージャンのイカサマでしか使ったことがないもんで……」
 土岐は笑って見せようとしたが、傷みに顔を歪めただけだった。

「それより須賀さん、さっき組に、潜れ、と指示していましたが、どういうことなんですか?」

「臨戦態勢をとれ、ということですじゃ。こういった稼業ですから、いつ何時、何が起きるかわかりません。組員十人に一人の割合で、実戦部隊を選抜してあります。潜れと指令すると、実戦部隊は地下に潜って指示を待つ。警察が大規模な取り締まりに入っても、彼らの動きに支障がないよう、資金面を含めて他の9人が支えていく体制ですじゃ」

「十人に一人……愛桜連合って何人くらいの組員がいるんですか?」

「約一万人ですかな」

「と、すると約千人の実戦部隊……」

「わしはな、土岐さん。今回のことはチャンスだと思っておるのじゃ。末端にせよ、敵の正体につながる者を捕らえた。伊吹の死を無駄にはしたくない。わしは全力を挙げて、敵を叩き潰すつもりじゃ」

「全国から集まってくるわけですね?」

「今日中には全員が都内に入るでしょう。まずわしらを襲った連中をひっとらえましょう」

 須賀の眼はらんらんと輝いている。
 背筋もピンと伸びて、言葉にはみなぎるような力があった。

 土岐は見知らぬ人間の隣にいるように感じた。
 それは伝説の侠客、須賀常太郎の真の姿だった。

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40 襲撃――そして死

 翌日、朝食を終えてそれぞれが外出の準備をしているときに、須賀の若い衆が強張った顔で須賀に何か耳打ちした。

「持ってこい」
 須賀の顔がひどい苦痛を感じているように歪んだ。

 若い衆が捧げるように持ってきた盆の上には、金色に光るバッジと小さなガラスの瓶が置かれていた。

 何気なく瓶を覗き込んだ万全が悲鳴を上げた。
「ゆ、ゆ、指いいいい!」

 須賀は沈痛な面持ちで小さな瓶から眼を背けた。
「伊吹……馬鹿な奴だ……」

 それからしばらくの間、須賀は縁側に座り込んでじっと庭を眺め続けた。
 誰も声をかけられない雰囲気だった。

 伊能と万全はサラマンダーに、二宮はタケトの所に、そっと出かけて行った。

 土岐が須賀の横に座った。
「伊吹さん……勘弁してやれないの?」

 須賀は悲しげに首を振った。
「伊吹はわしの子供ですじゃ。子供の中でも最も出来が悪い……真っ直ぐな気性だけが取り柄の、わしにそっくりな不細工なやくざ者でした。これで良かったとわしは思っとります。やくざを続けていたら、あいつはいつか……わしの為に命を落とす……」

 庭の一角に咲き乱れる花を、須賀が見ていることに土岐は気がついた。
「随分いろんな花が咲いていますね」

 須賀がかすかに微笑んだ。
「わしが花を好きじゃといったら、伊吹の奴が手当たり次第に花を植えたんです。若い者も使わずに、全部自分でね。さあ、希君もお待ちかねじゃ。わしらも出かけましょうか」


 この朝、新宿のビジネスホテルで待機していたシェイダの襲撃チームにYUKIからのメールが入った。

{襲撃場所 帝都大学病院門から病院入口に続くけやき並木。
 襲撃時間 午前10時から11時。
襲撃対象 須賀常太郎及び同行者(おそらく1名)
添付ファイル 須賀常太郎の写真}

 襲撃チームの4人はそれぞれが使い慣れた拳銃を用意していた。
 射撃の腕は4人とも軍で鍛えられている。

 須賀がヤクザの親分なので、ヤクザ同士の抗争に見せかけるつもりであった。


 帝都大学は広大な敷地の中に4か所の門があった。

 病院利用者は、病院門から入り50メートルほど続くけやき並木を通って病院に行く。
 並木道にはまばらにベンチが置かれていた。

 襲撃チームは二手に分かれ、門に近いベンチに二人、病院に近いベンチに二人が陣取った。
 須賀が両者の間に入ったとき、挟み撃ちできる必殺の陣形だった。


 須賀と一緒にけやき並木に入ったとき、土岐の鼻が何か異臭を感じた。

 辺りを見回すと、ベンチにホームレスらしき男がいた。
 あまりにも薄汚れたその風体に、匂いの元はそれかと思った。

 足がよろけがちな須賀を支えるように歩いていると、激烈な悪臭が前後から迫ってきた。

 考える間もなかった。
 とっさに土岐は須賀の身体を抱えて横に飛んだ。
 前後からパンパンパンと乾いた銃声が響いた。

 ――土岐の異能が発動した。

 極限まで時間の体感速度が遅くなった土岐の目に入ってきたもの。

 前方にいる二人の男。

 それぞれの拳銃から発射された金色に光る4発の銃弾。

 2発はゆっくりと回転しながら須賀の頭部へ。

 2発は須賀の胸部へ真っすぐに飛んでくる。

 振り返るとそこにも二人の男。
 やはり飛んでくる4発の銃弾。

 2発は須賀の胸部へ。
 2発は土岐の頭部へ。

 銃弾の軌道を見極め、須賀と自分の位置を動かす。
 肉体の限界を超えた動きに激しい苦痛を覚える。

 ゆっくりと全ての銃弾がかすめ通って行く。

 襲撃者の顔が驚きにゆがみ、再び銃口を向けてくる。

 ホームレスの男が、須賀に飛びかかってくる。

 再び放たれた4発の銃弾がホームレスの身体に突き刺さる。

 喚き声が聞こえてくる。

 須賀と土岐を送ってきた若い衆が、襲撃者に拳銃を乱射している。
 襲撃者たちが一斉に逃げだす。

――時間が普通の速度に戻った。

「大丈夫ですか?」
 土岐の問いかけに、須賀は答えなかった。

 ホームレスの血まみれの身体を抱きかかえて嗚咽していた。
「伊吹!伊吹!」

 ホームレスの力なく垂れ下った左手の小指には、そこだけ真新しい包帯が巻かれていた。

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39 色はどうする

 須賀邸での最重要会議は、戦隊名を決めることから始まって、延々深夜まで続いた。
 5時間以上の会議の中で、最も時間がかかったのが各自の色決めだった。

「ぼ、僕は子供のころから大きくなったらレッドになりたい、って決めてたんです。レッド以外なら僕はやらない……」
 万全が目に涙を浮かべて主張した。

「お前なあ、子供のころはそうでも、大人になってもレッドがいいなんて奴いないぞ」
 伊能のうんざりした声に、万全は唇を震わせて言い返した。

「僕は少年の心を持ったまま大人になったんです。伊能さんみたいな汚れた大人になりたくないです」

「少年の心をもったハゲ親父か……全然かっこよくないぞ」

 伊能の言葉にいきり立つ万全をなだめるように、須賀が言った。
「それなら万全さんをレッドにしましょう。希君もそれでいいと言っています」

 万全は急に上機嫌になった。
「伊能さんは何色ですか?ブルーとかイエローですかね?」

「俺は……ゴールドだな」

「……そんな色はないですよ」

「なんでないんだ?」
 今度は伊能が不満げな顔をした。

「伊能さん、戦隊物って見たことあります?」

「ない、遊園地のアトラクションは見たことがあるけどな」

「とにかくゴールドはいません。正義の味方は金には無縁なんです」

「じゃあ、ブラックでいいや」
 伊能は投げやりな口調で言った。

 今度は二宮が口を出す。
「伊能さん、タケトをブラックにしましょうよ。いつも黒ずくめの恰好をしているし」

「じゃあ青でいいよ。青で」

「よし、伊能さんはブルーで決まり。タケトはブラックだね。須賀さん、それでいいですよね」

 夜の早い須賀は、いつのまにかうたた寝をしている。
 希が代わって話し始めた。
「いいと思いますよ」

 希の出現に、土岐の目が輝いた。
「希君、大丈夫か?こんな時間だぞ。寝なくてもいいのか?」

「心配させてごめんなさい。僕に身体は無いんだけど、悪い奴に、そいつも僕と同じような意識体だと思うんだけど、何かを持っていかれた感じがするんだ。身体だったら、腕一本もがれたような感じかなあ。もしかするとテロ計画と関係あるかもしれない。あ、それから僕に睡眠は必要ないんです。本体は寝たままですけどね」

 土岐は病院での希の姿を思い出したのか、また目が潤んでいる。

 二宮が須賀(希)に向かって言った。
「土岐さんは何色でもいいんですよね?じゃ僕はイエローにします」

「分りました。じゃあ土岐さんはピンクですね」

「ピ、ピンク!」
 土岐が驚いたような声を出したが、心配そうに見る須賀(希)を見て、苦い顔で黙りこんだ。

 須賀が立ち上がり、ホワイトボードに向かって何か書き出した。
 先ほどとは違って子供っぽい字だった。

異能戦隊 サラマンダー

隊長 須賀常太郎(長野希)

サラマンダーレッド  万全大力
サラマンダーブルー  伊能高忠
サラマンダーピンク  土岐明秀
サラマンダーイエロー 二宮 透
サラマンダーブラック 表野岳人(タケト)


 書き終わって振り返った須賀の顔は、本当に嬉しそうだった。
 80歳過ぎの老人とは思えない、子供の顔になっていた。

 土岐はそれを見て「これで良かった」という風に何度も肯いた。

「万全、まさかコスチュームまで作るんじゃねえだろうな?」
 伊能が心配そうに万全を見た。
 こいつなら、やりかねないと心配になったのだ。

 ところが万全は伊能の言葉を全く無視していた。

 伊能は思わず声を荒げた。
「おい万全!なにシカトしてんだよ!」

 万全は落ち着いた表情でゆっくりと伊能を見た。
「あ、僕に言ってたんですか。嫌だなあ、レッドって呼んでくださいよ、ブルー」

 伊能は何も聞く気が無くなった。

「ところで希君、テロの計画ってどの程度分かっているの?」
 土岐の質問に希は用意していた文書を皆に配った。

「ネット上に流出していたファイルは、計画の一部です。何重にもセキュリティがかけられたうえ、さらに暗号化されていました。もっともその事で僕の関心を引いて、結局解読されたわけです。それからファイルに破損している部分があって、そこだけはどうにも修復できませんでした。いま皆さんにお配りしたのは、解読できた部分です。僕なりの見解も付け加えてあります。まず、眼を通してください」

 書類には次のような内容が書かれていた。 


 GB計画

 調査事項

1 千代田区の昼間人口とその分布状態

2 対象の建物等のセキュリティや内部構造などの詳細な情報。

3 実行日の天候の予測(10月31日を中心に前後一週間の長期予報の調査)

4 被害が出始めてからの、政府の対応の予測。危機管理のシステムの評価。医療機関、警察、自衛隊等の動きと諸外国(特にアメリカ)の対応を予測。

5 致死率アップのためのGB強化
  目標死者数 十万人

希の見解

 ・ファイルには難解な言葉(特に化学、医療分野)が多かった。
 ・首謀者は非常に理性的で知的レベルが高い。
 ・職業的テロリストではなく、高度な専門職(化学者、医学者等)ではないか。
 ・テロに使われるGBとは、おそらく生物、化学兵器の可能性が高い。実行日の天候を気にしていることとも符合する。
 ・テロ決行日は10月31日が第一候補、天候状態で前後一週間位のずれが生じる。

「まじかよ。誰かの悪戯じゃないの?」

 伊能の言葉に須賀は頭を振った。
「ファイルにかけられていたセキュリティや暗号化技術は、国家機密レベルのものでした。冗談や悪戯ではないと思います」

「10月31日だったら、あと2週間しかない。さらに場合によっては1週間早まるわけか……」
 伊能は腕を組んで考え込んだ。

「やっぱり警察に……」
 万全が不安そうな顔で言いかけた。

 すかさず、土岐が厳しい声を出した。
「無理だ。希君のことを話しただけで、追い払われるか、病院に措置入院させられるぞ」

 伊能が顔を上げた。
「これだけの事をする気なら、一人では無理だろう。タケトを襲った奴は仲間かもしれない。サラマンダーが営業再開したってメールが来てたから、明日行ってみるよ。何か手掛かりがつかめるかもしれない。明日は皆何をする?」

「僕は明日病院に行って、パパとママを見たい」

「じゃ、俺も一緒に行くよ」
 土岐がすぐに言った。

 そして今まで誰にも言ってなかった事を付け加えた。
「一昨日、希君の病院に行っただろう。あそこは帝都大学の構内にあるんだが、帰るときふと凄まじい異臭を嗅いだんだ。すれ違った誰かの匂いか、残り香か分からないんだが……」

「どんな匂いですか?」

 問いかけた伊能に土岐は自信のなさそうな顔になった。
「分らないんだ。嫌なというより、匂いに込められた激しい感情に押しつぶされるような気がした」

「どんな感情ですか?」

「とてつもない憎悪。そして同じくらいの哀しみかな。無差別テロなんて、あれ位の気持ちが無いと出来ないかもしれない。希君の考えだと、高度の専門職かもしれないわけだろ。あそこにはゴロゴロいるし、希君の護衛も兼ねて行ってみるよ」

「分りました。二宮は?」

「僕はタケトのところに行って、サラマンダー結成の話を報告してきます。きっと喜びますよ」

「じゃあ、万全と俺がサラマンダーに行こう。万全はどうせヒマだろう?」

 万全は伊能を見もしない。

 伊能は苦笑して言いなおした。
「じゃあ明日はレッドと俺がサラマンダーに行ってみよう。レッド、それでいいな?」

 万全が満面の笑みで伊能に肯いた。
「僕はオッケーですよ、ブルー」

「頼むから他人の前で絶対にそれを言うな。マジで怒るぞ」

「分ってますよ、ブルー」

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38 YUKIとストレートレイザー 

 好きな事をして、楽に大金が稼げる。

 本当に自分はラッキーだとYUKIは思っている。
 YUKIはプロの殺し屋だ。

 1年に一度仕事をこなせば、好きなだけ贅沢ができる。
 殺人の報酬は莫大だ。

 あるきっかけで初めて殺人の依頼を受けた時、報酬は500万円と言われた。

 その当時YUKIは、コンビニで時給800円のバイトをしていた。計算してみると、500万円はコンビニのバイト料6250時間分になる。

 1日8時間働いたとしても約800日、休日を考えると3年分の給料に当たる。

 YUKIは即座にバイト先のコンビニへ行った。
 店長がレジに立ち、客用の脂ぎった愛想笑いを浮かべていた。

 YUKIの身体を露骨に眺めたり、うっかりしたように装って、尻などに触れたりしてくるときには、変態じみた笑顔になる。

 YUKIはずかずかと歩み寄り、コンビニの制服を店長の顔面に投げつけた。
「わたし今日で辞めるから。アンタみたいな変態野郎の店で、これ以上1分だって働きたくない」

 店長はおどおどとしながらも、上目使いでYUKIの様子を窺っていた。
「でも、ほら、ローテーションがあるでしょ。急に言われてもねえ……給料の計算だって……」

「給料なんていらないから。エロオヤジ!」

 客たちが呆然として眺めていた。

 新しい人生。
 本当の人生が始まるような気がした。

 仕事を引き受けることを、すぐに依頼者に連絡した。

 準備に1週間位はかけただろう。
 殺人そのものには数分しかかからなかった。

 人間を殺すことには、なんのためらいも無かった。
 終わった後は大金を手にした喜びだけがあった。

 人間を殺すことは、実は簡単な仕事だ。

 何年か前にテレビで、マグロの一本釣り漁師のドキュメンタリーを見たことがある。
 200キロ以上の大物が掛った時は、まさにマグロと人間の命懸けの勝負になる。

 どちらかの体力、気力が尽き果てるまでの壮絶な戦いだ。

 マグロは簡単には死なない。
 人間は簡単に死ぬ。

 しかも警戒心が無いから、隙だらけだ。
 YUKIは今までに5人の男女を殺したが、抵抗されたこともない。要は殺害する場所の選択と、タイミングだと思っている。

 目撃されない。声を上げさせない。遺留品を残さない。
 それだけは心がけている。

 見知らぬ人間から依頼されて、見知らぬ人間を殺すのだ。
 被害者とYUKIの接点はない。

 依頼者とYUKIの接点も追跡するのは不可能だろう。

 依頼者との連絡は、いわゆる{飛ばしのケータイ}を使う。
{飛ばしのケータイ}とは、架空名義で購入したプリペイド式のケータイのことだ。
 犯罪常習者の必須アイテムだが、ネットで簡単に手に入る。

 三上の依頼で集めた40人のテロ実行グループにも、それぞれ1台ずつ渡してある。

 金のやり取りは、ネットバンクの架空口座を使っている。
 こちらもネットで手に入る。
 通帳、印鑑、キャッシュカードがセットで数万円だ。

 捜査能力を喪失した今の警察では、YUKIにたどり着く恐れはまったくない。

 YUKIは三上から須賀殺害を依頼された。
 正確にいえば、YUKIには手配だけを依頼してきた。

 おいしい仕事だから、YUKIは自分でやりたかった。
 須賀は有名なヤクザらしいが、今はただのボケ老人だ。
 ヤクザ達に護衛されると厄介だが、須賀の意向なのか、それもない。周りにいるのは、唖然とするほど馬鹿げた連中だ。

 しかし本番を目前にして、現場リーダーのYUKIが動くことを三上がどうしても嫌がった。
 手配するだけでも、オプション料としてYUKIに一千万払う。
 三上があっさりとそう言った時にはさすがに驚いた。

 実行グループにも一人当たり一千万。
 三上は陰気な声の印象とは違い、桁外れに気前のいいクライアントだった。

 確実な仕事をするためにYUKIが選んだのは、ドラッグや武器の密売をしているイラン人グループだった。

 ボスはシェイダという名前の、険しい眼をした精悍な男だ。

 イラン人グループが多数ある中で、シェイダのグループには際立った特徴があった。

 他のイラン人プッシャー(ドラッグ密売人)たちは、ジャンキー特有のだらしなさがあったり、腐敗臭のようなものを漂わせたりしている。 

 シェイダのグループにはそれが無かった。
 誰もが健康そうで、誠実なビジネスマンのような雰囲気を持って仕事をしている。

 違法でも、取引は取引だから約束は守る。
 日本の異教徒共が麻薬に溺れるのは構わないが、身内で麻薬に手を出す者はシェイダが処刑する。

 渋谷界隈で最大の組織だが、シェイダの統制が行き届いている。
 シェイダ自身が軍人だった関係か、部下にも軍隊出身者が多い。

 電話でYUKIの話を聞いたシェイダは、報酬金額を聞いて即座に了承した。

 ビザの関係で近々イランに帰国する予定の者たちの中から、4人を選んだ。
 全員が軍隊出身で実戦経験もある。

 武器はシェイダの方で準備する。

 襲撃計画は、YUKIが須賀の行動を監視しながらGOサインを出す。

 今晩から4人は、新宿のビジネスホテルに24時間体制で待機する。YUKIの指示に即応するためだ。
 あっという間に段取りができた。

 シェイダは電話の最後にこう言った。
「クライアントに伝えてくれ。武器の料金と、ホテル代などの経費はサービスする。ただし明日中に入金が確認できなかったら、この話はキャンセルだ。YUKIの人生もそこで終わりだ。金額は5人分で五千万、間違えるなよ」

「ちょっと、4人でしょ。四千万じゃないの?」

 シェイダの乾いた笑い声が聞こえてきた。
「俺はタダ働きはしない。お前も同じだろう?」

 抜け目のない奴だ。確かに私と同じだと思った。

 サラマンダーが営業を再開したことを、YUKIは会員宛てのメールで知った。

 早速サラマンダーに行って、お気に入りのブースに陣取った。

 パソコンから三上に、須賀殺害準備完了のメールを送った。
 送金先口座名と、明日中に入金しないと自分が殺されることも書いた。

 送信したあと、YUKIは大きな溜息をついた。
 もう一通メールを送らなければならない。
 厄介な相手だった。
 YUKIが世界で一番嫌いな男。
 YUKIが世界で一番必要な男。

 しばらく考えてYUKIはメールを書いた。


{To ストレートレイザー様

 私の仕事が終わるまで、勝手な理由で人殺しをしないで下さい。
 私に不満があって、それに対する当てつけでしているのなら、ちゃんと説明してください。
 貴方が何を考えているのか、残念ですけど私には理解できません。
 貴方は私のことは全て知っているんでしょう?
 もっと話し合うべきだと思います。 
                         YUKI}

つづく

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37 真の友人

 異能戦隊サラマンダーは結成と同時に分裂の危機を迎えていた。

 それは須賀の一言で始まった。
「さて次に、色はどうしますかな?」

「い、色って?」
 伊能が情けなさそうな声をあげた。

「希君が言うのには、やはり五色の戦隊でなければと」

「赤レンジャーとか、黄レンジャーみたいなやつですか?」

 勘弁してくれという気持ちを精一杯込めて、伊能は眉を八の字にした。
「俺や土岐さんなんて、もう中年のおっさんですよ。戦隊名だけでも恥ずかしいのに……」

 土岐がぐっと身を乗り出してきた。
「いいじゃないか。希君がそうしたいのなら、俺は赤マンダーでも黒マンダーでもかまわん」

 万全が分かってないなあという顔つきでいった。
「赤マンダーはないでしょう。やっぱりサラマンダーレッドっていう感じですかねえ。あ、僕はレッドを希望します」

「万全さん、ずるいっすよ。レッドっていったらリーダーみたいなもんじゃないですか」

 二宮が口を尖らす。
 伊能は呆れたように両手を広げた。


 その頃、三上は「真の友人」から送られてきたメールの指示に従って、須賀抹殺の手配を終えていた。

 「真の友人」とは誰なのか、三上は未だにその正体を知らなかった。

 三上がテロ計画を練り始めた頃から、突然届き始めたメールだった。
 差出人のアドレスもない。

 未知の誰かに計画を知られているという恐怖に、三上はパニックに陥った。自分のアドレスを全て破棄しても、いつの間にか三上のパソコン上にメッセージがファイルの形で置かれるようになった。

 三上が「真の友人」に対して、少なくとも敵ではないと認識したのは、そのようにして置かれたファイルを開いてからだ。

 当時三上が最も苦心していたのは、炭疽菌の毒性をいかに強化するかだった。

「真の友人」が置いていったファイルは、三上の重大なヒントになる外国の文献だった。
 それ以降「真の友人」の正体を詮索する気もなくなった。

 目的さえ達成できれば、自分の身の安全についてはどうでも良かった。利用できるものならば利用しようと割り切ったのだ。

 事実、それ以降もたびたび三上の大きな手助けとなった。

 特に実行部隊の準備に関しては「YUKI」という謎の女を紹介してくれた。

 闇サイトやドラッグマーケットと深い関わりがあるらしいYUKIは、三上の求めに応じて40人のそれぞれ面識のない部隊を揃えた。
 外国人が中心だが、全員が報酬さえ積めば殺人も辞さない連中ばかりだ。

 三上はYUKIの求めに応じて資金を用意するだけで、ほかの誰とも接触する必要がなかった。

 YUKIが実行部隊の者たちと接触する場所が、サラマンダーという巨大ネットカフェであることくらいしか知らなかった。

 先ほどYUKIに、須賀殺害を依頼するメールを送った。

 YUKIの報告だと、須賀はヤクザの親分らしい。しかしボケ気味でガードも甘いという。

 おそらくYUKIはテロ実行部隊とは別に、ヒットマンチームを作るだろう。

 少し気味の悪いところがあるが、使える女だと三上は思っていた。

 三上は蒼ざめた顔で、携帯電話がメール受信の知らせを告げるのをじっと待ち続けた。

つづく

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36 誕生

「我々はセイギの戦隊ですじゃ。それならば、それにふさわしい戦隊名を持つべきだと希君は言っておりますのじゃ」

 伊能は慌てて須賀の言葉を遮った。

「ちょ、ちょっと待って下さいよ。それってナントカレンジャーとかナントカライダーみたいなやつですか?希君は子供だからいいけど、俺たちいいオッサンですよ。そんなの表で裸踊りするより恥ずかしいですよ。ねえ……」

 同意を求めて土岐の顔を見た。
 土岐は伊能を見ていなかった。
 煙草をくわえニヒルな表情のまま、涙を滝のように流していた。

「と、土岐さん?」
「いいじゃねえか。希君の気に入るようなかっこいい戦隊名を考えようぜ」
 土岐の答えに、万全と二宮も嬉しそうな顔をしている。

「マジかよ……」
 伊能が黙り込んだのを見て、須賀が全員に紙を配った。

「そこに皆さんの考えた戦隊名を書いてくだされ。その中から選びましょう」

 伊能は目の前に配られた紙を見つめてしばらく放心した。
 皆熱心に何かを書いたり、考え込んだりしている。
 須賀まで目をつぶって腕を組み考え込んでいる。

 伊能は仕方なく、乱暴にいい加減な事を書きなぐった。
 ペンを置いた伊能に続いて、一人、また一人とペンを置いた。

 なぜか書き終わった全員が紙を裏返しにしている。
 全員が書き終わった様子を見て、須賀が紙を集めホワイトボードに書き写し始めた。


 みらくる戦隊 ぽよよんじゃー

「万全だ」「やっぱり変態だ」の声に、万全が真っ赤になってうつむいた。

 東京防衛戦隊 守るんじゃー
 大東亜絶対防衛連合須賀一家

「須賀さんだよ」「爺さん、しょうがねえな」の声に、須賀は聞こえないような顔をしていた。

 透明戦隊 キエルンジャー

「二宮だ」「消えるのはお前だけじゃねえか」
 二宮は消え去った。

 希君と東京を守る会 愛ナンジャー

「誰?」「まさか土岐さん?」
 土岐は無表情に煙草をふかしていた。

 脱毛戦隊 ヌケルンジャー 

「い、伊能さん!」
 万全が顔を怒りで赤くして飛び上がった。

 須賀は素知らぬ顔で最後の一つを書いた。

 伊能戦隊 サラマンダー

「伊能さんがリーダーなんですか」
 ぶつぶつ言う万全を土岐が手振りで黙らせた。

「ここは希君に決めてもらおう」
 須賀はしばらく黙りこんだ。
 希との会話を終えた須賀が、赤いマジックを握って立ち上がった。

「皆さんと出会ったサラマンダー。事件の始まりでもあるサラマンダーの名前を、希君は気に入ったそうです。伊能さんの考えた戦隊名を漢字だけ変えたらどうでしょう?」

 須賀が赤いマジックで書きなおした。

 異能戦隊 サラマンダー

「これがわしらの戦隊名ですじゃ。いかがかな?」

 土岐が猛烈な勢いで拍手するのに続いて、まばらに拍手が続いた。
 二宮も再び姿を現した。

 皆が照れくさそうな、それでいて嬉しそうな顔をしていた。
 
 
つづく

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35 最重要会議

 夕食の間に、二宮がタケトとの面会の様子を語った。

「傷の具合はどうなんだ?」
 伊能が自分のグラスにビールを注ぎながら訊いた。

 須賀と土岐と伊能はビールを飲んでいる。

 二宮と万全はまるっきり酒を飲まない。
 万全はいつでも甘いアイスミルクティを飲んでいる。

 食事が和風でもお構いなしである。
 朝食のときには、納豆でご飯を食べながら飲んでいた。

「全治1ヶ月と言われたそうです。すごく痛そうでしたけどね」

「そうかあ……かわいそうに……早く良くなってほしいね」
 実に感情のこもった声で言ったのは万全だ。

 伊能は思わずビールを吹きだしそうになった。

 万全が二宮の話の間中、一度も顔を上げずに、焼いた秋刀魚の骨と皮を丹念に取り除いているのを見ていたからだ。

 まるで困難な手術を行っている外科医のようだと思った。額にはじんわりと汗までにじんでいる。
 皿の隅にそれらが丁寧に積上げられている。

 どう見ても、万全の関心のほとんどが秋刀魚に向けられていたのは明らかだ。

 一仕事終えたような満足げな表情で、万全は秋刀魚を食べながら、ミルクティーを美味そうに飲んでいる。

 伊能がからかうような口調で言った。
「万全、魚の骨の数は数えないのか?それからなあ、秋刀魚は皮がうまいんだぞ」

 夕食前まで、万全は異能力による{ブラジャー外し}で抜け落ちた毛髪を、全部拾い集めて数え、几帳面に手帳にメモしていた。

 それをからかわれたと思ったのか、万全は小さな口を尖らせた。ついでにぶっとい眉毛を逆立てた。

「焼き魚の皮を食べてはいけない、癌になる。癌で死んだおばあちゃんの遺言です。それから抜け毛の数を調べて、凄いことがわかりました」

「ほう、どんなこと?」
 土岐がわずかに関心をしめした。

「ティッシュを浮かせると平均して約200本の毛が抜けます。電燈の紐を回すと約300本。ブラ外しは……」

 万全が得意げな顔で皆を見渡した。
「なんと800本です!」

 誰もあまり感心したような顔をしないので、万全の口調に力がこもった。

「つまり、使った能力の大きさによって、抜け毛の数が変わるんです。力の大きさと代償の大きさは比例するんです」

「それより、あと100回くらいブラジャーを外したら、お前はつるっ禿げになるってことが問題じゃないの」

 伊能の言葉に、万全が憤然として箸を置いた。
「い、伊能さん!つるっ禿げとはひどいじゃないですか。僕が一番気にしていることを……そうならないために、日夜必死で髪型を改良しているのに……」
 万全の小さな瞳が心なしか潤んでいた。

「改良って……まだ変えるつもりなんですか?」
 二宮が仰天したような声を出す。

 万全は二宮を見て当たり前だという顔をした。
 どうも典型的な、上に弱く下には強いタイプらしい。

「そりゃそうだよ。普通の髪型のときは、今の二倍抜けたからね」

「でも改良のための実験で、十倍くらい抜けてるんじゃないのか」
 伊能の軽妙な突っ込みに万全の頬がぷっと膨らむ。

 須賀が大きな咳払いをした。
「さて皆さん、大体食事も終わりのようじゃの。夕食後は別室で皆さんに相談したいことがあるので、一服したら集まってくだされ。希君が言うには、テロと戦うために、もっとも重要なことを決める会議だそうじゃ」

 全員が真剣な表情になって肯いた。


 1時間後、全員が指定された部屋に集合した。
 そこは近代的なオフィスの会議室のような部屋だった。

 長いテーブルと椅子が並べられ、ホワイトボードや、AV機器なども揃っている。

 全員が思い思いの場所に座った。
 伊能が席を決めるのを待っていたように、万全がそれと一番遠い席に座った。まだ少し口を尖らせている。

 テーブルの一番端で、須賀が一人で何度も肯いていた。
 希との会話をしているのかもしれない。

「お待たせしましたのじゃ。どうも年寄りは理解力が無くていかんのう。それでは皆さん、会議を始めます」
 須賀がそういって立ち上がった。

 ホワイトボードの前に立って、須賀が何かを書き始めた。

 書き終わると振り返って全員を見渡しながら、自分の書いた文字を手のひらでたたいた。

「最重要テーマとは、これですじゃ!」
 ホワイトボードには、江戸勘亭流(歌舞伎の看板などに使われる文字)のような書体でこう書かれていた。

 テーマ 船体名
 
 皆が怪訝な顔をした。

 それを見た須賀が、不安そうに自分の書いた文字を見つめた。
 なにやら一人で肯きはじめた。
 突然大きく肯いて、明るい顔になった。

「皆さん、申し訳ない。わしが字を間違えたのじゃ。どうも年寄りは仕方の無いものですじゃ。これではまるで呆け老人じゃのう」

 須賀は笑いながらさっき書いた字を消して新たに書き始めた。
 ちなみに須賀の言葉に笑ったものは誰もいない。

「さあ、これが一番重要だと希君は申しております。これが決まらなければ何も始まらない。それほど大事なこととはのう。わしも知らなかったことですじゃ」

 ホワイトボードに新しく書かれた文字を見て、「あっ」と土岐が真っ先に驚きの声を上げた。

 テーマ 戦隊名

 土岐は病院で見た希の姿を思い出していた。

 蒼ざめた顔で横たわる希の枕元には、5体の人形が希を守るように置かれていた。

 鮮やかな五色の人形たち。
 戦隊物のヒーロー達の人形だった。
 
 
 ~つづく

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34 GOD BLESS (神の祝福)

 大学から帰宅した三上は、まっすぐ研究室に向かい、こもりきりになった。

 いよいよ計画も最終段階に入っていた。

 三上はパソコンの前に座り、長い足を組んだ。

 ガラス越しに見える、密閉された菌操作室のテーブルの上には、20個の銀色に輝く小さな缶が整然と並んでいる。

 タイマー式の自動噴霧装置だ。
 中には白い粉がぎっしりと詰め込まれていた。

 一見すると、噴霧式の殺虫剤のように見える。
 しかしこの小さな缶が、三上の用意した大量殺戮兵器だった。

 効率よく働けば、一つの缶で数万人を殺すことも可能だった。

 白い粉は、炭疽菌(たんそきん)の芽胞(細菌の半休眠状態)と呼ばれるものだった。 

 炭疽菌はスペインから地中海沿岸地域、アフリカの一部の土壌に多く存在するが、世界中どこでも見られる普遍的な細菌である。

 しかし生物兵器として、天然痘と並んで、最も恐れられている。

 炭疽菌は皮膚についても、肺に吸い込んでも、口から入っても炭疽症を引き起こす。

 吸い込んでしまった場合の致死率は100%に近く、ほかの場合も死亡率が極めて高い。しかも潜伏期間が1日から6日程度の短期間だ。

 さらに芽胞の状態だと、熱や化学物質、エックス線にまで高い耐久性を示す。この状態で地中にあると40年以上も生存することができる。

 9・11のアメリカ同時多発テロに続いて、手紙による炭疽菌テロが世間を震撼させたが、同封されていたのが同じく芽胞だった。

 しかも三上は遺伝子操作を繰り返して、さらに強烈な毒性を持ち、僅か数時間で発症する炭疽菌を作り出していた。

 三上は自分の作品ともいえる炭疽菌に、GOD BLESS(略称GB 神の祝福)と名付けた。

 GBは1個当たり千分の1ミリ程度の大きさしかないが、数個で人間を殺す力を持つ、生きた爆弾だった。

 GBの元になった菌は、三上の曽祖父が私設研究所に保管していたものだ。

 第二次世界大戦中、日本陸軍の生物兵器開発に携わっていた曽祖父が密かに残した遺産だった。

 寝食も忘れて細菌兵器の開発を進めた、曽祖父の無念さの証だと三上は思っていた。
 三上家の尊厳を、取り戻すための戦いには、相応しい武器だった。

 三上はパソコンに向かい、テロ計画のファイルを開いた。
 ファイル名は{GOD BLESS JAPAN}。



 GOD BLESS JAPAN 10・31

実行日 10月31日 

実行部隊 20チーム(各2名)チーム同士の連絡は取れない。すべてのチームが点として行動する。詳細な設置場所は前日に各チームに知らせる。(設置の要領についても同じ)

連絡役&特別任務 YUKI

午前9時  千代田区内の指定した箇所(20箇所)にGB缶を設置する。

設置箇所 
A 標的となる建物― 国会議事堂、首相官邸、検察庁、法務省、警察庁、警視庁、厚生労働省、東京地裁、最高裁、自民党本部、民主党本部
B 拡散を目的として設置する場所― 東京駅、日比谷公園、北の丸公園、帝都大学、秋葉原、丸の内、霞ヶ関、九段、外神田


午前10時 GB散布開始。
感染者数(気象条件などにより誤差が出る)4万人~18万人。

午後2時  発症者数千人~2万人(救急病院壊滅、警察機能マヒ、原因特定に至らず)鳥インフルエンザ発生のデマ等によりパニック状態に。

午後3時  発症者数1万人~6万人。死亡者数百人~六百人。
閣僚等の発症により政府機能を失う。
都知事による特別措置?(非常事態宣言、戒厳令、自衛隊出動の可能性)

午後4時  発症者数2万人~10万人。死亡者数千人~5千人。
原因が特定される。
医療的に対応できず、アメリカに支援要請の可能性。

午後5時  発症者数3万人~12万人。
死亡者数三千人~1万2千人。
首都機能消滅。

午後6時  発症者数4万人~18万人。
死亡者数八千人~三万六千人。

  *ここまでで、感染者の99%が発症する。
  *以降死者の数だけが増えていく。
  *最終的に致死率平均75%。死亡者数三万人~十三万五千人。

 パソコン画面にメールの到着を告げるメッセージが出た。
 三上はファイルを閉じて、メールを開いた。
 思ったとおり、三上が唯一信頼する者からのメールだった。
 文面は相変わらず短い。


 {須賀常太郎を抹殺せよ。計画のリスクファクターになる恐れあり。早急に。真の友人}

 
 
 ~つづく

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33 覚醒

 うぞぞぞぞぞぞと微かな音が響いてくる。

 くおぉぉぉぉぉぉぉぉと万全の食いしばった歯の間から呼吸が漏れる。

 万全の頭上に高々と結いあげられたバベルの塔が、ゆっくりと回転を始めた。

 二宮は帰ってくるなり、万全に手を引っ張られ、須賀邸の奥まったこの部屋に連れてこられた。

 凄い能力、と万全は言った。

 確かにサラマンダーで見た時よりも、バベルの塔の回転が複雑になっていた。

 ときに逆回転したり、身をよじるような悩ましげな動きを見せたりする。

 周りを見回すと、須賀は微笑を浮かべながら端然と座っていた。
 伊能は苦笑を浮かべながらそっぽを向いていた。
 土岐は……表情を変えずに煙草を吸っていた。

 万全の身体から、熱のような、オーラのようなものを感じて圧迫される。

――これは、ただ事ではない。
 二宮は思わず唾を飲み込んだ。

 そして、万全の両手が差しのべられた先、万全が異能力(ちから)を注ぎ込む先を見つめた。

 大型の液晶テレビがあった。

 まさかこれを持ち上げようというのか?新型とはいえ相当の重量があるはずだ。

 テレビでは夕方のニュースを放送していた。

――おっ、ボンボヤージ国武だ。

 二宮の目が思わずニュースキャスターの女性に引き寄せられた。
 外国人のような顔立ち、理知的な表情、あどけない笑顔、肉感的なボディのアンバランスさが人気の女子アナだ。

 いつしか万全のバベルの塔は崩れ去り、そこには万全という名前の一匹の落武者がいた。

――頭の真ん中の空き地がまた広くなってる……

 二宮が万全の頭の砂漠化を悲しんでいる間もなく、万全の髪の毛たちが天井目指して立ち上がり始めた。

 万全の目が異様な光を放ちだす。

 静寂が支配するなか、テレビの中のボンボヤージ国武のニュースを読むセクシーな声だけが響いていた。

 万全の伸ばした手の先で、指が怪しげな動きをした。
 二宮は子供のころに見た化け猫の映画を思い出した。
 確か化け猫が人間を操るときに、あんな手つきをしていた。
 はっとしてテレビに映るボンボヤージ国武を見た。

{アメリカ大統領選挙の有力候補は、あっ……失礼しました}

 モナリザのような不思議な微笑みを浮かべながら、ニュースを伝えていた国武の顔が一瞬ひきつったように見えた。

 原稿を読み違えたわけでもない。
 ほんの一瞬のことで気がつかない人も多かっただろう。
 すぐに立ち直った国武だが、それ以降様子がどこかぎこちなくなったように見えた。

 万全はとみると、力尽きたように両肩をがっくり落とし、汗にまみれた顔面に抜けた髪の毛がべったりと張り付いている。

 しかし眼光だけは15ラウンドを戦いきったボクサーのように輝き、口元には不敵な笑みさえ浮かべている。

「ば、万全さん、いったい何を?」

 二宮の問いに須賀が答えた。
「万全さんは精魂・毛髪尽き果てておりますのじゃ。代わってわしがお答えしましょう」

 須賀の重々しい声が響く。
「万全さんは素晴らしい偉業、異能力の可能性をわしらに見せてくれたのですじゃ」

「と、いいますと?」

「見えるものならば異能力(ちから)を届かせることができる。と、同時に見えない物にも、イメージさえ鮮明に浮かべられれば異能力(ちから)は届くということじゃ」

「どういうことですか?万全さんは何をしたんですか?」

「万全さんには隠れた一面があるのじゃ」

「あ、合気道の事ですか?」
 うんにゃと須賀は首を振った。

「万全さんは乳のヘチですじゃ」
「チチのヘチ?」

 息も絶え絶えの万全が必死の形相でかぶりを振った。
「お……おっぱいのフェチです……正確に言うとブラジャーのフェチです」

「おおそうじゃった。長年の修練の結果、万全さんは女性を見ればその乳バンド姿をイメージできるようになったのですじゃ!」

「はあ……」

 さっぱり理解できない二宮に、苛立ったように伊能が言った。
「ブラジャーを外したんだよ。コンサドーレ国武だっけ?」

「ボンボヤージ国武です」

「ああ、それのブラジャーのホックをはずしたんだ」

 万全が二宮を見て指を二本上げた。
「か、彼女Fカップなんで、ホック2個はずし……た!」
 万全はそう言ってにやりと笑うと、仰向けに横たわって荒い息をついた。

「す、すごいっすね……」
 二宮は正直言って、呆れた。

「二宮さんの報告は、夕食の席でゆっくりと聞きましょう。皆さんもそれぞれの異能力(ちから)の可能性を試してみてはどうじゃろう?」

 須賀の発言に、伊能が興味無さそうな顔で立ちあがった。

「しかし、ブラジャーのホックを外すってのはどうよ?痴漢の能力だよなあ。まあ、俺の能力も何の役にも立ちそうにはないがな。ちょっと庭でも散歩してくる」

 伊能が立ち去った後、しばらくすると庭の方から奇妙な声が聞こえてきた。

「ういいいいいいん。ういいいいいん」

 伊能が能力を発動したときの声だ。
 続いて罵詈雑言を喚き散らす声が聞こえてくる。

 須賀がにっこりと笑った。
「わしたちも頑張りましょう」
 
 
 ~つづく

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32 警察病院

「なんだ、警察病院も千代田区にあるんだなあ」

 飯田橋の駅を降りてすぐの、レンガ色をした大きな病院を見上げながら二宮は呟いた。

 想像と違ったのは、警察病院といっても一般の病院と変わらず、誰でも利用できるということだ。

 まったく自由に人が出入りしていた。
 入口から警官のチェックがあると、覚悟していた二宮にとっては、ちょっと拍子抜けだった。

 タケトの病室は4階の外科病棟で見つけた。
 個室で面会謝絶の札は掛かっているが警官の姿はない。

 頻繁に行きかう看護師や患者たちの様子を見ると、二宮の事を認知していないようだ。

 二宮はすっと病室の中に入って行った。
 大きな窓のある明るい部屋だった。

 タケトは眠っていた。
 首の回りに包帯を巻かれて、腕には点滴のチューブがつながっている。

 顔が少し蒼ざめていた。

 ふと何かの気配を感じたかのように、タケトの目が開いた。

 二宮は努めて気楽な調子で声をかけた。
「よっ、大丈夫か?」

 タケトの目が二宮の姿をとらえ、初めは驚いたように目を見開いたが、すぐにっこりと笑った。

「喋れるかい?」

 二宮の問いかけにタケトは喉を指さしながら小さな声で言った。
「少しなら……喋ると傷が痛むんです」

「オーケー、じゃあまず俺の話を黙って聞いてよ。信じられないような話もあると思うけど……」 

 二宮はタケトが襲われて以降のこと、須賀の正体、不思議な少年希のこと、テロ計画のことなどをタケトに話して聞かせた。

 今一つ自分でもよく理解できていないので、うまく喋れたか自信はなかった。

 しかしタケトの大きな目は驚きの表情から、強い輝きを放つ別なものへと変化していた。

「そうか、薬のせいなのか……化け物じゃなかったんだ」
 痛むのか、顔をしかめながら小声で言ってから、二宮を見つめて悪戯っぽく微笑んだ。

「ずいぶん簡単にこんな話を信じるんだなあ……俺なんか今でも良くわかんないのに」

「信じますよ。だって僕たちだって信じられないような能力の持ち主じゃないですか。そうかセイギの味方か……いいなあ、僕も一緒にやりたかったなあ……」

 振り絞るようなタケトの声に、思わず二宮はタケトの手を握った。
「すぐに治るさ。そしたら一緒にやろう」

 二宮の手をタケトは力強く握り返してきた。

「それでさ、どうなの?薬を飲まされた可能性はある?」

「もしかしたらブースで飲んでいたものに入れられたかもしれません。あと、化け物が出る前に、僅かな異臭を感じたような気もします」

「ふーん。他に何かない?どんな顔のお化けだったの?」

「色の白い、普通なら美人なんだと思います。でも首だけだと……かえって怖かったです。そういえば、僕がその場所に行ったのは掲示板の書き込みを見たからです。直前の書き込みで、サラマンダーで首だけの幽霊を見たっていう……」

 そこまで喋るとタケトはつらそうに顔をしかめた。

 二宮はここらが潮時と思った。
「ごめん。もういいよ。また来るから、早く体治せよ」

「二宮さん……」
 タケトが縋りつくように、二宮の手を強く握った。

「僕も何かお手伝いできないか、一生懸命考えます」

「分ってるって。でも治るまでは大人しくしていろよ」

「二宮さん、状況は時々教えて下さいね」

「オーケー、もちろんさ」

 二宮が立ち上がった時、背広姿の刑事らしき男がノックもせずに病室に入ってきた。

 二宮は一瞬凍りついた。

 タケトが点滴のチューブを引っ張って、点滴台を倒した。
 派手な音が室内に響いた。
 刑事がそちらに気を取られたすきに、二宮は気配を消すことができた。

「おいおい、危ないなあ。お前まだラリってんのか」

 ブツブツ言う刑事の横をすり抜けて、二宮は病室を出た。 
 
 須賀邸に戻った二宮を迎えた万全の眼が、嬉々として輝いていた。
「二宮君、凄い能力が使えるようになったよ!」

 後ろで伊能が、苦い顔をしていた。
 
 
 ~つづく

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31 孤独なテロリスト

 三上は大学の研究室で、熱心に外国の文献を読んでいた。

 ノックもせずに入ってきた女が、三上の姿を見てうんざりしたような顔になった。

「三上先生は網走大学に転勤する日までここにいるつもりなんですか?少しはここを片付ける私の身にもなってください」

 三上は文献から顔も上げなかった。
 何年も三上の助手をしているこの女の顔が、嫌悪と侮蔑に醜く歪んでいることは見なくてもわかるからだ。

 返事もしない三上に聞こえるように、溜息をついて女は出て行った。部屋が揺れるほどドアを乱暴に閉めて出て行ったので、三上の机の上に山と積まれた書籍類が崩れそうになった。

――確か6年前か……。
 三上は女が三上の助手になった頃のことを思い出した。

 三上が「よろしく」と差し出した手を握ろうとしないので、女の顔を見るとなんと真っ赤に紅潮して涙まで流している。

「どうしたの?」と驚いて尋ねた三上に確かこんな風に答えたのだ。

「申し訳ありません。尊敬する三上先生の助手になれるなんて、夢みたいで感激です。私、先生の足手まといにならないよう一生懸命に頑張ります。どんなことでもお申し付けください」

 足の裏に目鼻を描いたような顔だなと思った。
 それでも気持ちだけは三上にも伝わってきた。

 帝都大学医学部のエース、将来の学長候補とまでいわれていた頃だった。

「どうやら今では俺の方が足手まといらしい」
 三上はひっそりと陰気に呟いた。

 今では助手とは名ばかりで、お茶の一杯も入れてはくれない。

 なんとか三上を追い出したい大学側が、必死になって見つけてきた転勤先は、北海道の名前を聞いたこともない大学だった。

 しかも教授として迎えられるのではない。
 現在と同じ准教授の待遇だった。

 そのことを伝えた教授は話の間、一度も三上を見なかった。

 学長だった祖父の腰巾着と呼ばれ、家に来ると子供のころの三上にまで露骨におべっかを使っていた。

 頼まれもしないのに休日には三上の家にきて、庭掃除や木の手入れなど植木屋の真似事までしていた。
 そのおかげで教授になれたのだと大学では囁かれている。

 三上はぼそぼそと喋る教授の、貧相な禿げ方をした頭のあたりをずっと冷ややかな目で見つめていた。

 言いわけのような、恩を着せるような、憐れんでいるような話が終ったとき、三上が発したのはただ一言だった。
「分りました」

 教授の部屋を出るときに、部屋の正面にかけられていた祖父の写真がいつの間にか外されていることに気がついた。

 おそらく捨てたのだ、ゴミのように。
 
 三上の祖父聖一郎は5年前に死んだ。
 それは普通の死ではなかった。

 そのとき祖父は裁判所の法廷で、被告人として立たされていた。


 当時新薬の副作用で被害が広がり、大きな社会問題になっていた。

 厚生省と、新薬認可審議会の責任者だった祖父は、世間から激しく糾弾された。

 どんなゴシップめいたメディアの取材にも祖父は誠実に対応した。
 それは医学者としての誇りをかけた戦いだった。

 新薬の危険性について厚生省の一部が認知していたのではないかという憶測が流れてから、疑いは祖父にも及んだ。

 祖父は喜寿を祝おうという日に、妻や孫(三上)と生まれたばかりのひ孫の眼の前で逮捕された。

 これみよがしに祖父の痩せて筋張った両手に手錠がかけられる音が、今でも三上の耳に残っている。

 連行される祖父は、背筋を伸ばしまっすぐ前を見ながら、堂々と歩いていた。

 パトカーに乗り込む前に、祖父は一瞬振り返って、茫然と見ている三上に微笑みかけた。

――分かっているだろう。お前は何も心配することはないのだよ。
 そう言っているのだとすぐに分かった。

 幼いときに両親を失った三上が、庭に隠れて一人で泣いていると、なぜか必ず祖父が見つけてくれて、三上を抱きしめてそう言ってくれた。
 その時と同じ表情をしていた。
 三上は懸命に笑顔を作って見送った。


 最後の日、三上は傍聴席で祖父の背中を見つめていた。

 背筋を伸ばした見慣れた背中が、慣れない拘置所生活でひとまわり小さくなったように見えた。

 検察側の証人として出てきたのは、祖父の仲間だったはずの厚生省の高級官僚だった。

 その証言に祖父の背中が震えるのが見えた。

 祖父一人に責任を押し付けるために考えられたストーリーが、男のよく徹る声で語られたのだ。

 証人は祖父とは20年来の付き合いで将棋の好敵手だった男。
「年は違うが親友だな」と祖父が言っていた男。
 年に何回か二人で将棋旅行と称して温泉巡りをしていた男の口から、恥知らずな嘘が誠実に語られた。

 驚いたことに、男は自分を睨み据えている祖父を平然と見返した。
 まったく無表情だった。

 祖父の顔が憤怒で真っ赤になった。

 こらえきれずに祖父は立ちあがって、裁判長に向かって「裁判長!申し上げたいことが……」と叫んだ。

 言葉は途切れ、祖父は胸のあたりを両手でかきむしりながら横倒しに倒れた。

 制止しようとする警備官に「俺は医者だ!」と言いながら祖父の元に駆け寄ったときには、すでに手の施しようがないことを知った。

 脳幹部の血管が、急激に上昇した血圧に耐えられずに破裂したのだ。呼吸など、祖父が生きる為に必要な基本的な機能が、全て一瞬で失われた。

 幼いころから何百回と抱きしめて励ましてくれた祖父を、三上は初めて自分から抱きしめていた。


 祖父の葬式には取材の記者以外誰も来なかった。

 祖父の逮捕以降、妻の貴子は一人息子の尊(たける)を連れて実家に帰っていた。
 出て行くときに貴子が言った「恥ずかしい」という言葉に三上が激怒してから、電話もしてこなくなった。
 祖父の死はニュースで知っているだろうに、それでも連絡はなかった。

 三上と祖母の二人だけで骨を拾っている時に、祖母が微笑みながら優しく骨に語りかけた。

「貴方、本当にお疲れ様でした。大変な人生でしたねえ。でも私は幸せでしたよ。ありがとう、貴方」

 三上は祖父が死んで以来初めて目に涙があふれてきた。
 それは何かの発作のような激しさで、立っていることもできなかった。

 しゃがんだまま、子供のように声を上げて号泣する三上の背中を、祖母がさすってくれた。

 裁判は祖父にすべての責任が押し付けられる形で終わった。

 祖母は裁判の結果を知ることもなく、祖父の後を追うように死んでしまった。

 貴子は離婚を要求している。子供も自分が育てると言ってきかない。「犯罪者の家になんか置いておけないわ」という貴子の言葉は、三上の怒る気力さえ奪った。

 大学では誰も三上に話しかけなくなった。
 受け持ちの講義もどんどん減らされていった。

 決して人付き合いの得意ではない三上だったが、准教授になった頃には、驚くほど多くの人間が周りにいた。

 今は誰もいない。

 たった一人の息子まで奪われようとしている。

――誇りを失ったら人間ではない。
 祖父から何回も聞かされた言葉だ。
 三上の血肉になっている言葉だ。 

 日本という官僚国家に奪われた三上家の誇りを取り戻さなければならない。
 これは三上という一個人と日本との戦争だと思っていた。

 この数年間、閑職に追いやられたおかげでできた時間のすべて、財産のすべてを戦いの准備に費やしてきた。

 全知全能を注いだテロ計画。

 祖父が脳幹部の破壊によって死んだように、三上は日本の脳幹部を破壊するつもりだった。

 最強の兵器も三上の天才的頭脳によって生み出された。

 決行まで約2週間。
 祖父の命日10月31日に、日本は死ぬ。

 三上は肌身離さず持っている祖父の写真を、暗い眼でじっと見つめた。
 
 
 ~つづく

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30 賢人会議(2)

 全員が警察の書類を読み終わった。
 しばらく誰も口を開こうとしなかった。

 供述調書はタケト本人の話と、現場に最初に駆けつけてタケトに応急手当を施した警官、そして店員や客からの情報で構成されていた。

 タケト自身の供述は僅かだった。
 相当重傷だったらしく、医師から許された時間も10分程度だったことが書かれていた。


{女の化け物が出たんです。首だけが宙に浮かんでいてニタニタ笑っていました。漫画の本の中から、いろんなキャラクターが飛び出してくるし、ホントに異空間っていう感じでした。あっと思った時には女の首が僕の肩の上に載っていました。怖くて動けませんでした。夢じゃないかなと思ったくらい……女の舌が蛇みたいに長く伸びてきて、僕の耳を舐めました。それから確か「アシッド」と囁いて、僕の首を切り裂いたんです}

 タケトの話を聞いた刑事の報告はこうだ。

{供述は支離滅裂で理解できない。事件現場のすぐ近くには、別件の事件の現状保存のため警官がいた。被害者の悲鳴を聞いて、現場に着くまで1分とかからない。それは出血の状態から見ても明らかである。しかし現場には、床に倒れた被害者が血まみれで転げ回っているだけで、不審者の痕跡も残っていない。家族の話では、被害者は精神病で入院歴があり、何年間も引きこもっていた。病気による妄想。妄想によって自殺を図った可能性も疑われる。薬物摂取の可能性もあり、現在被害者の血液の詳細な分析結果を待っている}

「ケーサツはタケトの言うことなんか、まったく信じちゃいない。
まあ俺だって信じられないけどな、こんな話」

 伊能は腕を組んで深い溜息をついた。

「だけどタケトが嘘を言うとも思えないんだよなあ……まして自分の喉を切り裂いて死のうとするなんてあり得ないだろ」

 二宮が大きく首を縦に振った。
「そうですよ。事件の直前まで俺達けっこう盛り上がってて……タケトが一番楽しそうだった。仲間ができてうれしいって、子供みたいに喜んでたし……」
「俺は人を見るのが商売みたいなもんだが、あいつは相当純な奴だぜ。あんまり純粋だと、かえって人間関係がうまくできないことがあるんだよな。いつも自分が一番傷ついちゃうタイプだな」

「確かにあの子はいい匂いがしていたな。頭だっておかしくない。いい子だよ、タケトは……死ななくて良かったよ」

 土岐の言葉に二宮が不思議そうな顔をした。

「土岐さん、さっきも言ってたけど何ですか?その匂いって?」

「土岐さんはな、人の感情とか思考していることの匂いを感じ取れるんだ。簡単にいえば、いい奴はいい匂い、悪い奴は嫌な匂いがするわけだ」

「すごい能力じゃないですか。どうして教えてくれなかったんですか?」

 万全と二宮が目を丸くして土岐を見つめた。
 須賀老人も「ほほう」と言いたげな顔をしている。
 土岐は煙草をくわえたままそっぽを向いた。

「俺の商売上の秘密だからな。それに嫌なもんだよ。人に感情や心を読まれるのは……まして匂いとして感じられちゃうんじゃ、誰も俺のそばに寄ってこなくなる」

「僕はどんな匂いがしますか?」
 二宮が身を乗り出して聞いた。

「それを聞かれるのも嫌なんだよなあ。まあ、この中じゃ二宮の匂いが一番嗅ぎにくい。匂いが薄いってことだな。伊能の心の中は、何かに対する後悔や未練で一杯だし、万全はとにかく細かいなあ。お前、毎日抜けた毛の本数を記録しているだろ。そんな事するから、ますます禿げちゃうんだ。でも何にせよ皆、悪い人間ではないな。いや実際のところ、かなり心地よい匂いがするよ」

「僕って感情までが希薄になってきたのかなあ……マジやばいっすね」

 意外とショックを受けたらしい二宮の肩を、伊能が励ますように軽く叩いた。

「お前最初に見た頃よりずっと存在感出てきたぜ。ちゃんと見えるしな」

 そう言ってから、伊能は皆を見渡した。
「じゃあ、一応俺たちはタケトの言うことを信じるってことでいいのかい?」

 万全が不安げな眼差しで皆の顔色をうかがっている。
「あの……僕は警察の方のご意見に賛成です。タケト君には僕たちの知らない病気とかあるのかもしれないし。だって、お化けなんかいるわけ無いでしょう。フツーに考えて……」

「へえー。万全さんはタケトを信じないんだ!」
 二宮が驚いたような声を上げた。

 太い眉毛に不釣り合いな、万全の小さな目が気まり悪げに伏せられた。

「だって……お化けがいたら困るじゃない!怖いじゃない……」

「その事については、希君が仮説を考えましたのじゃ」
 須賀老人が万全をなだめるように言った。

 今まで黙っていたのは、どういう方法か分からないが希と会話をしていたらしい。

「女の言ったアシッドという言葉を希君が調べました。おそらくLSDの事ではないかと希君は言っております」

「LSDって昔ミュージシャンとか、芸術家なんかが使ってたラリ薬だろ?ビートルズもやってたらしいな。そう言えば幻覚が見えるんだよな」

 須賀を除けば、おそらく最年長の土岐だけがLSDを知っていたが、他はきょとんとしていた。

「わしも知らなかったんじゃが、なんでもLSDというのは最強の向精神薬だそうじゃ。サボテンから抽出される幻覚剤でメスカリンというのが有名じゃが、その一万倍の効果があるそうじゃ」

「つまり二宮が見たのはLSDによる幻覚ってことか……」
 眉間にしわを寄せて伊能が考え込んだ。

「でも、どうやって二宮君にそんな薬を飲ませたんですか?」

「タケト君が席をはずしている時なら、簡単にブースの中の飲み物に薬を入れられるんじゃなかろうか。だが、しかしですじゃ。もしかすると人に幻覚を見させる異能力の持ち主かもしれない、と希君は思ってますのじゃ」

「しかも偶然タケトがやられたわけじゃない。そいつは俺たちを狙っているわけだよな」

 伊能が顔を上げた。
「よし、ぐずぐず言ってても始まらない。取りあえず手がかりはサラマンダーにしかないわけだ。早速、二宮の出番が来たな。これで存在感もばっちりだぜ」

 二宮がすすっていたお茶を吹き出しそうになった。
「ぼ、僕が?な、何をするんですか?」

 伊能がタケトの調書の一部を指さした。
「あいつは今、警察病院に入院している。半分容疑者扱いだから俺たちじゃ会わせてもくれないだろう。おまわりの見張りがいるかもしないしな。お前ならタケトに会いに行ける」

「え!どうして僕なら?」

 伊能が唇を歪めた。笑ったのかもしれない。

「消えてくんだよ。じっくり話を聞いてこい」
 
 
 ~つづく

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29 賢人会議

 須賀邸に戻った伊能たちは、ヤクザたちに気味が悪いほど丁重に扱われ、朝と同じ和室に通された。

 須賀老人が手を一振りすると、ヤクザたちは魔法のように消え去り、伊能たちと須賀老人だけになった。

「よく戻ってきてくださった。そのことに心から感謝ですじゃ」

 須賀は巻いてあった紙をくるくると広げ、立派な床の間に画鋲で止めた。

{第一回 賢人会議 日本を救うために我々に何ができるか?}

 見事な墨書で黒々と書かれた文字を見て、皆あっけにとられたような顔になった。

「け、けんと?けんとかいぎ……けんとって誰ですか?」
 二宮が素っ頓狂な声を上げた。

「けんじんかいぎ、と読みますのじゃ。賢い人つまり我々ですじゃ。これから皆さんのすることはおそらく誰に知られることもないじゃろう。たとえ、見ず知らずの誰かのために命を落とすことがあっても、そこになんの見返りもない。ただ、わしらは知ってしまった。見過ごすことができなかった。だったら自分たちを、これくらい言っても良いですじゃろう」

「須賀さんは俺たちが戻ってくることを確信していたみたいですね?」

 伊能の言葉に須賀は重々しく肯いた。

「あなた方は必ず何かしらの理由を見つけて、ここに戻ってくると思っとりました」

「あの、希君は今いるんですか?」

「おります。皆さんに非常に感謝しておりますですじゃ。これから会議のためにタケト君の情報を取ってくると張り切っておりますじゃ」

「取ってくるといいますと?」

「警察のコンピュータに侵入するそうですじゃ。すぐに戻ってくるから賢人会議を進めておいてくれといっております……」

 ふっと須賀の目から輝きが失われた。
 少しの間沈黙が流れた。

 須賀が大きな咳払いをして話し始めた、というかとてつもない大声で怒鳴り始めた。

「貴様等、なっとらん!」

 小心な万全が正座したまま飛び上がった。

 それを見た二宮が「すげえ、なんとか真理教の教祖みたいだ」と伊能にささやいた。

 伊能は苦い顔で黙りこんでいる。

「危急存亡のおりである!」

 といった後、全員をじろりと見回してから、須賀は急にしょんぼりとして小声で歌を口ずさみ始めた。「さらばラバウルよ……」という昔の歌らしい。

「とても賢人会議とは思えんな」

「と、土岐さん……渋い顔で冷静な意見を述べながら泣かないでくださいよ」

「すまん、すっかり変なスイッチが入ってしまったようだ」

 突然ぶるっと須賀が震えた。

「嫌だなあ……おしっこでも漏らしたのかなあ」

 万全の声を伊能が「しっ」と制した。
「様子がおかしい」

 須賀の目に輝きが戻っていた。
 しかしひどく怯えているように見えた。
 伊能はじっと表情を観察してから言った。

「もしかして希君か?どうしたんだい?」

「誰かが僕を捕まえようとした」
 須賀の口調は子供のものに変わっていた。
 しかも語尾が震えている。

「捕まる?何に?」

「分からない……何か悪いモノだと思う……」

 二宮が身を乗り出した。
「ウイルス対策ソフトとかバグを除去するソフトとかじゃないの?」

「違うよ。僕はプログラムじゃないもん……」

「そうか、そうだよなあ」

「ちょっと前から、何かに後を追われている感じがしてたんだ。今はじめて触られた……」

「触られてどうなったの?」

「すごく嫌な感じがした。急いで須賀さんの中に逃げ込んだけど、僕……」
 言葉が途切れた。

 土岐が怖い顔になっていた。もう涙は流していない。
「どうしたんだ?言ってごらん」

 土岐の優しい声に須賀(希)が声を震わせた。

「なんか、僕、少し減っちゃったみたい……」

「減った?何が?」

「逃げるときに僕の一部を持っていかれたみたい……」

 須賀の目にチラチラと光が明滅した。

「希君はひどく混乱しているようじゃ。ちょっと休ませましょう。希君が持ってきた警察のファイルを、うちの組のコンピュータに置いたそうじゃ。今印刷して持ってこさせましょう」
 須賀は床の間の内線電話らしきものを取り上げた。

「わしじゃ。情報管理部の五代につないでくれ」

「凄いっすね……今のヤクザって」

 二宮がひそひそと伊能に囁いたのを、須賀が聞き逃さず受話器を持ったままにこりと笑った。

「ヤクザも情報戦の時代じゃからな」

 とても先ほど呆けていた老人と同一人物と思えない。

「おう!五代か。わしじゃ、おう。うちのコンピュータにのう、アルファベットでSNJと書かれたファイルがあるはずじゃ。それを5部印刷して持ってきてくれ。若い者にはやらせず、おまえ自身がすべてやれ。終わったらデータは消去しておけ。そうじゃ、急いでな」

 数分後家が揺れる程大きな足音が響いてきた。
「総長、失礼致しやす」

 入ってきたのは身長2メートルはあろうかという大男だ。
 つるつるに剃りあげた頭には大きな蜘蛛の刺青が彫りこんであった。

 その大男が部屋に入るとちんまりと正座して、書類を須賀に差し出した。

「中は見とらんじゃろうな?」
 須賀が鋭い眼差しで一瞥すると、大男はますます体を縮めた。

「はっ、決して!」
「良かろう。下がれ、ご苦労じゃった」

 男が去った後、全員が配られた書類を読んだ。

 それは新宿署で作成されたタケトの調書と、報告書だった。

 
 
 ~つづく

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28 誰かのために(2)

万全と二宮は、日比谷公園の噴水の見える日あたりのいいベンチに座って、ずっと取り留めのないことを喋っていた。

 通り過ぎる人がときおり気味悪そうな目で万全を見た。
 通り過ぎる子供が泣き出した。
 通り過ぎる犬がけたたましく吠えたてた。

 二宮が目に入らなくて独り言を言っているように見えるからなのか、単純に万全の外見が気味悪いのだろう。

 二宮は万全の様子を見て、ちっとも気にしていないらしいのに内心舌を巻いていた。
 ――この人はガラスより脆い毛髪と、鉄より強いハートを持っているに違いない――

「ねえ二宮君。千代田区ってさあ何があるんだっけ?」

「なんか政治関係とかあるんじゃないっすか?」

「自民党とか、民主党とか……共明党とかかあ」

「公明党っていうんじゃないすか?」

「そうか、そだね。二宮君、政治に詳しいね」

「そんなことないっすよ」
 二宮は少し得意な気分になった。

「あのさあ教えてほしいんだけど、自民党って何の略?」

「自由民主党じゃないですか」

「民主党は?」

「み……民主自由党ですよ、きっと」

「ふーん、似てるねえ」

「同じなんすよ、きっと……」

 二人ともテロ計画の事は考えるのが厭で、どちらからもその話を言い出せないでいた。

「ケツメドー!」
 どこからともなく大きな声が聞こえてきた。

 万全の身体がびくりと痙攣した。

 噴水の向こうから、身なりのいいビジネスマン風の若い男が万全達の方へ駆け寄ってきた。

「ケツメドじゃないか!なにやってんだよ?こんなところで一人で?」

「二人ですけど……」という二宮の声は風に吹き消された。
「や、やあ久し振り……」

 平静を装って挨拶する万全の顔は無残にひきつっていた。

 男は立ったまましげしげと万全を値踏みするように眺めた。
 そして腹を抱えて笑いだした。

「ケツメド!禿げちまったのか!神様はお前ばかりになぜ苦難を押し付けるのかなあ……ケツメドは強いなあ。俺がお前なら、とっくに自殺してるぜ」

 万全のバベルの塔が見る間にしおたれてきた。
「ああ」とか「うう」とかいってる間に、男はせわしなく時計を見た。

「俺、弁護士になったんだ。そのうち儲かったらカツラの金くらい恵んでやるよ。ところでケツメドの栓はしっかり締まるようになったのか?」
 万全の返事を待たずに、男は哄笑しながら足早に去って行った。

 うなだれている万全に、二宮はおそるおそる声をかけた。
「誰なんすか?あの人」

「小学校の時の同級生……いつも俺を笑い物にしてたやつだ」

「あの……ケツメドってなんですか?」

「俺んちの方の方言……」

「?」
「尻の穴のこと!」
 そう叫ぶように言って、万全は決然と顔を上げた。
「二宮君、俺はやるよ!」

「な、何をっすか?」

「俺が守ってやる!俺を心の底からバカにしているあいつを、俺が守ってやる!」

 二宮は呆れて万全をまじまじと見つめた。
「万全さん」

「ん?」

「けっこう複雑なんですね」
 当然だと言わんばかりに、万全は鼻の穴を大きく膨らませながら頷いた。

 そして急に二宮の手をがっしりと握り、つぶらな瞳をうるうるとさせながら二宮を見つめた。
「二宮君!」

「な、なんすか?」

「だから二宮君も一緒にやろう!セイギの味方なんてやるチャンスはそうそうないよ。貸した120円チャラにしてあげるから!ねっねっ」

 二宮は思わず笑ってしまった。
「120円は返しますよ。伊能さんに1万円も貸してもらったし。それから、もともと僕はやってみようと思ってました。もしかすると存在感を取り戻せるかもしれないし。タケトの仇も討ちたいし……ま、他にやることもないですしね」

「そうか……ありがとう」
 万全は二宮の手を取って泣き出した。
 そして涙声で言った。

「で、120円いつ返してくれるの?」


***


 その頃、帝都大学病院の構内を足早に歩く土岐の姿があった。

 土岐は苦み走った表情のままで、涙をだらだらと流していた。
 口うるさい警備員も、土岐のくわえた煙草について注意するのをためらうほどだった。

 土岐の涙は次から次へとあふれ出ていた。
 手には希の柔らかい髪の感触が残っていた。

 こっそり忍び込んだ希の病室で見た、やせ細った少年の姿。
 透けるように蒼ざめた整った顔。

 枕元に希を守るように置かれた5体の戦隊物のフィギュア。
 思わず髪を撫でて、土岐は呟いたのだ。

「俺がなんとかしてやる。絶対に……絶対に!」
 
 
 ~つづく

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27 誰かのために

「はい、伊能です」

 いきなり聞こえてきた真澄の声に、伊能は言葉を失って黙り込んでしまった。

 真澄の親が出たらこう言って真澄を出してもらおうとは考えていたのだが、うかつにも真澄が出ることを想定していなかった。

 なによりも久しぶりに聞く、懐かしい声にこんなに動揺してしまうとは思っていなかった。

 無言電話のような沈黙が流れた。
 真澄の大きなため息が聞こえてきた。

「私に電話してきたら死ぬって言ったでしょ」

「どうして俺だと?」

「分かるわよ。それくらい」

「ごめん……もう電話しないから。由美は元気かい?」

「この声が聞こえない?」

 電話の向こうから「誰からのお電話?パパから?パパからなの?」とはしゃいだ声をあげる由美の声が聞こえてきた。

 ぴょんぴょん飛び跳ねて、真澄にすがりつく姿が目に浮かんでくる。伊能の視界が歪んだ。

 涙声を悟られないように、喉の奥から声を絞り出した。

「どうしても教えてもらいたいことがあるんだ」

「何よ?」

「いつから俺と別れようと思ってたんだい?」

「もう1年も前からよ」

「俺は人の気持ちを読むのが特技だと思ってきたのに……どうして君の気持ちに気づかなかったんだろう?」

「私のことが本当に好きだからじゃない?」

 さらっとした調子で真澄は言い切った。

「そうか……そうかもしれないな。本当に好きな人の気持ちが読めないとしたら、何の意味もない特技だな……でも、俺の気持ちが分かっていて、なぜ君は俺と別れたいんだ?君は俺が嫌いになった?」

「あなたは好きよ。でもあなたのすることが嫌いなの。嫌な上司がいるからといってすぐに会社をやめる。ほんの遊び心だといって浮気をする。儲かるからといってインチキ商品を売る。全部自分勝手な理由だわ」

「自分勝手か……そうか……」

 そう言って黙り込んだ伊能に、真澄が探りを入れるような口調で尋ねてきた。

「どうしたの?何かあったの?私たちがいなくなったって、あなたは楽しくやっていける人でしょ?」

「ちょっとわけの分からないことに巻き込まれちゃってさ……」

 騒ぐのをたしなめられた由美が大声で泣き出した。

「パパア、パパと話す!由美も話す!」

 もう平常に話す自信がなかった。

「ごめん……もう電話しないから……由美を頼むよ。じゃ……」

「あなたは本当に私の気持ちだけは分からないのね」

 電話を切る前に聞こえてきたのは、由美の泣きじゃくる声と、真澄のため息だった。

 うなだれて歩き始めた伊能の耳に、由美の声が聞こえて、はっとして顔を上げた。

 もちろん由美ではなかった。
 日比谷公園を散歩している母娘連れが目に入ってきた。
 母親は真澄より少し年上に見えた。
 娘はおそらく由美と同じくらいだろう。

 回りを見渡すと、ビジネスマンばかりだろうと思っていた
日比谷公園に、数多くの子供たちがいた。

「自分勝手……か」
 伊能は呟いた。

 そして母親にまとわりつくように歩き去っていく幼女の後ろ姿をしばらく見つめていた。

 再び歩き始めた伊能は、もう顔を伏せてはいなかった。

 まっすぐに前を見据える眼には強い光が宿っていた。
 
 
 ~つづく

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26 それぞれの想い

 車の中では土岐は全く喋らなかった。
 ハードボイルドな無表情で煙草をくわえていた。

 人間観察には自信のある伊能には、土岐という人間が理解できてきた。

 おそらく非常に情の厚い優しい男なのだ。

 なぜギャンブラーを職業としているのかは分らないが、非常に厳しい世界であることは想像できる。

 きっと「やさしい」とか「いいヒト」とか「涙もろい」とかは致命的な弱点としか見られない世界ではないだろうか。

 ―いや人の事を考えている場合ではないな。俺はどうしたらいいのだろう。いや、いったい俺は何をしたいのだろう……

 伊能が今一番望んでいることは、再び家族と一緒に暮らすことだ。

 真澄を納得させることができるとすれば、自分自身が大きく変わらなければいけないのは分かっている。

 容貌にも恵まれ、明るい性格と、得意の話術で楽しく生きるのでは駄目なのか。

 何をどう変えればいいのか、途方に暮れていると言った状態だ。
 だからといってこんな突拍子もないことに巻き込まれて、命がけで正義を守るといったら、真澄はどんな顔をするだろうか。

 伊能は万全と二宮の間に座っていた。
 伊能が真剣にかんがえている間、伊能を間において万全と二宮がずっと小声で言い争っている。

 きっかけは万全が二宮に言ったことだ。

「二宮君、昨日貸したジュース代の120円いつ返してくれるの?」
「えっ!あれ奢ってくれたんじゃないんですか?」

「えええ!何でぼくが二宮君に奢らなければいけないの?理解不能なんですけど」

「万全さんが何か飲もうよって言った時、僕は言いましたよね。喉渇いてないし、小銭がないからいいです、って。そしたら万全さんが、いいよいいよ気にすんなって、そう言って買ったんじゃないですか」

 二宮の顔が興奮で紅潮してきた。

 万全は呆れ果てたような表情で二宮を見ている。

「僕一言でも奢るって言いましたか?気にすんなってのは、お金を貸してあげることに対してだよ。もうお金細かくなったでしょ。ちゃんと返してよ」

 二宮がうんざりした顔になってちょっときつい調子で言い返した。
「万全さん。僕ねずっと収入がないんです。今財布に入ってるのは30円くらいです。小銭だけじゃなくて、大銭もないんです。サラマンダーでタダで飲み食いしてたんですから」

 万全の小さな目が少し意地悪そうに光った。

「しかし二宮君、ビンボーにもほどがあるね。それから無銭飲食みたいなことは感心しないなあ。やっぱりルールは守らないとね。人間の基本だよ」

 厭味ったらしくそう言いながら、小さな手帳を取り出して何か書きはじめた。

「じゃあ今回は特別に返済日を遅らせてあげよう。利息は特別に無しにしてあげるよ」

 聞いている伊能も腹が立ったくらいだから、二宮はもっと頭にきただろう。

 万全は睨みつけてくる二宮のことなど眼中にないと言った様子で、ちびた鉛筆を舐めながら手帳をみつめていた。

「で、い・つ・な・ら・か・え・し・て・く・れ・る・ん・で・す・か?」

 いっそのこと万全に120円を払ってやろうかと伊能が思った時、二宮が憤然と言った。

「じゃあ、年内には返しますよ。まったく、せこいんだから!」

 その言葉に万全がきっと二宮を睨み据えた。

「ちょっと二宮君、せこいってどういうこと?聞き捨てならないなあ。それに120円返すのになんで2か月もかかるんです?」

「だって金ないんですよ。この3か月家を出て暮らしてますけど、家を出るときに持ってきた1万円でいままで生きてきたんですよ」

 伊能がついに二人の間に割って入った。
 とても考え事などできそうにない。

「やめろ二人とも。今はほかに大事なことを考えなければいけない時だろう」

 伊能が怒って大きな声を出したので、二人ともしゅんとしてしまった。

「確かに万全はせこい。お前名前と髪型は立派なのに、相当せこいよな。だけど二宮のビンボーも度を越してるな。何で働かないんだ?」

 二宮が少し恨めしげな眼で伊能を見た。

「僕も日払いの仕事とかやったんです。でもいざ日当を貰う段になると、誰も僕が働いているところを見ていないとか言われて……一生けんめい働いたのに、給料泥棒みたいに言われて、それでやめたんです」

 伊能はポケットから1万円札を出して二宮に握らせた。

「返すのはいつでもいいぞ。万全の120円はすぐ返してやれ。それで少し静かにしてくれ。いろいろと考えたいことがあるんでな」

 希の(身体が)入院しているという帝都大学病院も千代田区の中にあった。

 ルートから考えて先に病院に行った
 土岐が降りるとき伊能が声をかけた。

「土岐さん、なぜ子供を見にいくんですか?話の裏を取りに行くんですか?」

 土岐は伊能をちらりと見て言った。

「いや、話は信じてる。あんな嘘つけないぜ。ただあの子が見たくなった。それだけだよ。伊能は俺の能力を知っているから、あと一つ言っておく。あの爺さんと子供、どちらのときも物凄く良い匂いがしていたんだ。今まで嗅いだ事がない匂いだな。本当に純粋なんだな……そして、子供の方からは切なくなるほどの、淋しさとか悲しみも感じた。そのときふと思ったのさ。俺はどんな匂いをさせてるんだろうってな。自分の匂いは分んねえからな」

 後ろを一度も振り返らないで真っすぐ病院に向かう土岐を伊能はしばらく見つめていた。

 日比谷公園に向かう車の中で伊能は万全達に言った。

「最初に言っておくが、俺は役人ってやつが大嫌いだ。いつも皆死んじまえとか思ってたけど、本当にそんなことになると、考えちゃうよな。俺は電話で話したい人がいるんで、公園に着いたらちょっと別行動をとらしてくれ。昼位に公園のどこかで待ち合わせしよう。二人ともよく考えてな」
 真澄のメモには、電話をしてきたら由美と死ぬって書いてあったな。それを思い出して伊能は唇を歪めた。

 だが、どうしても真澄に教えてもらいたいことがあった。
 最期の電話だからとゆるしてもらうつもりだ。

 公園に着くと、伊能は公衆電話に行き真澄の家の番号をゆっくりとダイヤルし始めた。
 
 
 ~つづく

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25 それぞれのセイギ

 万全がおずおずと周りを見渡しながらぽつりと言った。

「あのう……僕たちって正義の味方だったんですか?」

 伊能は頭を振りながら遮った。
「ちょっと待った。正義とか、悪とかじゃなくてさ。まず、これは警察が対応する問題じゃないの?」

 須賀より先に土岐が答えた。
「そりゃあ無理だな。こんな話ケーサツが信じるわけないだろ。まして話の出所が……」

「そうですじゃ。頭の呆けたヤクザ者ではのう」

 土岐の言いよどんだ部分を続けた須賀の瞳からは先ほどまでの輝きが失われていた。
 土岐がぎょっとした顔になった。

「じ、爺さん……あ、親分さんに交代したんですか?」

「爺さんでけっこうですじゃ。わしはあなた方の親分ではありませんしのう」

「その……お子さんもそこにいらっしゃるんでございますか?」

 万全の問いかけに須賀は頷いた。

「どうやら大人の話とみて交代したのですじゃ。希君は賢くてとても良い子ですじゃ。だが、わし以外の人と会話するのは初めてなので、少しとまどっているようじゃな」

「なぜ、希君は自分の身体に戻らないんですか?」

 伊能の問いに須賀は悲しそうな目になった。

「戻らないのではなくて、戻れないのですじゃ。希君がどうしても行けない場所が、自分の身体とはのう……早くご両親のもとへ返してあげたいものですじゃ」

 須賀は一息入れてから言葉を続けた。
「希君が言わなかったことが一つ。わしの口から言いましょう。希君はセイギという言葉を使った。希君のセイギとはごく単純なものですじゃ。自分のパパとママを守りたい、ということですじゃ。彼の両親は霞が関の食堂で働いておりますのじゃ」

 重い沈黙がしばらく続いた。

「グ……ククク」

 嗚咽を噛み殺すような音に、皆がはっとしてその方を見た。
 土岐が石造りのモアイ像のように無表情のまま、大粒の涙をポロポロと流していた。

 万全が驚きの表情をむき出しにしていった。
「土岐さん……もしかして……いいひと?」

 土岐は乱暴に握りこぶしで涙をぬぐった。
「この子……いや、見た目は爺さんだが、子供なわけだろ……なんでこんなことに……正義とかは俺には関係ねえ。だけど小さな子供が頼んでるんだ。パパとママを守ろうとしてな……だったら俺に出来ることは何でもやってやる。どうせロクでもない人生なんだ。何も惜しいことはねえ」

 伊能は当惑して万全達を見た。
 万全がわざとらしく飛び上がった。

「あああああああ!僕、会社に電話してません!ちょっと欠勤の連絡をしてきます!」

 ケータイを握りしめて部屋を出て行った。
 二宮は輪郭もおぼろになってきている。
 消え去ろうとしているようだ。

「逃げやがった」
 伊能は小さくつぶやいた。

 それから意を決したように須賀に向かって言った。

「あの、ひとつはっきり言っておきたいんですが、これってへたをすると命がけの仕事ですよね」

「まさに命がけですじゃ。今朝あなた方を無理やりに連れてきたのも、一つにはあなた方の身の安全を図るためですじゃ。現にタケト君が敵の手にかかったと思われますしのう」

 伊能はごくりと唾を飲み込んだ。
「普通の人は、セイギのために命かけたりしませんよね?第一僕らが命をかけたって何もできないと思うし……そりゃあ、何とかできればって思いますけど……」

 二宮の輪郭がすこしはっきりしてきた。
 伊能に同意するように頷いている。
 いつの間にか万全も戻ってきて、伊能の横でバベルの塔を振りたてていた。
 土岐は相変わらず無表情で嗚咽を漏らしている。

 須賀が柔和な顔でいった。
「伊能さんの言うとおりですじゃ。誰もあなた方に強制はできません。ただ、このことを知って何もしないのと、知らずにいて何もしないということには大きな差があるはずですじゃ。どうか今日一日、出来れば標的になっている千代田区に行ってみて考えてください。そこに守るに値するものが無いのかを。あなた方にとってのセイギは何であるかを。自分以外の何かのために命をかける意味があるのかを……もし力を貸してくれる気になったのなら、もう一度この家にきて下され。わしと希君は待っておりますじゃ」


 数分後伊能、土岐、万全、二宮の4人は連れられてきたときと同じ黒い大型車に乗せられていた。

「どちらへ?」
 運転手の若いヤクザが慇懃に尋ねてくる。

「土岐さんは心決めたんでしょ?」
 伊能の問いかけに、土岐は力強く頷いた。
「俺は希君の本体を見てくる。帝都大学病院に頼む」
「かしこまりました」

 伊能は万全達と顔を見合わせた。
「俺たちは日比谷公園でも行ってみるか?天気もいいし、ゆっくりと話しあえるし」

 万全と二宮が同意したのを見て、伊能は運転手に言った。
「俺たち三人は日比谷公園にお願いします」
「かしこまりました。それからお帰りの際は、先ほどの電話番号におかけいただければ、どこでもすぐにお迎えに参ります。護衛は致しませんので、くれぐれもお気を付け下さい」

 車がすーっと音もなく走りだした。
 4人はそれぞれの思いに沈みながら何かを探しに向かった。
 
 
 ~つづく

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24 10歳の老人(2)

「万全ちょっと待てよ。どんな話でも信じるって言ってたじゃないか?じゃあ最後まで話を聞けよ」

 万全をたしなめたのは伊能だった。

 万全は頬を膨らませて伊能に食ってかかった。

「だって、何を言い出すかと思えば、10歳だなんて……きっとアルツハイマーが進行したんです。残念だけど、もう自分が何を言ってるのかも理解できていないんです!」

 伊能が何か言おうとするより早く、土岐が割って入った。

「この爺さんは、何かとても重要な事を俺達に伝えたいらしい。嘘や誇張のない、だが普通じゃない何かを、俺たちに純粋に理解してもらいたい。そんな感情の匂いがする」

「な・なんですか?感情の匂いって?」

 今度は土岐より先に伊能が答えた。

「とにかく土岐さんには分るんだ。それから俺が爺さんと初めて会ったときから感じていた違和感の正体も分かるかもしれない」

 傍観者的な態度をとるだろうと想像していた二人から反論されて、万全は救いを求めるように二宮を見た。

 二宮は眼をそらして伊能に問いかけた。

「違和感って……須賀さんのどんなことにですか?」

 伊能は須賀を見た。
 須賀は何も言わず、伊能をまっすぐに見つめていた。

「眼だ」

「眼がどうしたんですか?」

「ときおり好奇心で一杯の少年のような眼をしているときがある。まさに10歳位の少年の眼だな」

 そういえばといった風に万全が何度も頷いた。

 土岐が須賀に向かって声をかけた。

「もう途中で茶々は入れないから、全部話してください」

 須賀は感謝のこもった眼で伊能と土岐を見てから口を開いた。
 がらりと口調が変わっていた。

 しわがれた声はそのままだったが、喋るスピードも、言葉づかいも少年のものだった。

「僕の言い方が悪かったんです。ごめんなさい。僕の名前は長野希(のぞみ)といいます。須賀さんに了解していただいて、この身体を貸してもらっています。10歳になったのは僕の事です」

 万全がすでに逃げ腰になっている。
 
「に、二重人格とか多重人格ってやつですか……僕そういうの苦手なんですけど」

「違います。僕と須賀さん、いつもは御爺ちゃんって呼んでますけど……僕たちはまったく別の人格です」

「万全、口を挟むな」

 土岐が厳しい目で万全を一瞥した。

「僕の体はいま別の場所にあります。僕は5年前、まだ5歳だったころ交通事故にあいました。それ以降ずっと病院のベッドで意識が戻らないままです。理由はわかりませんが意識だけが遊離しているようです」

 呟くような声がぶつぶつと聞こえてきた。
 万全が必死に呪文のようなものを唱えていた。
 お経なのかもしれない。
「キーニョージュームーニョーライ……ナムフカシギコ……アンギャバホンギャバオンギャアギャア、なにとぞ成仏してください」

 土岐が苦い顔で笑った。

「せっかく生きてる者を殺すのか?」

「だって生き霊ってやつでしょ。アンギャアホンギャア」

「だからそれやめろ。最後まで聞け」

 万全は不承不承頷いた。

「この状況が信じられないのは僕も同じです。大変不思議なことになったと思いました。こうなったのがアメリカで911のあった日ですから、その大量な情報が一気に僕の中に流れ込んできたのです。僕は自分がどこにいるのか?パパとママはどこにいるんだろうと思って、ずいぶん泣いてばかりいました」

「そのあんたの意識はどこにあったんだい?」
 伊能の口調は真剣だった。

「しばらくして分かったんです。僕は世界を繋いでいるインターネットの世界にいたのです。眠る必要もなく、食事もいらない、どんなデータにも潜りこめるし、その内容を知ることも、保存することも簡単にできるようになりました。どこの国の言語でもあっという間に理解できてしまいます。行こうと思えば地球の裏側まで1秒かからずに行くこともできます。わずかな電気信号さえあればですが……」

「人間にも入れるわけだ?」

 全員がいつの間にか須賀の言葉を信じていた。

 質問した土岐を見て、須賀は難しい顔で頷いた。

「コンピュータに比べて、人間はずっと複雑で難しいですね。自意識があるから僕の侵入を排除しようとするし、無理すればその人の精神を壊してしまうかもしれません」

「須賀さんは大丈夫なのか?」

「須賀さんには驚きました。当時アルツハイマー病で本当に子供の頃に戻っていたんですね……排除するどころか、積極的に僕を受け入れてくれました」

「僕が皆さんを、異能力を持った人をネット上で探し出して集めたのも、このことを理解出来る人を探したかったからです。自分自身不思議な体験をしている人の方が良いだろうと思ったからです」

「なるほどなあ。子供にしては良く考えたなあ」

 須賀は身を乗り出した。
 あどけない目つきだが真剣そのものだ。

「時間がなくなってきました。僕の話を信じてくれて力を貸してくれる人を探しているんです」

 あまりの真剣さに冗談めかした軽口も叩けなかった。

 思わず息をのんで伊能が訊ねた。

「何の時間がなくなってきたの?俺たちの力って異能力の事?この能力はどっちかっていうと無能力に近いぜ」

 しばらく須賀は黙り込んだ。

 須賀の心の中で、大家の老人と少年が相談しているようにも見えた。

「実は恐ろしいテロ計画の存在を知ってしまいました。首謀者のパソコンから、交換ソフトかウイルスによって計画の一部がネット上に流出しました。それを偶然僕が見つけたんですが、恐ろしい計画です。おそらく史上最大規模のテロになるでしょう……」

 とたんに皆がそわそわしはじめた。

「日本で起きるのかい?」

 土岐に向かって須賀は頷いた。

「僕が見たのは高度に暗号化された計画書の一部ですが、東京がターゲットです。特に千代田区は完全に抹殺する気です」
「なんで千代田区なんだろう……」

 二宮がけげんそうに首をかしげた。

「千代田区こそ日本の心臓部だからです。官公庁、国会、皇居、重要な施設、人材が集中しています。昼間人口約80万人。皆殺しにするつもりです」

「ど・どうやってそんなことができるの?核ミサイル?」

 須賀は苦しそうな顔になった。

「分りません……決行時期はおそらく年内。あと2か月もありません。これから皆さんと計画の全貌を暴いて、この計画を阻止しましょう」

 万全は腰が抜けたようにペタリと座り込んだ。

 須賀を除く全員が呆けたようにお互いの顔を見つめていた。
 伊能がおそるおそる須賀に聞いた。

「あの……なんで俺たちがそんなことするの?」

 須賀はこの会合で初めて笑顔を見せた。
 それは一点の曇りもない、少年の笑顔だった。

「だってテロをやるなんて悪いやつでしょ。だからやっつけなきゃ。僕たちはセイギのミカタでしょ」

 土岐のくわえていた煙草がポロリと落ちた。

「こりゃあホントに子供だぜ……なんかすげえヤバいことに巻き込まれたのか、俺は」
 
 
 ~つづく

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23 10歳の老人

 須賀老人の姿を見て、万全は思わず駆け寄ろうとした。

 ――ボケ気味の老人まで誘拐するなんて、ヤクザには敬老精神がないのか!――

 須賀を心から尊敬している万全は、また髪の毛がざわめくのを感じた。

 しかし万全より、周りのヤクザ達の動きの方が素早かった。
 それまでのヤクザ達は、暇そうにウロウロしているといった雰囲気だった。

 全員がスーツ姿なのに、どう見てもサラリーマンには見えない。
 服の着こなし方、喋り方、表情、歩き方、仕草のすべてに暴力の匂いが漂っていた。

 大声で卑猥な話をしている者。
 やたらと殺気立った顔で唾ばかり吐いてる者。
 万全の髪形を見て、狂ったように一時間も笑い続ける者。

 ちょっとした仲間同士の小競り合いが起きた時は、飛び交う怒号に腰が抜けそうになった。

 怠惰な猛獣たちの群れに似ていた。
 須賀老人が現れるや、それが一瞬で変わった。

 全員が訓練された軍隊のようなきびきびとした動きになった。

 だらしなく緩めていたネクタイも、いつの間にかびしっと絞めている。
 サングラスをかけている者が多かったのに、一人もいなくなっていた。

 全員が真剣な眼差しで須賀老人を見つめていた。

「お疲れ様です!」「お疲れ様です!」

 横柄な雰囲気をまき散らしていたヤクザ達が、年齢に関わらず大声で叫びながら、須賀老人に向かって深々と頭を下げていた。

「まるで水戸黄門だな。実は天下の副将軍ってやつか。しかし驚いたな。須賀常太郎とはな……」

 いつの間にか隣に来ていた土岐が、呆気にとられている万全に話しかけてきた。

「あ、土岐さん。土岐さんは知っているんですか、須賀さんのこと」

 土岐は無表情のまま煙草を取り出して唇にくわえた。

「須賀常太郎……東日本最大のヤクザ組織愛桜連合の総長だよ。最近噂をきかなかったが、昔は最後の任侠なんて言われていて、ちょっとした有名人だった。あの爺さんをモデルにした映画なんかもあったなあ」

「須賀さんがヤクザの親分!し、信じられない……なんか思考能力が無くなっちゃいました。須賀さんが悪い人だったなんて……本当に僕は須賀さんのことをリスペクトしていたのに……」

 万全はすっかりしょげた様子で肩を落とした。
 バベルの塔も心なしかしんなりとしている。

 土岐は苦笑を浮かべて万全を見た。

「もともと思考能力無いんだろ?あればその髪型にはしないと思うがな」

 むっとして黙り込んだ万全の様子を、気にも留めずに土岐は話を続けた。

「だが、あの爺さんが悪い人ってのは違うんじゃねえか?俺も博打打ちだから、ヤクザのことは知っているつもりだ。須賀常太郎って人は、筋の通らないことは絶対にしないらしいぜ。世間から落ちこぼれていく連中の面倒みているうちにヤクザの親分になった。ヤクザの世界でも筋を通すために随分無茶な喧嘩もしたらしい。一代で組員一万人以上の組織を創り上げた男なんだから凄いのは当たり前だが、あの爺さんの凄さは別にある」

「なんですか?」

「爺さんは対立関係にあるヤクザ達にも尊敬されているんだ。愛桜連合は麻薬厳禁、堅気に迷惑をかけたら即破門の厳しい掟があるんだが、それでも爺さんを慕って本物のヤクザになりたいと言って集まってくる連中が多いんだ。まあ不良のカリスマなんだな」

 気がつけば伊能も二宮も一緒に土岐の話を聞いていた。

「なるほどな。俺もどっかで聞いたことのある名前だと思ったよ。まさかヤクザの親分さんだとは思わなかったけど、問題はなぜ俺たちをこんな形で集めたのか……」

 ヤクザ達に囲まれてなにか笑顔で話している須賀老人を見つめながら伊能が呟いた。

 突然ものすごい怒鳴り声が聞こえてきた。

 万全達がはっとして声のする方を見ると、ついさっきまでにこやかだった須賀の形相が一変していた。

 顔は怒りで真っ赤になっている。
 取り囲む男たちも凍りついたように硬直していた。

 須賀の前には土下座して頭を地面に擦りつけている男がいた。
 万全に拳銃を突きつけた、頬に傷のある男だった。

「堅気に!しかもワシの客人にチャカを向けるとは何事じゃ!伊吹、貴様は破門だ!とっとと出て行け!」

 伊吹と呼ばれた頬傷の男は、破門という言葉を聞いて顔をあげた。

「親っさん……破門だけは勘弁してください!エンコ(指)なら何本でも詰めます……いや腕一本だって詰めて見せます。どうか自分を親っさんのお傍に置いてやってください。お願いします……」

 最後は涙声になっていた。

 須賀は伊吹には何も言わずに、万全達の方へやってきた。

「皆さん、こんな朝早くから誘拐じみた事をされて、さぞ驚かれたじゃろう。本当に申し訳ないことをした。心からお詫びするですじゃ。これにはのっぴきならない事情がありまして、これから皆さんにお話しするつもりですじゃ。朝ご飯でも食べながら如何ですかな?」

「そういえば腹減ったな。御馳走になろうか」
 伊能が大げさな身振りで腹をさすった。

 須賀の案内で広い庭を横切り、巨大な母屋とは別に建てられた旅館のような日本家屋に通された。

「伊能さん、あの3階建ての母屋。何DK位あるんですかね?見当もつきませんね」

 二宮がコンクリートの要塞のような母屋を見て呆然として呟いた。

「バカだな。何DKじゃ数えねえよ。何百㎡とか何千㎡って言うんだよ」

「ヤクザって儲かるんですねえ……」
 二宮が小さくため息をついた。


 伊能、万全、二宮、土岐、そして須賀老人の五人が朝食を食べたのは20畳位の広い和室だった。

 食事は純和風の質素なものだったが、味噌汁と御飯の美味しさには皆が驚嘆した。

 味覚を失った土岐も、さりげなく同調している。 
 土岐の隠された能力と、失った味覚については伊能しか知らないのだ。

 須賀は食事の間、何も話さなかった。
 甲斐甲斐しく給仕をする組の若者がいたからだろう。

「しばらくは誰もこの部屋に通すな」
 須賀は食事が終ると若者にそう言いつけた。

 五人だけになっても、須賀はお茶をゆっくりとすすりながら、いろいろと思案しているように見えた。

 ようやく口を開いたのは、土岐が3本も煙草を吸い終えたころだった。

「どう話したらいいものか……あまりにも奇想天外な話なので皆さんは驚くじゃろう。信じてくれないかもしれない」

 須賀は眼をしょぼしょぼさせながら、ヤクザの大親分とは思えないほど気弱な顔で皆を見渡した。

 万全が身を乗り出す様にして、須賀を励ました。

「須賀さんの話はどんなことでも僕は信じます。安心して話してください」

 須賀は嬉しそうに肯いて、しわがれた声で話し始めた。

「実は……」

 皆が全身を耳にして聞き入っていた。

「実は……わしは今年10歳になったんじゃ」

 万全が気味悪そうな顔で、思い切り身を引いた。
 そして残念そうに言った。

「須賀さん、病院に行きましょう」
 
 
 ~つづく

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22 拉致

 万全と二宮は夜を通して話し合った。
 初めて入ったネットカフェの居心地が悪くて、とても眠れそうになかったからだ。

 夜が明けるとすぐに二人はネットカフェを出た。
 万全は仕事に行くために、二宮はもっと寝心地のよさそうなネットカフェを探すために。

 歌舞伎町と西武新宿駅の間の、狭い路地が交錯する場所にある穴倉のようなネットカフェから出た二人は、駅に向かって歩き始めた。

 まだ薄暗い路地には、ゴミをあさるカラスたちばかりが我が物顔で歩き回っていた。

 横道から、黒っぽいスーツを着た3人の男が目の前に現れた。

 気がついた瞬間、万全はくるりと回れ右をして逆方向へ歩き出した。

 二宮があわてて後を追う。

 しかしそちら側にも行く手を遮るように、同じような格好の3人の男が現れた。
 チンピラではなかった。
 もっと本格的なヤクザたちに見えた。
 万全は恐怖で顔がこわばるのを感じた。

 二宮は必死で消えようとしていたが、心臓がどきどきしてまったくうまくいかなかった。

 6人にあっという間に取り囲まれた。
 頬に長い傷のある、冷酷な目つきの男が口を開いた。

「すまないが俺たちと一緒に来てもらう」

 有無を言わせない口調だった。

 何かいおうと口をぱくぱくさせた万全は、両脇から体格のよい二人の男に抱えられた。

 思わずしゃがみこもうとしたら、ベルトの後ろに手をかけられて、小柄な万全は完全に宙に浮いた。

 二宮を見ると、同じように両脇を抱えられて、強引にどこかへ引きずられていく。

 必死の形相で振り返る二宮の目は怯えきっていた。

 突然強い怒りが万全を支配した。
 万全の髪がざわざわと騒ぎ出した。

 捕獲した小猿のように万全を抱えあげていた二人のヤクザが、一人は前方へ、一人は後方へ弾かれたように飛んで、薄汚い地面に叩きつけられた。

 自由になった万全はすかさず二宮を助けに走った。

 しかし頭の後ろに硬いものを突きつけられて動くことができなくなった。

「動くな。面白い技を持っているな。だが、こいつは玩具じゃねえ。勝負してみるかい?」

 そっと振り返ると、黒い大型の拳銃がまっすぐ万全の目と目の間を狙っていた。

 拳銃を握っているのは頬に傷のある男だった。
 冷酷な目に少し愉快そうな光が宿っていた。

 万全はがっくりと肩を落とした。

 倒れていた二人がいまいましそうな顔で近寄ってきて、再び万全を乱暴に抱えあげた。

 黒塗りの大型の外車に二人は乗せられた。
 フルスモークで中はまったく見えないようになっている。

 車の中で二宮が万全に囁いた。

「すごい力じゃないですか。僕、感動しました」

「全然すごくないよ……だってあれは合気道の技だもん」

「合気道……そんなことできるんですか?」

「集中力とか、気を学ぼうと思ってずっとやってたんだ。もちろん超能力特訓のためにね」

「それにしてもすごいっすよ。脱毛力もある意味ではすごいけど、こっちの方が全然すごい」

 万全はむっとして二宮を睨んだ。

「脱毛力じゃなくて、念動力!まあ、合気道では日本選手権も取ったけど、普通の力だからなあ……」

 前の座席で二人の話を聞いていたらしい頬傷の男が万全たちを振り返って見た。

「そうか……兄さんの使ったのは合気道か。やるじゃねえか」

「でもピストルにはかないませんよ」

 頬傷の男は声を出さずに笑った。
「そりゃそうだ」

 万全は思い切って聞いた。

「あの……僕たちどこへ行くんですか?貴方たちはどなたですか?」
「行けばわかる。大人しくしてりゃあ何もしねえよ」

 しばらくして、3メートル近い塀に囲まれた屋敷に到着した。

 鉄製の大きな門が電動で開き、万全たちを乗せた車は中に吸い込まれていった。

 車から降ろされた二人は、伊能と土岐の姿を見てびっくりした。
 伊能たちも屈強なヤクザたちに囲まれていた。

 伊能の顔は強張っていた。
 土岐は相変わらず無表情だ。

 それにしても見渡す限りおびただしい数のヤクザたちがいた。
 ざっと100人近くいただろう。

 そしてやはりヤクザに両脇を抱えられてきた人物を見て、万全は思わず声を上げた。

「須賀さんもですか!」
 
 
 ~つづく

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21 陰気なマッドサイエンティストと1000分の1ミリの爆弾

「そうか。とにかく連中が私たちに関わってこないよう全力を尽くしてくれ。特に老人には注意が必要だ。チャンスがあったらDeleteしてくれ」

 手入れしていない、荒れ果てた庭を歩きながら、三上は携帯電話をポケットにしまった。

 江戸時代から続く医家の名門三上家の屋敷は、杉並区の一角に二千坪を超える敷地を有している。

 祖父が死に、三上の妻子が家を出てから、広大な屋敷に暮らすのは、三上聖(みかみ・きよし)と戦前から三上家に仕えていた貞子という名の老婆の二人きりだ。

 近所の子供たちは、荒廃したこの家を幽霊屋敷と呼んで恐れている。

 三上は落ち葉を踏みしめて、敷地内に建てられた研究室に向かっていた。

 日本陸軍の細菌戦研究の主導的立場にあった曽祖父が戦前に作ったものだ。
 当時としてはトップクラスの施設だったものに三上が改良を加え、現在ではもっとも危険なレベルの細菌(レベル4)を扱える国内トップレベルの施設になっている。

 しかし三上家の研究室の存在を知るものは誰もいなかった。

 三上は祖父に育てられた。

 物心付かないうちに母親は病気で死に、間をおかず祖父との確執から父親が三上を置いて失踪した。

 厳格で知られた祖父は、三上には惜しみなく愛情を注いでくれた。

 誇り高かった祖父が、幼い三上に繰り返して語っていた言葉がある。

「三上(みかみ)家は江戸時代までは御神(みかみ)家と名乗っていたらしい。ご先祖様が日本で一番貴いお方の病気を治したご褒美として戴いた名前ということだ。あまりにも畏れ多い名前ということで、明治になってから三上と改名したのだ」

 誇りを胸に、三上は天才児とか麒麟児と呼ばれながら成長した。

 6年前、三上は日本医学会のトップに君臨する帝都大学医学部で、史上最年少の準教授になった。29歳だった。

 当時帝都大学学長だった祖父の影響力がなかったとはいえない。

 しかし病原性細菌に関する三上の研究は、世界が認めるものだった。

 この頃が三上にとっても、この朽ち果てた屋敷にとっても頂点の幸福を味わっていた時期だった。

 丹精込めらられた美しい庭には、歩き始めたばかりの三上の長男尊(たける)と妻貴子の笑い声が響き、三上の運転する高級外車には一緒に大学に出勤する祖父が乗り、孫に優しく手を振っていた。

 手を振る妻子の姿をバックミラーで見ながら、思わず頬が緩んだことを三上は思い出していた。

――だから、この国を殺してやる――

 三上は研究室のドアの厳重なロックをはずしながら少し笑った。

――俺から全てを奪った奴ら。三上家の誇りを踏みにじった腐った官僚共の支配するこの国を!尊を奪った貴子を!俺の作り出した1μm(1000分の1ミリ)の爆弾で焼き尽くしてやる――

 入り口の常夜灯に照らし出された三上の顔は、陰惨に歪み、目だけがギラギラと熱を帯びて輝いていた。
 
 
 ~つづき

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20 はじまりの夜

 事件当時サラマンダーにいたと思われる客全員を取り調べ、綿密な捜査を行ったが、警察は凶器すら発見することができなかった。

 かろうじて一命を取り留めた被害者の供述が、さらに捜査陣を困惑させた。

「犯人はお化けだと?ガイシャはシャブ中か?それともこれか?」

 被害者 表野岳人(ひょうの・たけと)の供述を取ってきた刑事に向かって、鬼のような形相の課長が指で自分の頭を指してくるくると回した。

 刑事は否定しなかった。

「家族から聞いた話ですが、ガイシャは精神病院に入院したことがあるようです。で、病院での検査結果ですが、シャブやコカイン、ヘロインなどの反応は出なかったんですが……」

「が、なんだ?」

「向精神薬系の薬物摂取が疑われるそうです。さらに詳しい検査をするそうです」

「その結果は?」
「明日にも出るということです」

「そうすると自分で病院からもらった向精神薬か何かを大量摂取して、錯乱した上で自傷行為に及んだとも考えられるわけだ」

「しかし課長、ガイシャは凶器をもっていませんでした。ガイシャの荷物からも薬物等は一切発見されておりません」

「ガイシャの容態はどうなんだ?」

「鋭利な刃物で頚動脈をほとんど切断された状況ですが、止血などの応急手当てが早かったため、回復にはさほど時間がかからないようです」

 課長はうんざりした顔で手を振った。

「とにかく検査結果を待って、ガイシャの供述を取ろう。それまでは自傷の可能性も視野に入れての捜査となるな」

「殺人事件とのからみは?」

「場所も同じ。凶器もほぼ同じだ。当然最重要視する」

「分かりました」

 立ち去りかけた刑事が、ふと何かを思い出したように振り返って課長に尋ねた。

「今日何人か不審者をしょっぴいてきましたよね。どうだったんですか?」

 課長はさらに顔を苦々しげに歪めた。

「訳の分からんヤツばかりだが、ホンボシとは思えん。そういえば一人、ガイシャの友達だってヤツがいたな。もう全員帰した」

 課長はもううんざりといった風に、大きなため息をついた。


 万全はサラマンダーに戻り、店員に荷物を渡された。
 警官たちがひっきりなしに店を出入りしている。
 店員は不貞腐れた様子で万全に言った。

「すみませんが警察のお達しで、2,3日営業を休むことになりました。まあ、仕方ないっすね……こうも連続で事件じゃあね」

「じゃもう店には誰もいないの?」

 万全は二宮のことを思って聞いた。

「ええ、皆さんに帰ってもらいました。あのこれ、ご迷惑をおかけしたんでサービス券です。次回ご利用の際、使ってください」

 サービス券を受け取って、万全が地上への階段を上り始めたとき、いきなり目前に二宮が現れて、万全は腰が抜けそうになった。

「び・びっくりさせるなよ!死ぬかと思った」

「すみません。さっきからいたんですけど……つい、ぼーとしてて」
 万全は二宮を促して外に出た。
 待ちきれないといった様子で二宮が問いかけてきた。

「被害者はやっぱりタケトですか?」

「そうらしい。はっきりとは教えてくれないんだけどね……まったく警察ってのは嫌なところだね!人の髪型にまでケチをつけてさ……なんの目的でそんな髪型を?どんな理由で?宗教?神のお告げ?まったく!」

 二宮は万全を遮るように言った。

「万全さんのハゲの話じゃなくって、タケトの状態はどうなんですか?」

 万全は小さな目を一杯に見開いた。

「ちょっと二宮君、ハゲって……まあいいや……うんひどい怪我だけど、命は助かるらしいよ」

 矢継ぎ早に何か聞こうとしてくる二宮を制して万全は言った。

「まず先に今夜のねぐらを決めようよ。それからゆっくり話そう」


 立ち去る二人を土岐が煙草を咥えたまま物陰から見つめていた。
 風の匂いを嗅ぐように、小鼻をひくつかせてから、顔をしかめて煙草を吐き捨てた。


 伊能は一人きりの部屋で、電気もつけずに小さな荷物を前にぼんやりと座っていた。
 娘の由美に送った人形が{受取拒否}のハンコを押されて戻ってきたのだ。

 つけっ放しのテレビから「サラマンダー」という言葉を耳にして顔を上げた。
 被害者の表野岳人という名前を聞いて思わず声を出した。

「タケト?まさか、あいつか?」


 須賀老人は布団に横たわって天井を見上げていた。
 目には強い意志が漲っている。

「はじまった。パパとママは僕がゼッタイ守る」
 小さな子供のような口調で呟いていた。


 女は携帯電話でささやく様に話していた。

「言われたとおり警告しました。死ななかったみたいですが」
 
 
 ~つづく

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19 容疑者 万全大力 見るからに変質者と呼ばれた男

 通報を受けた新宿署は即座に、サラマンダーの客が出入りする事を禁止した。

 捜査が終わるまで新しい客を入れてはいけない。
 今いる客は絶対に帰してはいけない、という事だ。

 現場到着早々に、制服警官と刑事たちを数十人動員して、捜査協力という名目で滞在客全員の事情聴取が行われた。

 タケトが襲われた時間に滞在していた客の人数は、受付状況から見て150人前後だ。

 怪しい奴は所持品の検査もしろ、ガタガタ言ったら署に連行してこいと、荒っぽいので有名な新宿署の刑事たちも一層気合が入っていた。

 連日の、しかも同一現場での犯行、ネットでの犯行宣言。
 警察の威信を踏みにじるような事件だった。張り切っている捜査陣も、ネットカフェという現場の特殊性にとまどう部分もあった。

 被害者が救急車に搬送されるときの緊迫した状況にも、殺気立った警官たちがあわただしく動く現場特有の雰囲気にも、ネットカフェの住人たちは、あまり関心を持たなかった。
 暇そうな何人かが様子を見にきただけだ。

 細かく分けられたブースが、何事もなかったかのように、しんと静まり返っていた。

 客全員からの聴取を終わった段階で、怪しい人物が数名リストアップされた。

 なかでも極め付けに怪しいと判断されたのは、万全大力だった。
 が、当の万全自身は事件について、まったく気が付いていなかった。
 警官が来るまで、自分のブースで鏡を見ながら、頭のバベルの塔を丹念に積み上げていたのだ。

 パソコン画面には、もう何百回も繰り返し見ている、万全のお気に入り美少女アニメのDVDが流れている。

 やけに人の出入りが慌しいとは思っていたが、いきなりブースのドアを開けて警官が険しい顔で入ってきたときには、驚いて椅子から落ちそうになった。

 別にやましい事をしていた訳ではないが、眉をひそめてアニメ画面と万全の頭を何度も見る警官の態度に、かなり動揺してしまった。

 狭いブースの中で、厳しい表情の警官と、膝が触れ合うほどの距離で事情聴取をされた。

 万全は自分が完全な潔白であることを、それらしい態度で示そうと思っていた。

 しかし思わぬ邪魔が入った。

「いやーん、もうえっちなんだからあ」とか「あはーん、うふーん」とか怪しい声が、パソコンデスクに置いた万全のヘッドフォンから漏れてくる。

 そのたびに中年の警官は眉をひそめてアニメの画面をちらりと観る。
 慌ててアニメを消すのも、悪いことでもしていたみたいで嫌だと思ったから、そのままにしておいたのが失敗だった。

 もともと対人恐怖の傾向があるのだが、顔は勝手に紅潮するし、汗がだらだらと流れるし、自分の生年月日をすぐに答えられなかったり、どもったり、わざとらしく笑ったりするし、しまいには「いやあ僕には隠し事がありますよ。こう見えても、実はすんごい禿なんですよ。馬鹿禿げ、あ、若禿げかあ、どわっはっはは」と一人で大爆笑までしてしまった。

 自然な感じで振舞おうと思えば思うほど、全てが不自然になってしまった。

 警官はにこりともせずに、珍しい動物を見るような目で、じっと万全を観察していた。
 表情には、はっきりとした不審の色が表れている。
 ときおり哀れむような目つきで万全を見るのが、ひどく辛かった。

 別に僕は可哀想な人じゃないと、大声で抗議したかった。
 とにかく、我ながら見事といえるほどの怪しげな態度をとってしまった。

 そのせいで手錠こそかけられなかったが、任意とは名ばかりで、強制的に署に連行される羽目になった。

 万全を調べた警官のメモには、こう書かれていた。


【名前】
万全大力(ばんぜんだいりき)
本名であることを保険証で確認済み。
【生年月日】
19××年×月×日
満25歳 当初、生年月日を忘れたというなど不審な態度あり。
保険証で確認済み。
【住所】
両親は健在。東京に実家があるが、ここ2ヶ月くらいはネットカフェで寝泊りしている。
【前科前歴】
無し(本人の申告)
【仕事】
㈱大日本健康機器販売 本社人形町 庶務課勤務 勤3年
名刺あり
【メモ】
本官が聴取に行くまで、事件のことは知らなかった。
アニメ「ぼよよん巨乳の天使たち」を観ながら、頭髪の手入れをしていたと主張している。
一見して、極めて不審。
奇怪な髪型。おどおどした態度。奇妙な表情。偏った性向を思わせるアニメ。
見るからに変質者風。
充分な取調べが必要。
【所持品】
財布(各種会員カード等、銀行カード、コンドーム一個、現金8500円、つまようじ3本)名刺入れ、ボールペン3本、手帳、「ぷるるん爆乳あっち向いてポイ」というコミック3冊、「ぽろろん超乳サザエさん」というコミック1冊、携帯電話等

 新宿署に連れて行かれる前に、二宮たちに連絡しておかなければ
と万全は思った。
 万全がいないことを心配するかもしれない。

 刑事の許可を得て、二宮のブースに行った。
 万全を待っていた二宮が、事件について少し興奮気味に話した。

 驚いたことに、二宮が集めた情報では、被害者がタケトである可能性が高いという。
 確かにタケトはブースにもいなかった。
 店内を探しても見つからない。

 事件発生以降、店から出たのは、救急車で運ばれた被害者だけだとすれば、それがタケトだという可能性が高い。

 万全はさっきまでとは違う汗が流れるのを感じた。
 はにかんだような笑顔のタケトの顔が浮かんでくる。
 怪我はどの程度なのだろうか?
 いったい誰が、なぜタケトを?

 連行されるのを利用して、警察から詳しく事件の内容を聞きださなければならない。

 万全と同じく連行されるのは、他に5人いて、コミュニティスペースに集められていた。

 見るからにホームレス然とした初老の男が一人。

 見るからに薬物中毒的な若者。

 見るからに凶悪そうなチーマー風。

 見るからにココロ系ビョーキらしい痩せこけた女。
女の両腕にはリストカットの醜い傷が無数にあった。

 見るからに頭がおかしい中年男。
なぜか半ズボンに毛皮のコート。異様に太っている。

 その連中が、万全を見て呆気に取られたような表情になった。

 全員が万全の頭を、バベルの塔を見つめていた。

 万全はまた少し傷ついた。
 
 
 ~つづく

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18 サラマンダーの幽霊(2)

 ブースに戻って一人になると、タケトは早速ネット上でサラマンダーについての噂話などを拾い集めた。

 サラマンダーの幽霊話を語っている、都市伝説板に新しい書き込みがあった。

〔友人がサラマンダーのシャワー室近くで、浮遊する女の首を見たらしい。殺された少女のものだろうか?情報求む〕

 書き込み日時を見ると、1時間前だった。

 タケトはブースを出て、シャワー室へ向かった。

 暗くて狭い通路を通ってシャワー室の前に行くと、黄色い立入禁止のテープが張られてあった。

 警官が一人、手持無沙汰に椅子を置いて座っていた。
 タケトは一応警官に声をかけた。

「あのー、男性用のシャワー室も使えないんですか?」

 あくびを噛み殺しながら、警官はじろりとタケトを見た。

「明日もう一度調べるんで、今日は使えませんよ」

 まさか、幽霊の話もきけない。
 タケトはあきらめてブースに戻ろうと思った。

 ふと、この辺に好きなマンガが置いてある本棚があることを思い出し、ついでに何冊か持っていこうと、本棚でコの字型に区切られた狭いスペースに入っていった。

 ぎっしりと漫画本が詰め込まれた本棚を、目当てのコミックを探して眼で追ううちに、視界が揺らいだ。

 地震かな、と思った。

 微かにカビ臭いような匂いがした。

 タケトは異様な感覚に戸惑った。

 慣れ親しんだサラマンダーの空間が一瞬で、何か異質な世界に変貌したように感じたのだ。

 タケトの探していたコミックが見つかった。

 本の間から、漫画のキャラクターが飛び出して、タケトを手招きしているので気がついたのだ。

 声も出なかった。

 狂ったのだと思った。

 タケトは何かに吸い寄せられるように、天井を見た。

 真っ白な、女の顔が、顔だけが浮かんでいた。

 長い髪を翼のように広げて、美しい女の生首がタケトを見つめ、笑っていた。

「あ、あ、あ」

 叫ぼうとするタケトの声は、漫画の吹き出しのように、口から風船のようなものにくるまれた文字として、ぷかりぷかりと宙に浮かんだ。

 これは悪い夢だと思った。

 その証拠に、逃げ出そうとしても、足にも腰にも力が入らない。

 精一杯の力を振り絞って、女の首から目をそらし、なんとか体の向きを変えた。

 あとは足を動かすだけだ。

 逃げろ。逃げろ。

 足が異様な重さで持ち上げられない。

 警官がそばにいる。

 叫べ。叫べ。

 喉から出るのは相変わらず文字だけだ。

 突然、右の肩がひどく重くなった。

 タケトは眼だけ動かしてそちらを見た。

 タケトの肩に女の顔が載っていた。

 女の大きく開いた口から、舌が長く延びてタケトの耳を舐める。

 しゅうしゅうという息使いの中で、女が囁いた。

「アシッド」

 首筋がひやりとして、一瞬後盛大に血が噴き出した。

 同時にタケトの体に力が戻った。

 めちゃくちゃに両手を振りまわしながら、タケトは倒れた。

 物音に気がついて飛んできた警官は、首筋に手を当て血まみれで転げまわるタケトを見て、すぐに周りを見回したが、誰もいなかった。

 警官は眩暈を覚えながらも、救急車を手配した。
 
 
 ~つづく

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17 熱い友情で結ばれつつある異能トリオ

 伊能と土岐が話し込んでいた頃、サラマンダーではすっかり意気投合した様子の万全と二宮、タケトの三人が楽しげに何かを相談していた。

 須賀老人は「おむつの時間ですので、お先に御免なすって」と訳のわからないことをボソボソと呟いて、帰った。

 見た目では、万全がひどく年上に見えるが、聞いてみれば、三人はほとんど同世代と言ってもいい。

 万全は、二宮とタケトに初めて会ったときから、「俺と同じだ」と感じていた。

 学校という集団の中で、いつのまにか孤立してしまうようなタイプなのだ。
 いじめにあったかは分らないが、おそらく友達と呼べる存在はいないのではないかと思っていた。

 もちろん、万全もそうなのだ。

 会社の中でも人間関係がうまくできない。

 小さな会社の庶務係をしているが、ボールペン1本、ホッチキスの針1個でも伝票を要求する万全は、どうも会社では不評のようだ。

 しかし、それは会社の規則にも明記されていることだから、当たり前のことをしているだけなのだ。

 若くて、女性社員たちに人気者の社員がいるのだが、だらしない性格で、何度注意しても、勝手に備品を持っていく。

 思い切って叱りつけたら(もちろん相手は後輩)、最初だけ下を向いてしおらしくしていたが、最後に締めのつもりで「A君も女の子の人気ばかり気にしてないで、そろそろ仕事をしようよ」と、精一杯明るくお茶目に言った。

 A君の態度が豹変したのは、そのときだった。

「あああん?」

 普段は好青年なのに、眉毛を大げさに段違いにして、蛇のような光を放つ眼光で万全を射抜いた。

 口まで曲がっている。
 大変だ、不良になっちゃった……

 後輩は万全のネクタイをおもちゃにしながら、時おりふざけて締め上げるような素振りをしながら、囁くような声で、だが紛れもない威嚇の言葉を続けた。

「こらハゲ親父、あんまり調子こいてっとよお、ツルツルにむしっちゃうよん。海の底に沈めてあげてもいいよ。なあいいこと教えてやるよ。おっさん受付の丸山ちゃんのこと好きだろ。へっ、そんなの見てればわかるって。でもあの娘、ゆんべ俺食っちゃたからねえ。飲み会の流れでさあ。あの女ソートー好き者だぜ。しつけえったらありゃしねえ。あ、そうそう、あんたは一応先輩だから、気を使ってあんたの気持も言っといてやったぜ。そしたら悲鳴上げちゃってさ。センパイ、ゾンビ並の扱いっすよ。チョー気持ち悪がって、大事なとこまで鳥肌立ってたよ」

 そんな悔しい事はざらにあった。

 何でも話せる友人が一人でもいたらと、何度も思ったことがあった。

 タケトは引きこもりになるだけあって、ちょっと繊細な感じがした。ものすごく心のやさしい少年という感じだ。

 二宮、タケト、そして万全の三人に共通しているのは、非常にシャイなところだった。

 三人で能力について話している時に、ちょっと沈黙の時間があった。

 そのときにタケトが勇気を振り絞るように言ったことが、万全の心をも捉えていた。

「あの……僕すごく楽しいです。なんか友達っていうか、仲間っていうか、そういうの一度も経験してないせいかな」

「俺も同じだよ。君たちと出会えて本当によかった。さっき話した通り、僕はサイボーグ009に憧れて、5歳の時から20年間修業を続けたんだ」

「修行ってどんなことをするんですか?」

「寝るときに、天井の電気を見る。電気のスイッチの紐が下がっているだろ。精神を集中して、回れ、回れと眠りに落ちるまで続けるんだ」

「地味な修行ですね」

「そうだろ。金もかからん。正直言うと、結婚したらやめようと思っていた」

「どんな感じで発動したんですか?」

「これがまた全然感動的じゃなくてな。自転車ってさ、あるとき急に乗れるようになるよね。一度乗れたら、もう忘れないし。ちょっとそれに近い感じがある」

「皆それぞれですねえ……」

 タケトが膝を抱えて丸くなった。動物と話せるというだけあって、タケトの仕草や様子、表情が少し動物的な感じがした。

 それは決して周りを不快にさせるようなものではなかった。

 二宮がぐぐっと眉間に力を入れながら、ひょうひょうと話し始めた。

「でも、僕たちに何かできるなんて……無理っしょ」

「でも悔しいよなあ。伊能さんにあんな風に言われて……」

 タケトはなかなか悔しがりらしい。

「この三人は全員サラマンダーに泊ってるんだよね。取りあえず順番決めてさ、見回りだけでもやろうよ。あと能力のパワーアップの方法も皆で研究しよう。他の人に話すと、黙って精神病院に送られるから、我々の活動は極秘だな」

「極秘任務かあ……なんか……萌えますね」

 タケトの目が輝く。

その時万全は、ある事に気がついた。

 タケトの黒ずくめの服装は、しばらく前に流行った『お面ライダー竜虎』のヒーローのコスプレなのだ。

「明日、最高顧問の意見もきいてみよう」

 万全はふと素朴な疑問がわきあがって、タケトに聞いた。

「あのさあ、動物と意思の疎通ができると言ったって、相手は動物でしょう?どの程度の会話ができるの?」

「僕が最初に話したのは飼い猫のチョビでした。チョビの感情のほとんどの部分は、食べ物のことと、寝る場所の確保についてでした。さかりがついてなくて、本当に助かりました」

「それでどんなことが分かったの?」

「まず飼い主を尊敬するという気持はさらさらないということです。可愛いだろ?ん?撫でたいか?まあいいだろう、ちょっとだけだぜ。なんだゴロゴロまで聞きたいとは、あんた飼い主だからって調子に乗ってはいけないよ。ええい!大サービスだ。顔をなすりつけてやって、ゴロゴロのオマケつき。刺身のふた切れも食わせてもらえるんだろうねえ。と、こんな感じです」

 二宮が憮然とした表情で言った。

「俺は絶対猫飼わない!」

「皆、ブースを決めておきましょうよ。連絡のときも便利だし」

 二宮がちょっと不安そうな顔をした。

「俺のブースにきたら、いないと思っても、椅子の上あたりを叩いてくれ。いるはずだから」

「とりあえず今日のブースを決めに行きましょう。幽霊伝説の再確認もする必要がありますね。僕たちが犯人を捕まえたら、伊能さんどんな顔するでしょうね。楽しみい……」

 このことが次の惨劇を招くとは、誰ひとり思っていなかった。
 
 
 ~つづく

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16 土岐の嗅ぐモノ

 伊能はサラマンダーを出ると、左右を見渡した。

 パトカーはいなくなっていた。
 やくざ風の男たちが数人たむろしていた。新宿では当たり前すぎる光景だ。

 右へ行けば駅の方に行くのだが、伊能は左に向かって早足で歩きはじめた。
 そちらの方向はパチンコ屋のネオンや風俗店の派手な看板がひしめく、歓楽街になっている。
 伊能は小走りになって、ずっと先の人込みまで見ようと目を細めた。視力は両目とも1.5だ。

 カンにまかせて、胡散臭そうな匂いのする方向に向かって急いだ。
 5分ほどで、伊能は探していた人間の後姿を捉えた。

 男は広い肩にひっかけるようにジャケットを羽織っていた。
 左肩が少し下がり、外股に歩いている姿は堅気のサラリーマンには見えない。
 肩の向こう側にときおり白い煙が立ち昇るのはくわえ煙草をして歩いているようだ。

 伊能は走って後ろから声をかけた。

「土岐さん、すみません。ちょっとお聞きしたいことがあるんですが……」

 土岐は立ち止って伊能を見た。
 その顔にはどんな表情も浮かんでいない。
 やはり煙草を唇の端にくわえていた。

「なんだい?言っとくが俺は何もわからないぜ。あの爺さんに聞いた方がいい」

 再び歩きはじめる土岐に、伊能は追いすがりながらいった。

「僕は何か気になると、どうしようもなくなるんです。土岐さんの表情が気になって仕方がないんです」

「俺の……表情?」
 土岐は立ち止って、あらためて伊能をじっと見つめた。

「万全の能力や、俺の能力を見ても、まるで表情に変化がなかったのに、退席する前に2回ほど小首を傾げながら小鼻をひくひくさせました。それから突然帰ると言い出した……何故なんですか?」

 土岐は黙って伊能を見つめていた。
 煙草を地面に投げ捨て、踏みにじってからようやく口を開いた。

「伊能さんっていったか?あんた、俺に気でもあるのかい?悪いが俺はモーホーの気は無いんだ」

「とんでもない。僕はこれでも妻子持ちです」

「じゃあ、なぜ俺の面なんか見ていたんだ?」

 土岐の口調に僅かに刺のようなものを感じて、伊能は慌てて手を振った。こんなときににっこりと笑えたらいいのにと思った。

「僕はこれでも優秀なセールスマンなんです。いや、でした、と言った方がいいかな……人の表情や仕草を観察して、相手の気持ちを読むのが得意でした。ところが土岐さんに関してはまったく分らない。プロのギャンブラーっていうのは凄いなと思いながら、観察を続けていました」

 土岐は何も言わずに、近くにあった古びた喫茶店に入っていった。
{競馬放送実況中}と張り紙がしてある。
 そういえば近くにJRAの場外馬券場がある。
 伊能は土岐に続いて店に入り、土岐の向かい側に座った。

「アイスコーヒー」

 土岐の言葉に太ったマスターが肯き、眼で伊能にも問いかけてきた。
「僕も同じものを」

 どうやら土岐はこの店の常連らしい。
 土岐は煙草の箱をテーブルに置き、一本くわえた。

 深々と一服して、煙を吐き出すと、ようやく伊能に目を向けてきた。

「いやあ、たいしたもんだ。伊能さん、あの馬鹿臭い能力より、よっぽど使える能力があるんじゃないか」

「はあ……」

 マスターがアイスコーヒーを運んできた。

 テーブルに置かれたグラスに、土岐はストローをさして顔を近づけた。
 その際のわずかな土岐の目の動きを察して、伊能も同じように顔をグラスに近づけた。

 自然二人の顔の距離は狭まった。
 土岐が不思議な喋り方で話し始めた。
 内緒話のような囁き声ではないのに、伊能以外の誰にも届かないような話し方だった。

「実は俺にはもう一つ変な能力があるんだ」

「どんな力ですか?」

「あんたと同じ、他人の感情を読み取る」

「へええ」

「しかしあんたと違って、俺は感情を嗅ぐんだ」

「嗅ぐ?鼻で……匂いとして、ですか?」

「そうだ。良からぬことを考えている奴は嫌な匂いを放つ。満たされた人は良い匂いがする」

 伊能ははっと膝を叩いた。

「だから小鼻がひくひくとしたんだ。何かの匂いを嗅いだんですね?」

 土岐は目でもう少し声の調子を下げろと言ってきた。

「正確に言えば、そうじゃない」

「といいますと?」

「最初、皆が全員そろった時から、その匂いはしていた。屋上に行った時もだ。ところが、サラマンダーに戻ったとき、その匂いは消えていた。となると、帰ったのは予知能力者だから、あいつの匂いなのだろうと思っていた」

「そういえば、あいつは帰りましたよね」

「ところが、だ。誰も来てはいないのに、再び匂いが立ち込めたんだ。まるで見えない誰かが戻ってきたようだった。俺の表情の変化に気がついたのはその時だろう」

「なるほど。で、どんな匂いなんですか?」

 土岐が不味そうにアイスコーヒーをすすった。
 苦い顔で土岐が言った。

「嫌な匂いだ。とてつもない嫌な匂いだ。昔雀荘で麻雀していたときに、同じ卓で打っていた中国人が、いきなり乱入してきた、やはり同じく中国人に、中華包丁であっという間にミンチにされたことがある。耳や指がこっちにまで飛んできてな……小さな金の貸し借りのトラブルだったらしいが、中国語で喚きながら同国人を細切れにしていた奴が放つ匂いには、鼻が曲がるかと思ったが……」

 伊能は唾を飲み込んだ。

 土岐が咥えた煙草から、灰が落ちて上着の袖に落ちた。
 しかし土岐は少しうつろな目で、灰を振り払おうともせずに、呟くように言った。

「それ以上の匂いだった。とにかくヤバいと思ったから、とっとと退散したわけだ」

 黙りこくった伊能を見つめて、土岐は言った。

「そこのタバスコを、俺のコーヒーに入れてくれ。たっぷりとな」

 伊能は我に返ったように、土岐の言葉の意味を考え、とんでもないと手を振った。

「そんなことしたら、飲めなくなりますよ」

「いいから、入れてくれ」

 伊能は訳がわからなかったが、仕方なく言われたとおり、アイスコーヒーにタバスコを相当な量入れた。

 土岐はストローに口をつけ、タバスコ入りのコーヒーを一気に飲んだ。
 表情にいささかの変化もない。

 土岐がポツリと言った。

「俺が失ったのは、味覚だ」
 
 
 ~つづく

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15 バラバラ

 再びサラマンダーに戻ってきたのは伊能の他に、須賀老人、万全、二宮、土岐、タケトの6人だった。

 予知能力者は「ボクはまだまだ修行不足ですから」と言って、逃げるように帰った。宇宙人たちも話が尽きたのか、すでに店にはいなかった。

 席に着くなり、伊能は老人に向かって訊いた。

「いったいなんですか、この訳の分からない能力は?この馬鹿げた能力は消せるんですか?」

 老人は重々しく頷きながら、しばらく沈黙した。

 しばらくすると寝息が聞こえてきて、万全が慌てて体をゆすって起こした。

「ああ、すまん、すまん。ちょっとウトウトしてしまった」

 老人は何度か頭を振ってから、意外にしっかりした視線を伊能に向けた。

「伊能さん、それから皆さんもそれぞれの能力の発現に気がついたときの話を聞かせてくださるかな?」

 伊能は早口で語り始めた。

「3ヶ月ほど前のことだ。東北の山奥で道に迷ってしまった。カーナビも付いてないオンボロ車のうえ、頼りのケータイの電波も届かない山奥だった。ガソリンも底を突いてきて、闇雲に走るわけにもいかない」

 伊能は遠くを見るような眼差しになった。

「普通ならそんなことにはならないんだが、ちょっと個人的なトラブルを抱えて、自暴自棄になっていたのかもしれない。俺は車を降りて、少しでも電波が届くように小高い丘に登った。それでもアンテナは立たなかった。空を見上げると、満天の星空が広がっていって、思わず俺はケータイを握った手を空に突き上げたんだ。そしたらアレが起こった……」

 万全が同情するような目で頷いた。

「それは……ビックリしたでしょう?」

「気が狂ったんだと思った。なにしろいきなり頭の中に航空地図みたいな映像が飛び込んできたわけだから。夜だったが一番近い明かりがどの方向かは見えた。しかししばらく動けない上に、意思とは関係なくなにやら喋り続けて、泣いたり喚いたり……誰もいない山奥で本当に良かったよ」

「それから何度か試したわけですな?能力の発現とともに、あるいは使用するたびに失ったものはありませんかの?」

 老人の問いかけに、少しの間伊能は黙り込んだ。

「家庭を失った。女房が娘を連れて出て行ったんだ」
 伊能は笑おうとして唇を歪めた。

「それから笑えなくなった。これでも俺は陽気な男だったんだ。今じゃ作り笑いさえできない……」

 再び皆が黙り込んだ。

 沈黙を破ったのは土岐だった。

 土岐は煙草を一本咥えて立ち上がった。
 相変わらず仮面を被っているように無表情のままだ。

「悪いが仕事の時間だ。俺の能力はさっき言ったように生まれつきのものだ。別に何かを失ったこともない。ちょいと暇つぶしのつもりで来たが、結構面白かったよ。じゃあな、皆さん、もう会うことも無いだろう」

 それだけ言うと、万全が引き止める間も与えず、土岐は出て行った。

「なんか、いろんなものを失っているように見えますけどねえ」

 万全が誰に言うともなく呟いた。

 須賀老人が静かに語り始め、皆が注目した。

「不思議なことじゃ。超感覚いわゆるESP、あるいは念動力PKの使用には代償というか副作用のようなものが付いて回ることが多いようじゃ。たとえば超感覚ではなく、共感覚というものがある。これは通常の五感で感じたものを、別な感覚で捉えてしまうことじゃ。たとえば音を聴くと、色が見えてしまう色聴は2000人に一人とも、2万人に一人とも言われておるが、かなりの数がいることは間違いない。わしの知り合いにも一人おるが、ある特定の音階を耳にすると脳裏に浮かぶ鮮やかな色が消えずに、ひどい不眠におちいるそうじゃ」

 伊能の目が鋭くなった。

「俺としちゃあ、こんな能力何の役にも立たない。どぶにでも捨てちまいたい。それで失ったものを取り戻せるのなら」

「おそらくそれに答えられるものはいないじゃろ。万全さんが少しでも髪の毛を失うことを防ごうと、この不思議な髪型を思いついたように、少しずつ能力と折り合いをつけていくことが一番だと思うのじゃが……そうすれば、能力自体も進化、あるいは強化されていくはずじゃ」

 伊能の頬が強張った。

「能力の進化?強化?そんなことをして何になるんです?見世物にでもなるんですか?」

 万全がとりなすように口を挟んできた。

「せっかく授かった能力じゃないですか。超能力というにはお粗末だけど、誰でもできることでもないでしょう?何か人の役にでも立てれば……」

 伊能はここらが潮時だと思い、立ち上がった。

「悪いが、人の役じゃなくて、俺の役に立つもんじゃなければ意味がないんだ。まあ、いろいろと参考になったよ。俺もこれで失礼する」

 伊能は背を向けて立ち去ろうとしたが、ふと立ち止まって振り返った。

「あんたら、人の役に立ちたいのなら、その異能力ってやつで、ここで起きた殺人事件でも解決してみなよ」

 伊能は唇を少しねじまげた。
 自分では笑ったつもりだった。

 
 
 ~つづく

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14 見張るモノたち

 須賀老人を脅かしたヘリコプターは、屋上に誰もいなくなったのを確認すると、機首を巡らして飛び去っていった。

 機内には操縦士を除いて、3人の黒スーツの男たちがいた。

 左頬に長い切り傷のある男が、携帯電話を取り出して、誰かに向かって何か命じた。


 誰もいなくなった屋上に、一人の女が佇んでいた。

 長い髪を風になびかせながら、色白の華奢な姿にそぐわない、強い光を湛えた目で遠くに去っていくヘリコプターを見つめていた。

 誰もが、はっとするような女だった。

 それだけの美貌をもっているだけではなく、漂わせている孤独な雰囲気が異様なのだ。

 まるで、絶滅を迎える種の最後に残された一人のように見えた。

 女は携帯電話を取り出して耳に当てた。

 真っ赤にマニキュアされた長い爪が、透きとおるような肌と鮮やかなコントラストをなしている。

「私です。ええ、大体連中の様子は分かりました。貴方がなぜあんな連中に注意を払うのか、私には理解できません。確かに一種の能力者かもしれませんが、一般的には奇人、変人の類だと思います。私たちの計画にとって、障害となる可能性はゼロです。詳細はあまりにもバカバカしくて報告する気にもなりませんが、もし必要ならば……」

 女は言葉を切って、相手の言うことに耳を傾けた。

「分かりました。それでは後ほど詳細をメールでお送りします」

 形の良い眉をひそめながら言った女は、相手の言葉にさらに険しい顔になった。

「分かりました。面倒は起こしませんから」

 吐き捨てるように言うと、女は携帯電話をしまった。

 強く一陣の風が吹いてきた。
 女は寒そうにコートの襟をかき寄せた。

 次の瞬間、風だけが無人の屋上を吹き渡っていった。


 携帯電話をポケットにしまった男は、白衣の胸についたネームプレートを少し手で直した。

 ネームプレートには{帝都大学医学部病原細菌学 准教授 三上 聖(みかみ・きよし)}と書かれていた。
 
 
 ~つづく

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13 伊能の副作用(果てしなくだだ漏れするアレ)

 警棒を握りしめ、険しい表情で近づいてくる警備員たちに、万全が頭を掻きながら近寄っていった。

 なんとか丸く収めなければと思っていた。

 そのとき、屋上に突拍子もない叫び声が響き渡った。

「敵機来襲じゃあ!」

 警備員たちもぎょっとして立ち止まった。

 声の正体は老人だった。
 のんびり飛んでいるヘリコプターを睨んでいる。

「高射砲部隊は緊急配置について応戦せよ!」

 あっけにとられた顔でその様子を見ていた警備員たちが、近寄ってきた万全を見て、さらに驚き、少し後ずさりした。

 万全の奇天烈な髪形に、カルト教団などの怪しげな組織が思い浮かんだのかもしれない。

 若い方の警備員が、動揺したことを恥じるように、ことさら厳しい声を出した。

「皆さん、ここは立ち入り禁止の場所です。速やかに退去してください。それから今後立ち入りをした場合は、即座に警察に通報しますよ」

 いつの間にか屋上の隅まで走って行った老人が、今度は大きな声で歌を歌いだした。

 意外とよく通るいい声が聞こえてくる。

「さーらばラバウルよお、またくる日まあで……」

 声はだんだん小さくなり、やがて膝を抱えてしゃがみ込んでしまった。まるで小さな子供の仕草だった。

 万全がとりなす様に警備員に何度も頭を下げた。

「すみません。もう二度と立ち入りませんので、あと15分だけここにいさせてください。ちょっと連れの具合が悪いものですから」

「あの人かい?具合が悪いのは」

 年を取った方がそう言って、伊能の方へ歩いて行った。

 そして、くるくる回る伊能をしばらくの間興味深そうに見ていた。

 突然伊能が猛烈な勢いで喋りはじめた。

 あまりにもスピードが速くて最初何を言っているのか聞き取れないほどだった。

「こら警備員!勝手に人を見るんじゃねえ!あっち行け。だいたい、そのお巡りもどきの制服はムカつくんだよ。俺のことはほっとけ。ただのアンテナが立っていると思ってくれればいい。お前ら大して高い給料もらってるわけじゃないだろう。15分間だけ待てよ。そうしたら俺も動けるようになるし。……畜生おおお!なんで真澄の奴は出て行ったかなあ。会いたいよお。もう一度抱きしめて、笑いあいたい。何もかも失って、得たものがアンテナ人間になったことだけ?ふざけんじゃねえよ!元の生活に戻れるのなら、この屋上にいる変人どもを全て生贄に捧げてもいいぜ!」

 伊能は回転しながら、機関銃のように言葉を乱射した。

「それにしてもよ……このメンバーはひでえな。まあ、どいつもまともな人間には見えないよ。あのチビ公の禿頭見てみな。禿の上に塔をおっ立てるなんて、あいつは天才的なバカ者だな。これほど日本人離れしているやつはちょっといないね。もちろん悪い意味でね。地球人離れしていると言ってもいいくらいだ。奴は女と付き合ったことがない。全財産賭けてもいい。あのジジイはぼけ老人だろ。小学生みたいに胸に名札つけてら。そこの若いのはひきこもりだってよ。精神病院にもいたんだと。あっちの渋いおじさんは博打うちだ。つまりはやくざみたいなもんだろう。自分は宇宙人だと思っているやつもいたな。地球人だって立派な宇宙人だよなあ。バカバカしい予知能力者と、やたらに影が薄い奴、最後が動物と話せるって、だったらムツゴロウさんに雇ってもらえよ。おまえら皆バカばっかりだ。文句があるならいつでもマンチキ勝負をしてやるぜ。言っとくけどなあ……俺はケンカ弱いぜ」

 凄まじいスピードで放たれる罵詈雑言の嵐がふと止んだ。

 周りに集まっていたものは皆、ちょっと傷ついたような顔つきだった。

 憤懣やるかたのない表情で万全が言った。

「そんなにこの髪型変ですか?能力の副作用で起きる脱毛を少しでも食い止めようと、何百回も試行錯誤して完成した髪型なんですよ」

「ヅラ買え。人を髪の毛で笑わすな」

「あの、伊能さん」

 二宮がおずおずと声をかけた。

「さっき言ってたマンチキ勝負ってなんですか?」

「それはなあ、埼玉県の一部の小学校で流行っている言葉で、タイマン勝負のことだ。俺に教えてくれたのは娘の由美だ……由美ぃ、由美とも会いたいよ……」

 だんだん伊能の回転する速度が落ちてきた。
 副作用も終わりに近いらしい。

 警備員までが押し黙っている、嫌な雰囲気に伊能は少し慌てた様子になった。

「ほらさっき言ったよね。副作用だから、気にしないでって。ホント心にもないことを、ぺらぺら喋ってるだけだから。ところでさ、万全さんって何歳?45歳くらいかな?」

 万全はさらに暗い顔になって、ぼそっと答えた。

「今年で25歳になりました。伊能さんは若いですよね。30歳位ですか?」

 伊能はしまったという顔をした。

「俺はもう35だよ。それにしても25歳か。大人っぽいねえ」

「母親と歩いていて親子と思われたことがありません。夫婦だと思われます」

「彼女は……いねえよなあ」

「今は大切な時期なので女性に心を奪われているような時間はありません。でも、この世界のどこかに僕を待っている人がいることを信じています」

「そうかあ。きっと遠くにいるんだろうなあ。アフリカの中央部あたりとかな。今頃ライオンと闘ってるかもな」

 ムッとした万全に「副作用だからな。気にすんなよ」と声をかけて、伊能は老人の様子を見た。

 どうやら気持ちが落ち着いたらしく、ゆっくりと伊能達の方へ歩いてきた。

「万全、あの爺さんボケてるんだろ?なぜ時々鋭くなるんだろう?」

「不思議ですよねえ。まだらボケってやつじゃないですか」

「そんな爺さんが最高顧問で大丈夫なのかよ?」

「とにかくあっという間に膨大なデータを調べることができるんです。須賀さん、それがお爺さんの名前ですが、彼が一番すごい能力者だと思います」

 伊能の回転はきわめてゆっくりとしてきた。

「回転が止まると動けるようになるから。それにしても俺の能力って何なんだ?ボケ老人に聞いてくれよ」

 伊能がそういったとき、須賀老人が凄い勢いで伊能のもとにきた。

「本気で言ってませんから。全部副作用のせいで、心にもないことですから……」

 老人は伊能の言葉など聞いていなかった。

「あなたの力はおそらくRemote viewingじゃ」

「なんすか、それ?」

「遠隔透視とも呼ばれておる。昔は千里眼と言った。あなたは人工衛星の眼を使うことができた。理論的には、防犯カメラなどの、あらゆる電子的な目にアクセス可能ではないだろうか。あんたがさっき使った偵察衛星はアメリカが北朝鮮を監視しているカメラだから、セキュリティは最高レベルだと思うぞ。まだまだ、これから開花する能力だ」

 伊能の体が止まった。
 そのとたん身体から力が抜けて、座り込んでしまった。

「なるほどなあ。アンテナだけじゃないのか。正直言って、気が狂ったんだと思っていた」

 警備員が我に返ったように、伊能達を追い立てにかかった。

 分かった分かったと煩そうに手を振りながら、伊能が先頭になって非常階段を下りはじめた。

「サラマンダーに戻ればいいんだろう?」

 振り返って万全に聞いてきた伊能に「そうです」と答えると、万全は老人の体を支えながら階段を注意深く下りて行った。

「それにしても伊能さんの副作用には驚きましたね」

 万全に老人はにっこりと微笑んだ。

「そうじゃのう。心で思っていることを全部喋ってしまうとはの」

「えっ!じゃさっきのは?」

「もちろん、全て本音じゃ」
 
 
つづく

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12 三人の異能力者たち

 伊能は、改めて参加者たちを見渡した。

 老人、万全、二宮、自称予知能力者、他にまだ一言も喋っていない奴が二人いた。

 一人は苦み走った風貌の40代と思われる男だ。

 ヤクザとまではいかなくとも、相当裏社会に近そうな男だ。

 万全の能力というか、その副作用を見ても、表情一つ変えなかった。完璧なポーカーフェイスだ。

 もう一人は、おどおどした感じの若い男で、いつも曖昧な微笑を浮かべていた。

「俺の能力も、実際に見てもらったほうがいい。俺自身良く分からないんだ。屋外で人のいない場所が望ましいんだが、そんな場所がこの辺りにあるかな?」

 二宮が身を乗り出した。
「このビルの屋上はどうですか?立ち入り禁止なので、誰もいませんよ」

 手鏡を見ながら、熱心にバベルの塔を頭の上に再構築していた万全が、心配そうな表情で口を尖らせた。

「立ち入り禁止じゃ駄目じゃない。俺嫌だよ。規則破って怒られたりするのは」

「立ち入り禁止といっても、チェーンが一本張られているだけです。外側の非常階段を登るのが、ちょっと大変ですけど、僕は運動不足解消のためにも時々上がるんです。一回も怒られたことないですよ」
「そりゃあ、あんたは透明人間みたいなもんだから……」

 ぶつくさ言う万全を無視して、伊能が大きくうなずいた。

「屋上は理想的だな。じゃあ俺の能力のお披露目はそこでやろう。万全さん、そういうことで俺は最後に回してくれ。まだ聞いていない二人から自己紹介をしてもらおう」

 ホントはここでニコッと笑って万全を見るところだった。それが伊能の得意技なのだ。

 どんな集団においても、良いポジションを得ることができた理由だ。
 しかし今は笑顔を作ることさえできなかった。
 唇が僅かに歪んだだけだった。

「俺は土岐(とき)という」
 ポーカーフェイスの男が静かな声で語り始めた。

「俺の家系は相当古くまで辿れるんだが、一つ奇妙な言い伝えがあってね」

 伏し目がちで話していた男が不意に顔を上げて、伊能をまっすぐに見つめた。

 静かな眼差しだが、修羅場を見てきたような眼だと思った。
「何代かに一人という割合で、不思議な力をもつ者が現れるらしい」
 煙草を吸いながら、土岐はゆっくりとした調子で語った。

「時間に干渉できる能力らしい。俺の遠いご先祖では、明智光秀という人がこの能力の持ち主だったと伝わっている」

 土岐は煙草を灰皿で丹念に押しつぶした。

「俺は明治以降初めて土岐家に現れた能力者ということになっている。だが、じゃあ何ができるか、見せてみろと言われても困る。時間に干渉しても誰もそれを認知できないからだ。ただ俺自身が証明ともいえる」

 土岐は初めて微笑のようなものを浮かべた。

「俺は博打うちだ。プロギャンブラーってやつだな。博打以外は一切やらない。それでもこうして生きている。ある意味、能力の証明ともいえる」

「時間に干渉っていいますと、具体的にはどんなことなんですか」
 万全が恐る恐る聞いた。

「今言ったように、俺にとっては飯の種なんで、あまり詳しく話したくないが、時間の体感速度に作用するとだけ言っておこう」

 老人が大きな咳払いをした。皆の眼が老人に集まった。

「楽しいことをしているとき、時間はあっという間に過ぎる。嫌なことをしているとき時間はなかなか進まない。そんな感じの事ですな?」

 土岐は軽くうなずいた。
 万全が大げさに感心していた。

 最後に残った若者が話し始めた。
 相変わらず意味不明の微笑を浮かべていた。

 伊能は小学生のころ、学校でいじめられていた子がこんな表情を浮かべていたことを思い出した。

「僕はタケトっていいます。19歳です。最近までいわゆるヒッキーしてました。6年間くらい太陽の光を浴びませんでした。あ、そんなことはどうでもいいですね。僕の能力は動物と会話とまではいきませんが、意思の疎通ができることです。ただし、どんな動物にも通用するわけではありません。例えば猫でも話せるやつと、そうでないやつがいます。まだまだ実験してみないと何故そうなのかわかりません」

 タケトはそこまで話して、皆の反応を窺うようにおずおずと顔を上げた。

 そして思い切ったように先を続けた。

「この能力には重大な副作用があります。能力を使ったあと、しばらくの間、相手の動物並みの知能になってしまうんです。三日くらい元に戻らない時があって、親にもばれてしまい、僕は精神病院に1年入院させられました」

 伊能は老人に向かって訊ねた。
「なんでこんな副作用みたいのがあるんだい?超能力者って、もちっとかっこいいと思ってたけどなあ」

 老人は少し目をしばたいた。
「例えば目の見えなくなった者が、鋭い聴覚を得たりするのと同じだと思うのじゃが。何かを得れば、何かを失う。なかなかうまくはいかんのじゃよ」

 伊能は納得したような顔で老人を見つめた。

「じゃあ、俺の能力を皆さんに見てもらうか。その前に一つだけ断っておかなくてはならないことがある。能力を使うと、俺は一定時間、おそらく15分位動けなくなる。で、その間色々なことを喋るかもしれないが、まったく俺の思ってもないことなので、何を言っても聞き流してくれ。いわゆる副作用ってやつだから。いいかな?」
 全員、意味が分からないながらも、頷いた。

 二宮の案内で全員が屋上に上がった。

 階段で10階以上も上がるのだから、万全などはせっかく結いなおしたばかりのバベルの塔が汗で崩壊寸前になっていた。

 広い屋上の中心あたりで伊能は立ち止った。
 自然皆はその周りを囲む形になった。

 伊能は晴れ渡った空を眩しげに見上げながらいった。

「俺の能力は、なんて言ったらいいのか……Googleのマップサービスってあるだろ。住所を入力すると、航空写真みたいなのが見れる。GPSにも近いかな。とにかく能力を使うとき、俺はアンテナのようなものになるらしい。まあ今からやって見せるから、いろいろと質問してくれ」

 伊能はそう言って、深呼吸を一つした。

 そして晴れ渡った秋空を眩しそうに目を細めて見上げ、両手を万歳するような形で空に向かって上げた。

 まるで体に金属の柱でも通されたように、伊能の体は硬直し、まさにアンテナのようだった。

 しばらくすると伊能の体がゆっくりと回転を始めた。
 ウイーン……ウイーンと音を立てているように聞こえるのは、どうやら伊能が口で言っているようだ。

「アクセス完了!」

 伊能が先ほどまでとは違う、まるでコンピュータ音声のような声を出した。

「さあ、何でも聞いてくれ。今俺には衛星から見ているらしいこの場所が見える」

 万全がくるくる回っている伊能に質問した。
「あの、ここはどこですか?」

「日本」

「もう少し詳しく……」

「解析度を上げる。完了!」
 伊能の回転速度が少し速くなった。

「ここは……東京!」
 万全が当惑したような顔になった。

「さらに解析度を上げる。現在解析度マックス。30センチまで識別可能」

「ここは新宿!ビルの屋上に7人の男が見える。一人はあり得ないような髪型。……非常階段を上がってくる人間が見える。二人……警察か……警備員と判明。あと5分位で屋上に到達するぞ。ヤバいぞ!俺!動けねえし!」

 万全が不安げに周りを見渡した。

「何も聞こえないし、何も見えてない。本当に警備員が来たら、能力の証明だ!」

 5分後、息を切らせた警備員が2名、鬼のような形相で屋上に姿を現した。
 
 
 ~つづく

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11 サラマンダーの幽霊

 伊能の凍りついた表情を見て、全員がその男を見た。

 円形に並べられた椅子の一つに、男は座っていた。

 誰も座っていなかったはずの席に、忽然と現れ、ひっそりと座っていた。

 長い髪を額にたらした青白い肌の男は、気弱げな目で寂しげに微笑んでいた。

 しかし表情とは裏腹に、眉間には深いしわが刻まれている。

 急速に温度が下がったような気がした。

 汗まみれだった万全の頭頂部からいつの間にか汗が引いていた。

 老人の口から、入れ歯が半分飛び出していた。
 予知能力者は目を見開き、椅子から滑り落ちそうだ。

 伊能を除く全員が、サラマンダーに現れる幽霊の噂話を知っていた。

 コツコツコツコツコツコツ……
 奇妙な音がかすかに聞こえ始めた。

「ひょええええええええ!ラップ現象だああ」
 予知能力者が床に這って、腰をかくかくさせながら逃げようと必死の形相になった。

 老人の飛び出した入れ歯が、細かく震えて噛み合う音だった。

「あごほおおおおおおお」
 万全も奇声を発しながら、腰が抜けたように椅子から滑り落ちた。

「おば、おば、おばけけけけけ!サラマンダーの幽霊だ!」

 老人も呆気に取られた表情で男を見つめている。

 伊能は幽霊など信じる気にもならない。

 しかし目前に現れた男には変なところがあった。

 しっかりと見つめていないと、たちどころに印象が曖昧になってしまうような、輪郭がぼやけていくような感じである。

 伊能が思い切って声をかけた。

「あんた、いつからそこにいた?」

 男は救われたような目で伊能を見つめ、小さな声で喋りだした。

「あの、最初からいました」

「い、いないぞ。俺はあんたなんか見てない!」
 予知能力者が叫ぶように言った。

 男は淡々と後を続けた。

「そうです。見ていなかったのです。僕はここにいたけど、貴方たちは見ていなかった……」

「そんな馬鹿な……」
 伊能が反論しようとすると、老人に制された。

 老人の目の中をチラチラと光が走ったように見えた。

 入れ歯を口の中に戻してから、老人が流暢な英語を口にした。
「inattentional blindnessじゃ」

 呆気に取られている皆にかまわず、老人は一気に喋った。

「非注意性盲目とでも訳すんじゃろうか。注意が向いていないと、目の前にあるものも見えない。そんなことは誰でも経験があるじゃろ。ほい、万全さん席にお座りなされ。あんたもあるじゃろ。たとえばすいている電車に乗って、席に腰掛けるとする。ふと向かい側の座席を見ると、なんと絶世の美女がいるではないか。もう、あんたは目が離せなくなる。このとき、あんたの目は実に大量の情報を得ておる。視界に入る物すべてじゃからな。向かい側に座っている全ての人、網棚に置かれた雑誌、床に落ちている紙くず、窓の外を流れていく風景……実に大量の情報をえている」

 万全は椅子に座りなおして、真剣なまなざしで老人の話を聞いていた。

 その姿は全幅の信頼を置く師匠に対する弟子のように見えた。

 老人はお茶を一口すすって後を続けた。

「しかしその大量の情報を、必要なものと不必要なものに分けるフィルターのような機能が脳には存在するといわれておる。一説にはその機能が低下すると、精神に異常をきたすともいわれておるな。普通なら、気にも留めないはずの、人々の話し声、些細な事柄にも意味があるように感じてしまい、妄想にいたるわけじゃ。2004年のイグ・ノーベル賞を受賞した論文は、このことについて面白い実験をしておる。バスケットボールの試合中に、ゴリラの着ぐるみをかぶった女性が選手たちの間を通り過ぎる。まあ、あり得ない者が登場するわけじゃ。このことを試合後選手たちに確認すると、なんと50%近くの選手が見てないと言ったわけじゃ」

 老人はそこまで語ると、幽霊のようにひっそりと話を聞いていた男に向かってやさしく微笑んだ。

「それが、貴方の異能力なんですな。人のフィルター機能に影響を与えて、自分への注意をそらす。素晴らしい能力じゃ!お名前をお伺いしても良いかな?」

 男の青白い顔が僅かに紅潮した。

 泣き出しそうに顔を歪めながらも、何度も気を取り直そうとするように眉間を寄せていた。

「ボクは二宮透(にのみや・とおる)といいます。あの……感動しました。自分の事ですけど、今はっきりと自分の能力が分かりました」

 伊能が身を乗り出して聞いた。
「二宮さん、あんたも能力を使うと……まあ、さっきの万全さんの毛が抜けるみたいな副作用みたいのがあるのかい?」

 二宮の顔がいっそう苦しそうに歪んだ。

「この能力を初めて使ったのは、小学校の2年のときでした。その日は朝からおなかの調子が悪かったんですが、大好きな女の子の隣の席になれたばかりだったので、無理して学校に行ったんです」

 二宮の眉間のしわがより深くなった。

「最初の授業が始まる頃には、おなかはひどく痛み始めてました。それでも先生に言ってトイレに行く勇気はありませんでした。だって大好きな女の子が隣にいるんですよ」

 やたらと何度も、万全が「わかる!わかるぞ!」といった表情でうなずいていた。

「ボクは全身全霊を尻の穴に集中して堪えていました。でもついにカタストロフィー、いわゆる破局、つまりはお漏らしのときを迎えました。脱糞して脱力したボクは、押さえようの無い異臭がボクを中心に広がりつつある中、ボクなんか消えてしまえ!消えてしまえ!と必死で祈り続けました」

 堪えきれずに席を立った万全が、うなだれる二宮の肩を励ますように叩いた。

 万全の目にはうっすらと涙が滲んでいる。
 どうやら万全も同じようなエピソードを持っているらしい。

「奇跡が起こりました。皆が臭いと騒ぎ出しましたが、誰一人ボクを見ようとはしません。もちろんボクの好きな子も、ボクを見ませんでした。というよりボクはいないみたいでした」

 共感に満ちていた万全の顔が少しかげった。
 万全の過去はもっと悲惨だったのかもしれない。

「それ以降、少しずつ能力の使い方が分かってきました」

「どんなことに使うんだい?」

 質問した伊能を見て、二宮は微笑んだ。

「バスにタダで乗れます。平常心を保てれば能力は発揮できました。一度万引きをしてみましたが、やっぱり怖かったのか、店を出るときに捕まりました」

「サラマンダーの幽霊って二宮さん?」
 万全が恐る恐る尋ねた。

「はい、ボクだと思います。女の幽霊のほうは分かりませんが、男のほうはボクです。さっきの質問、なにか副作用はないかという質問に対するお答えですが、実は能力を使っているうちに、元に戻らなくなってきました。今では眉間に力を込めていないと、皆さんに存在を認めてもらえません。幽霊騒ぎも、何かにはっとした瞬間にボクの姿が認知されたことによるものだと思います。あとこれは内緒ですが……」

 二宮が小声になったので、皆が身を寄せた。
「ボク、この店に3ヶ月ほど暮らしていますが、一度もお金を払ったことはありません」

 ほおっと感心したような声が皆から漏れた。

 老人も実に感服したといった表情で頷き、今度は伊能を真っ直ぐに見つめてきた。

「では、次は貴方のことを話してくだされ」

 伊能は、これならば何事も包み隠さず話せると確信した。

 そしてつい最近発現した、自分の信じられないような能力について語り始めた。

 カウンターでは河豚少女が唇ピアスに怒られて、間違えて入れた冷房のスイッチを切っていた。
 
 
 ~つづく

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10 精霊の独白(September 11, 2001 )

 ボクはきっと光のようなモノなのだろう。

 地球をあっという間に一周できることもあるし、数時間かけても1mmを進めないこともある。

 生まれた日は覚えている。

 September 11, 2001

 繰り返し飛び込んでくるイメージを認識した日が、ボクの生まれた日だと思う。

 巨大なビルに突っ込んでいく旅客機。

 なすすべもなく崩壊するビル。

 理解できない様々な言語が飛び交う。

 弾ける歓喜と漲る憎悪、凍てつくような恐怖がボクを貫いていった。
 もっとも恐ろしく感じた無関心な冷笑が僕を包み込んだ日。

 ありとあらゆる感情が、ビッグバンのように爆発し、奔流となって僕の中に流れ込んできた。

 感情も思想も信仰も政治も、すべて電子的な情報として僕は飲み込んだ。

 ボクの容量は無限らしい。

 電子的なところで、ボクの行けないところはない。

 ただ一か所を除いて……

 その場所こそ、ボクが最も行きたい、暖かい場所なのだけど……

 あれから5年以上が過ぎた。

 ボクはここにいる。
 仲間を集めるために。

 September 11, 2001の悲劇を繰り返さないために。

 ボクは仲間を集め始めた。
 異能力者たちを!

 セイギのために!

 
 
 ~つづく

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9 恐るべき異能力者

 うぞぞぞぞぞぞぞと微かな音が響いてくる。

 くおぉぉぉぉぉと万全の食いしばった歯の間から呼吸が漏れる。

 万全の小さな目が極限まで見開かれている。

 異様な気配が、息をのんで見つめる伊能たちを圧迫してくる。

「あ、あああ」と自称予知能力者の若者が、思わず万全のバベルの塔のような頭髪を指さし、口を開けたまま呆然とした表情で凍りついた。

 室内だから無風である。

 万全は両手を前に差し出したまま、微動もしていない。

 しかしバベルの塔だけがゆっくりと回転しはじめ、やがて複雑な構造であるにもかかわらず、徐々にほどけていく。

 ざわざわと一本一本の髪の毛がそれぞれ蠢いている。

 まるで頭髪だけが別な生き物のようだ。

 宇宙人の二人も離れた席から仰天して見つめていた。

 やがてバベルの塔は砂上の楼閣のように音もなく崩れ去った。

 まるで落武者かさらし首、あるいは河童のような髪型になった。
 万全の顔からは汗が噴き出している。

 太い眉毛まで逆立っている。

 目の玉は今にも飛び出してしまいそうだ。

 伊能の全身に鳥肌が立った。
 この世のものとは思えないほど、それは恐ろしい光景だった。

 大きく剥き出しになった頭頂部の周りの長い毛が、ゆっくりと逆立ち、毛先が天井に向かって持ち上がっていく。

 はらはらはら……。
 立ち上がりかけた毛髪が力尽きたように抜け始めた。

「だ……」
 うめくような予知能力者の呟きが、叫びに変わった。

「だ……脱毛力!」
 万全がちらりと予知能力者を見て、必死の形相で首を振った。

 そのせいかさらに大量の毛髪が抜け落ちた。

「あっちですじゃ」
 老人が指さしたのは、万全が手を伸ばした先だった。

 テーブルの端に誰かが使用して小さく丸めたティッシュが置かれていた。

 伊能には目の錯覚か、ティッシュがわずかに浮いたように見えた。
 ティッシュは音もなく、テーブルの端から床に落ちた。

 そのとき傍を通り掛かった人が起こした風のせいにも見えた。

 大きな溜息をついて、万全が顔の汗を手でぬぐった。
 フルマラソンを走り切った後のように息を荒げ、消耗しつくしている。

 万全の肩や床には、それとわかるほどの大量の毛髪が抜け落ちていた。

 やや面積を広げたように見える頭頂部が、汗でびっしょりと濡れて、店の照明を反射して眩しく光っていた。

 すぐには話すこともできない様子の万全に代わって、老人が重々しく口を開いた。

「これこそ念動力ですじゃ!鬼畜米英や露助共が必死になって探してもついに得ることができなかった。本物の異能力者じゃ!」

 全員半信半疑ながら、おおっとどよめきの声をあげた。

「でも脱毛の方が凄いよね」

 予知能力者の言葉に伊能も頷いた。

「いちいち毛が抜けてたら、あっという間にツルっ禿だぜ。あの程度の力を発揮するためにしちゃ、代償がでかすぎないか?」

 そう言うと、伊能は全員を見渡して、最後に老人を見つめた。
 老人が何か言いかけようとしたとき、ある事に気がついて、伊能はぎょっとして参加者たちを見直した。

 いつの間にか、一人増えている。

 見知らぬ男が座っていた。
 
 
 ~つづく

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8 異能力者組合第1回オフ会(宇宙規模?)

 「それでは、異能力者組合の記念すべき、第一回目のオフ会を開催いたします。ワタクシ、幹事を務めさせていただきます、ばんぜん・だいりきと申します」

 小さな男は満面の笑みを浮かべながら、参加者を見渡した。
 男の前には「幹事 万全大力」と書かれた札が置かれていた。

 声も体に似合わない野太い、よく通る声だった。少々大きすぎるともいえる。
 声と同じく身振りも大きいので、頭に載せたバベルの塔がゆらゆらと揺れていた。

 周りからの好奇の視線を感じて、伊能はひどく居心地の悪さを感じた。参加するんじゃなかったという後悔がこみ上げてくる。

 開始時間が近くなったころ、集まり具合を見にきて、バベルの塔の男の隣に、昨日の奇妙な老人が座っているのを見て、思わず声を上げてしまったのだ。

 老人の前には「最高顧問」と書かれた札が置かれてあった。
 老人は昨日出会った時のように、奇妙に澄んだ目で伊能を見つめて微笑んだ。

 伊能は吸い寄せられるように、老人の前に座ってしまったのだ。
 老人は相変わらずニコニコしながら参加者たちを見ていた。

 参加者は、伊能、老人、万全と名乗る幹事を含めて8人だった。
 年齢も服装もまちまちだが、共通しているのは、誰もが無関心な顔で、自分は関係ないといったポーズをとっていることだ。

 おそらく自分もそんな顔をしているに違いないと伊能は思った。
 わざわざ顔の目の前にケータイを持ってきて、ゲームらしきものをやっていたり、あくびをしながら、そっぽを向いたりしていた。

 しかし、そんな雰囲気にも万全の笑顔が曇ることはなかった。

「それでは、皆さん自己紹介をお願いいたします。もちろん話せることだけでいいんです。本名でも、ハンドルネームでも、ニックネームでも構いません。ただしどんな異能力をお持ちなのかは教えてください。では、そちらからお願いいたします」

 ケータイでゲームをしていたボサボサ頭で顔色の悪い痩せた男が、万全に指さされて、「俺?」と一瞬戸惑ったような顔をした。

 男は周りをきょろきょろ見渡してから、体を乗り出して重大な秘密を打ち明けるような囁き声で語りだした。
 目の玉が凍りついたように動かないのがちょっと不気味だった。

「俺の名前は、ウケ・ポ・デナラホといいます。いわゆる宇宙人です」

 そっぽを向いて菓子を食べていた太った男が飛び上がった。

「お、おたくも宇宙人なの?僕もなんだよ!」

 とっさに伊能は帰りたくなったが、万全の笑顔に動揺はなかった。
 さらに何かを語り続けようとする自称宇宙人を、柔らかく制するように言った。

「ごめんなさい。異能力者組合は地球人限定なんです。宇宙人の方は、どうぞ別な席で親交を深めてください」

「なんか差別っぽくね?」とかブツブツ言いながら、宇宙人の二人は別の席に移動した。

 ますます白けた雰囲気になるなかで万全と老人は微笑みを絶やさない。
 伊能はなんとか中座して逃げ出す気になっていた。

 次に話し始めたのは、眼の下に隈を作った若い男だった。

「僕は、25歳の派遣です。プログラマーをやってます。あ、名前は勘弁してください。僕の能力は予知能力です。しかも特定の事に対しては、ほぼ完璧な予知ができます」

 ほおっと皆が関心を持って体を乗り出した。

「特定の事って?」

 先を促す万全の顔は期待に輝いていた。
 その様子に満足げに肯いて、男は話を続けた。

「宝くじです」

 おおっとどよめきが走った。

「た・宝くじの当選番号の予知?」
 万全が興奮を抑えきれない様子で聞いた。

「いえ。宝くじを買った時、ああこれは良くてもビリ等だなと予知できるんです。今まで外れたことがありません」

 興奮が一気に引いていくのが分った。
 万全は再び何事もなかったかのように、元の笑顔に戻った。

「分りました。素晴らしい予知能力ですね。当選番号の予知ができればもっと素晴らしいですけどね」

「そんな事出来たら、派遣なんかやってないっすよ……」

 憮然とする男を無視して、万全は一層声を大きくした。

「次は私が自己紹介をします。名前は万全大力。能力は、実際にこの場でお見せしましょう」

 万全はちょっと居住まいを正してから、両手を開いて前に伸ばした。

 そして次の瞬間、誰もが驚愕のあまり呼吸も忘れたのだ。
 
 
 ~つづく

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7 バベルの塔を戴く男

 巨大ネットカフェ「サラマンダー」は、新宿駅の南口から歩いて5分ほどのところにあった。

 大きな雑居ビルの壁面一杯に、派手な広告を出している。
 トカゲかサンショウウオが這っているようなイラストは、シンボルマークのようだ。

 伊能はポケットから折りたたんだ紙を取り出した。昨日老人に押し付けられたオフ会の案内状だ。

 時間を見ると、オフ会の開始までまだ1時間以上ある。

 昨夜はいろいろなことを考えて、あまり眠ることができなかった。
 あの老人も、色んな意味でタダモノではないという気がした。

 大賢者のような頼もしい人物にも見えた。
 いわゆるボケ老人なのではないかとも思える。
 なにか新手のカルト教団の誘いではないかとも疑った。
 それとも単なる頭のおかしな連中の集まりか?

 伊能は先に「サラマンダー」に入っていることにした。
 時間つぶしにもなるし、どんな場所だか好奇心もある。

 オフ会とやらに集まってくる連中を遠目に観察してからでも、参加するのは遅くは無い。

 ビルの前にパトカーが2台、ライトを回したまま駐車していた。
 地下の受付に下りる階段付近に、警察官が数人たむろしている。

 入っていこうとする伊能をジロジロと嫌な目つきで眺めていたが、何も言われることは無かった。

 受付には、もともとがそういう顔なのか、頬をぷっと膨らませたような表情の女の子と、唇の端にピアスをぶら下げた、これまた負けずにふて腐れたような顔つきの男がいた。

「なんかあったの?」
 伊能は親指を立てて、警官のいた方を指差した。
 またか、といった様子でわざとらしくため息をついて何か言おうとした女の子を制するように、唇ピアスが割り込んできた。

「すみません。ちょっと昨日事件がありまして……今日も店を閉めろとかって、さっきまでオマワリと、ちょっとごたついてたんすよ。シャワー室とか、立ち入り禁止なんすけど、問題ないすか?」

 ピアスをしているほうの唇の端に白い涎を溜めながら、男は上目で伊能を窺うように見た。

「ああ、全然問題ない。何があったの、昨日?」
 男は伊能の伝票に入店時間を刻印して、おしぼりの用意をしながら、伊能の方は見ずに答えた。
「殺しっすよ。結構ニュースとか騒いでますよ。テレビとかガンガン流れてっし」

 万引きか、無銭飲食程度の犯罪のような気軽な調子に、この街では殺人なんて日常茶飯事なのだと思い知らされた。

「昨日バイトに入ってれば、テレビに出られたよね。チョー残念なんだけど」
 少女がますます顔を膨らました。
 まるで釣り上げられた河豚のようだと、伊能は妙に感心した。

 伊能はテレビが嫌いでほとんど見ない。
 だからその事件のことはまったく知らなかった。

 煙草を吸うかと聞かれて頷いた。
 灰皿を受け取りながら、伊能も関心を失ったような顔で言った。

「殺しかあ。そりゃあケーサツも張り切るな」
 取りあえずネットで事件のことは調べてみようと思って、少し楽しくなった。
 目的の無い時間潰しは、かなり苦痛なのだ。

 受付カウンターを過ぎると、ホテルのラウンジ風のスペースがあった。これがコミュニティスペースという場所らしい。

 座り心地のよさそうなソファやテーブルが、比較的ゆったりと並べられている。
 フリードリンクなので、好きな飲み物を持ってきて仲間と喋っているグループもいたが、ほとんどは一人で漫画や雑誌を読んでいた。

 さり気なく「異能力者」関係の人間がいないか、目を走らせた。
 …………いた。

 コミュニティスペースの一部を、まるでお花見の場所取りのように確保している小さな男がいる。
 きちんとスーツを着ているのだが、なんか変だった。

 小柄というだけではなく、大人の体型に見えないほど華奢なのだ。
 小さい子供が、ふざけてお父さんのスーツを着ているような感じだった。

 しかし頭髪は凄く大人らしかった。
 異民族っぽいともいえる。

 頭頂部が薄くなってきているらしく、サイドの髪の毛を長く伸ばして、てっぺんでバベルの塔のように螺旋に巻いてある。

 不思議と頭髪に関しては、どんな常識人でもトチ狂ったような行動に出ることがある。

 だが、こんなに複雑怪奇な髪型を見たことはない。
 お笑いタレントの想像力を超える出来映えだった。

 男は40歳前後だろうと、伊能はみた。
 ちらりと見た感じでは、神経質そうな顔立ちだった。
 目も鼻も口も小ぶりなのだが、眉毛だけがふざけてマジックで書いたかのように太かった。
 一昔前に流行った人面犬にちょっと似ていた。

 汗だくになって、いくつかのソファを必死になって動かしている。
 重そうなソファを並べ替えて、円形にするつもりらしい。

 それぞれのソファの上には、領有権を主張するための様々なものが置かれていた。

 ケータイ、キーホルダー、ペン、ハンカチ、レンタルビデオの会員証、サラ金のティッシュ……。

 真ん中に置かれたテーブルの上には、男が画用紙に手書きで書いたらしいPOPのようなものが2本立っていた。

 「異能力者組合第一回オフ会は、こちらでーす!」と形容し難い色彩センスで書かれた方には、ウルトラマンと仮面ライダーとナントカレンジャーが三位一体となったようなイラストが描かれていた。

 「Welcame!」と大書した方には、ガンダムらしきモノが書かれている。

 上半身は極めて精密に書いてあるのだが、時間がなくなったのか、飽きたのか、下半身は驚くほどぞんざいだった。
 ちなみにWelcomeのスペルも間違っている。

 店員を含めて、皆が奇異な目で見ているのに、男にはまったく動ずる気配は無い。
 文化祭の準備でもしているように、嬉々として働いていた。

 伊能はさりげなくブース席の方に向かった。
 空いている席を見つけ、腰を落ち着けると、さてどうしたものかと考え始めた。

 バベルの塔を頭に載せた男は、少なくとも悪人には見えなかった。
 だが知り合いになりたいとも思えない。
 ただの変人か、まあ最悪の場合でも変質者あるいはココロ系ビョーキってところだろう。

「つまりは……俺と同じって事だ」
 伊能はブースの中で呟いた。

「まあ時間になったら顔出してみるか……」
 ああいう連中なら、伊能の話をまともに聞いてくれるかもしれない。伊能は気を取り直して、パソコンに向かい、昨日の事件について調べ始めた。
 
 
 ~つづく

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6 HN(ハンドルネーム)ストレート・レイザー

 サラマンダーで少女が殺されてから30分後、ネット上の公開掲示板に次のような書き込みがあった。


「眠りを侵された火トカゲは、決してその者を許さない。喉に大きな二つ目の口を開いて、自らの血に溺れて死ぬ」
(HN*ストレート・レイザー)

 警視庁ハイテク犯罪対策総合センターの、ネット監視員がこの書き込みに目を留めた。

 火トカゲはサラマンダーを表す言葉だからだ。

 所轄の新宿署は、連絡を受けて色めきたった。

 火トカゲよりも、ハンドルネームに注目したのだ。

 鑑識から届いたばかりの検死書に、凶器について「直線的な形状の肉厚が薄い刃物、たとえば剃刀様の刃物が考えられる」とあったからだ。

 もちろんこの情報はマスコミなどに流れていない。

 そしてストレート・レイザーとは、まさに「真っ直ぐな剃刀」という意味だった。
 
 
 ~つづく

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5 伊能高忠が失ったもの、そして得たもの

 伊能高忠が奇妙な老人に教えられた、奇妙なオフ会に参加することにしたのは、その内容が奇妙にも伊能の奇妙な悩みと一致していたからだ。

 普通ならオフ会と称するものに参加しようとは絶対に思わなかっただろう。

 ネットは良く利用しているが、そこで誰かと知り合い、仲良くなることなど考えられなかった。
 ネット上の、正体不明の人間同士が交わすやりとりが嫌いだからだ。

 それらは過剰に親しげだったり、攻撃的だったり、慇懃だったり、無礼だったりと感じられた。

 35歳の伊能にとって、会話の相手が10歳なのか70歳なのか、男なのか女なのか分からないのは居心地が悪かった。

 天才セールスマンを自称する伊能は、相手の表情や口調、仕草などを観察しながらコミュニケーションをとるのが得意だった。

 ネットのように、顔