「駄目だ! あの高さじゃ、落ちた瞬間にGB缶が破裂する!」
伊能も苦痛の表情で叫んだ。
すでに肉体も精神も限界を超えていた。
全身の神経や脳が白熱して、溶解していく感じがする。
それでも伊能は必死で、落ちていく小さな缶を、上空500kmの距離から軍事衛星のカメラで捉え続けた。
YUKIは歓喜の表情を浮かべて、狂ったように笑っていた。
突然身体が、意志とは関係なく動き始めた。
操り人形が踊っているような、ぎくしゃくとした動きだ。
笑いやんだ。
いや、顔の半分が笑うのを止めた。
顔の右半分は、唇を吊り上げて笑うYUKIのままだ。
しかし左半分は、哀しげだが決意を秘めた男の顔になっていた。
二宮の顔だ。
唇の左側だけが動いて、二宮の声で喋った。
「半分なら取り戻すのは簡単だ」
静かな声だった。
「さあ、一緒に行くんだ」
二宮の声に、右側のYUKIの顔が恐怖に歪んだ。
伊能たちは全員が手を繋いだまま、呼吸することも忘れて、伊能が見せる映像を見ていた。
銀色に輝く缶と重なるように、地上を歩く人々の姿が映り始めた。
全員が、お互いの絶望を感じた。
繋いだ手から、絶望までが増幅されて流れ込んでくる。
落ちる!
全員が身体を強張らせた瞬間、映像の中を黒い影がよぎった。
1秒か2秒、映像が途切れた。
伊能が再度目標を捕捉するまでの時間だ。
GB缶は地上に触れることなく、空に向かって上昇していた。
地上に落ちる寸前、カラスの王が舞い降りてきて、獲物を捕えるように缶を掴んだのだ。
――まるで鷲だとタケトは思った。カラスの王様じゃなくて、きっと鳥の王様だ。
なぜか、涙が流れて止まらなかった。
伊能が時計を見た。
「タケト! 王様に缶を離すように言ってくれ。万全、いやレッドはあの缶に全力を集中しろ!」
「どこに向かって動かすんですか?」
そう聞きながら、万全の髪が早くも蠢きはじめている。
「上だ! とにかく上へ向って、有り得ないほどのスピードを出せ! イメージを強く持つんだ。あの糞ったれGB缶なんか、一瞬で宇宙までぶっ飛ばしてやるってな」
「で、でも……」
不安そうな万全を伊能が怒鳴りつけた。
「俺たちの能力は、もともとが有り得ない力じゃねえか。ということは何でもあり得ると信じろ」
最後は語りかけるような口調になっていた。
万全を見る伊能の眼は優しい光を湛えていた。
「やります! やってみます、ブルー」
「土岐さんは、俺たちに時間をください。出来るだけ長く引き延ばして下さい」
「分かった。やってみる」
「希君、これが最後だ。君にこんなこと頼むのは辛いんだけど……」
「うん大丈夫。僕の全てで、皆の力になります」
「俺たちに残されたのは一分半、90秒だ!」
レッド(万全)、ブルー(伊能)、ピンク(土岐)、ブラック(タケト)、ホワイト(須賀)のコスチュームを着た5人が、もう一度固く手を繋ぎなおした。
イエローを着るはずだった男は、自分の中のYUKIを道連れに、警視庁の屋上から宙に身を躍らせた。
最後の瞬間、二宮の心は正義のヒーローだった。
YUKIなど、どこかに消し飛んでしまったのだ。
フル装備の警官隊を相手に、素手で戦ってきたヤクザたちも残り僅かになった。
伊能たちに殺到しようとする警官隊に向かって、ついにヤクザたちは拳銃を抜いた。
威嚇するように構える。
警官たちにどよめきが起こった。
ヤクザの拳銃に驚いたのではない。
ヤクザの背後に固まっている戦隊ヒーローたちに驚いたのだ。
5人の中で赤いコスチュームの小さな男だけが、マスクをしていなかった。
突然その大きく禿げた頭頂部から、強烈なピンク色の光線が空に向かって放射された。
大空に吸い込まれていく光線を、警官たちもヤクザたちも呆気に取られた表情で見つめていた。
いったいどれだけの時間が過ぎたのか?
誰にも分らなかった。
何時間なのか、何日なのか、それとも何十年も過ぎたのか?
時間感覚の消失。
分かっているのは、万全が何百回も丸禿になったことと、GB缶がロケットのように上昇を続けていることだけだ。
万全の髪の毛が、見る間に抜けおちていく。
ぼぼぼぼぼと抜けていく音が聞こえるほど凄まじい。
あっという間にツルツル頭になる。
すかさず禿げたところから、にょろにょろと毛が生えてくる。
そしてまた抜け落ちていく。
脱毛と発毛の無限のループだ。
異能力を使うと毛が抜けるのか、毛が抜けると異能力が使えるのかは謎だ。
どちらにしても抜ける毛が無くなったら、万全の異能力は使えないらしい。
希は万全に入り込み、髪の新陳代謝を極限にまで高めた。
万全だけではない。
希は全員の中にいた。
ヒーローに憧れ、純粋にセイギを信じるココロ。
幼い頃、男の子が誰でも持っているココロ。
全員がそれを感じていた。
希は限りなく力を与え続けた。
そして限りなく消耗していった。
ふいに伊能が手を離して言った。
「終わった……やったぜ! もう宇宙のゴミくずだ……」
そう呟いて崩れ落ちるように倒れた。
大の字になって空を見上げる伊能の目から、涙が溢れていた。
土岐も顔を両手で覆って泣きじゃくっている。
「ありがとうって言ってましたね」
タケトがそう言って、膝を抱えて座り込んだ。
「完全に消えてしまうまで、ありがとう、さようならって言ってたよ……」
希は消滅した。
その瞬間を全員はっきりと感じていた。
土岐によってぎりぎりまで引き延ばされた90秒間の最後の1秒だった。
我に帰った警官たちが猛烈な勢いで殺到してきた。
抵抗しない伊能たち5人を、乱暴に地面に押さえつけ手錠をかける。
ヤクザたちも拳銃を捨て、おとなしく逮捕された。
いつの間にか野次馬が集まっていて、特撮ヒーローのコスプレをした男たちが連行されていくのを笑いながら見ていた。
――マスクをしていて良かった。
万全以外の4人は同じことを思っていた。
「ご臨終です」
医師がそう告げても、母親は少年との添い寝を止めなかった。
医師の声など聞こえていないようだ。
父親はがっくりと椅子に腰をおろした。
医師はちらりと看護師に目配せして、形だけの礼をして病室を出て行った。
それからどれだけ時間が過ぎたのか。
母親は少年をきつく抱きしめたり、髪を撫でたりしながら何かを語り続けていた。
他愛のないことばかり。
あなたが生まれたとき、どんなに嬉しかったか。
あなたはお魚とピーマンが嫌いで困ったこと。
中耳炎になった時、あんまり痛そうに泣くので、私まで泣いたこと。
あなたはとってもやんちゃだったけど、本当に優しい子だった。
あなたは一番大事なママの宝物。
あなたのママになれて良かった。
悲し過ぎて、どうしようもなくなって、少年の冷たい頬に自分の頬を擦りつけた。
堪らなくなってきて、力一杯ぎゅっと少年を抱きしめた。
そのとき何かが聞こえた気がした。
胸のあたりで何かが動き、何かを言ったような気がした。
母親はおそるおそる掛け布団を持ち上げて、中を覗き込んだ。
「ママ? 苦しいよお」
胸に押しつけた希が、希の目が開いてこちらを見ていた。
5年以上開くことのなかった希の大きな瞳が、昔と変わらない悪戯っぽい光を湛えて母親を見ていた。
母親は拳を口にあてた。
そうしないと叫びだしてしまいそうだった。
「ああ神様、神様のおかげなの! こんなことって……ああ、希!希! 目を瞑っちゃダメよ。絶対目を閉じないで!」
父親も何事かと来て、希を見た。
「あ、パパもいる」
狼狽した父親はいきなり病室から駆け出し、臨終を告げた医師を呼びにいった。