目次

#1 巨大ネットカフェとそこに潜むモノたち(たとえば幽霊)
#2 巨大ネットカフェとそこに潜むモノたち(あるいは殺人者)
#3 伊能高忠と奇妙な老人(と謎のヤクザたち)
#4 長野希と奇妙な老人(と謎のヤクザたち)
#5 伊能高忠が失ったもの、そして得たもの
#6 HN(ハンドルネーム)ストレート・レイザー
#7 バベルの塔を戴く男
#8 異能力者組合第1回オフ会(宇宙規模?)
#9 恐るべき異能力者
#10 精霊の独白(September 11, 2001 )
#11 サラマンダーの幽霊
#12 三人の異能力者たち
#13 伊能の副作用(果てしなくだだ漏れするアレ)
#14 見張るモノたち
#15 バラバラ
#16 土岐の嗅ぐモノ
#17 熱い友情で結ばれつつある異能トリオ
#18 サラマンダーの幽霊(2)
#19 容疑者 万全大力 見るからに変質者と呼ばれた男
#20 はじまりの夜
#21 陰気なマッドサイエンティストと1000分の1ミリの爆弾
#22 拉致
#23 10歳の老人
#24 10歳の老人(2)
#25 それぞれのセイギ
#26 それぞれの想い
#27 誰かのために
#28 誰かのために(2)
#29 賢人会議
#30 賢人会議(2)
#31 孤独なテロリスト
#32 警察病院
#33 覚醒
#34 GOD BLESS (神の祝福)
#35 最重要会議
#36 誕生
#37 真の友人
#38 YUKIとストレートレイザー
#39 色はどうする
#40 襲撃――そして死
#41 潜行
#42 電光石火
#43 シャイターン
#44 ゲーム
#45 いくつかの疑惑
#46 ゲームの準備
#47 ゲームの準備(2)
#48 アシッドハウス
#49 アシッドハウス(2)
#50 反撃
#51 変身
#52 生身剥ぎ(ナマハゲ)
#53 バイタルサイン(生命徴候)
#54 五里霧中そして四面楚歌
#55 五里霧中そして四面楚歌(2)
#56 万全激怒する。
#57 真澄激怒する。
#58 魂の消滅
#59 伊能の脱ヤクザ講座
#60 伊能の脱ヤクザ講座(2)
#61 佇む人
#62 目覚めぬ眠り
#63 セイギって何?
#64 末期(まつご)の願い
#65 末期(まつご)の願い(2)
#66 折れないココロ
#67 百万羽のカラスと千人のオタク
#68 前夜
#69 兆し
#70 出撃
#71 異能戦隊サラマンダー
#72 ラストワン
#73 そして死が、宙に舞った
#74 永遠の90秒
#75 国家の誠意
#76 ハローグッドバイ

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76 ハローグッドバイ

 帝都大学病院の一室では、ベッドに座る希に母親が林檎を剥いて食べさせていた。

 母親には一つ気になっていることがあった。

 時折外の景色を見ている希の表情だ。
 何かを待っているような、そんな表情に見えた。

 長い昏睡のせいか、以前に比べてあまり笑わなくなったのも心配だった。

 林檎を頬張っていた希が、突然ベッドからぴょんと飛び下りて窓際に駈けて行った。

 そして何かを見てケラケラ笑っている。
 嬉しくて、楽しくて堪らないといった笑い方だ。

 母親も窓際に来て、希が何を見ているのか確かめた。

 窓の下にいたのは、柄の悪い老人、ヤクザ風の中年男、セールスマン風のちょっといい男、頼りなさげな今風の若い男、キューピー人形のような髪形の、見るからに変質者っぽい小男。

 その5人が何やらポーズを取っている。
 戦隊物のポーズの真似でもしているのだろうか。

 見るからに危なそうな連中なので、窓を閉めようかとも思ったが、あまりに希が嬉しそうなので我慢した。

 希はその怪しい連中に、小さく手を振って答えていた。
 でもとにかく、希のこんな笑顔が見られただけでも大満足だった。


 病院の帰り道、須賀が話し始めた。
「わしはヤクザを引退します。希君が残してくれたセイギのココロがあるのにヤクザはできません。老人福祉関係の仕事をやるつもりです」
 しっかりした口調だった。

 伊能はふと疑問に思った。確か須賀はボケ始めていたはず。

「何かを得ることは、何かを失うことです。わしは希君を失ったが、希君はわしに明晰な頭脳を残してくれた」

「そういえば俺も味覚が戻ったよ。留置場の弁当がやたらと美味かった」
 土岐の言葉に、万全が不満そうな顔になった。

 万全は激しい発毛、脱毛のサイクルが終了したとき、最初と全く違う髪形になっていた。

 頭頂部が河童のように禿げていたのが、今はその部分にだけ毛が生えている。頭の周りを縁取っていた毛髪はきれいに無くなっていた。モヒカンというよりキューピー人形のようだった。

「僕は何を得て、何を失ったんでしょうか?」

 万全の問いに、伊能は思わず噴き出した。
「お前は簡単だよ。頭のてっぺんの毛を得て、周りの毛を失ったんだ」

 万全は不満そうに鼻を鳴らした。

 土岐が伊能の顔をまじまじと見つめた。
「何ですか? 土岐さん、人の顔をジロジロ見て」

「お前笑ってるよ。ちゃんといい顔で笑ってるよ。お前が得たのはそれだな」

「ぼ、僕は?」
 心配そうなタケトの肩を伊能は叩いた。

「お前はあんな凄い友達ができたじゃないか。カラスの王様!」
 タケトは納得したのか嬉しそうにほほ笑んだ。

 伊能は大きく背伸びをした。

 病院の並木道の空気が美味しかったし、何よりも希が元気なのを見ることができたことが嬉しかった。
 しかも伊能たちのことを覚えているらしい。

「さーて、俺は久しぶりに我が家に帰ろうかな。といっても誰も待っていない寂しい家だけどな」

 万全が急に捨てられた子犬のような目になった。
 おそらく実家には帰りづらいのだろう。

「万全、良かったら俺の家に来るか? どうせ誰もいないし、掃除、洗濯をやってくれれば家賃はいらないぞ」

 万全の目が輝いた。
「本当ですか? ぜひお願いします! 僕、掃除、洗濯だけじゃなくてお料理だって得意です。嬉しいなあ、伊能さんの奥さんになれるなんて夢見たいだ……」

「冗談でもそういうことを口にしたら、即座に放り出すぞ」

「嫌だなあ。ジョーダンですよ、じょうだん」

 大学正門のところで、伊能と万全は同じタクシーに乗り込んだ。

 須賀、土岐、タケトの3人は須賀の部下の運転する車に乗り込む。

 別れの時、土岐は無表情で「じゃあな」と言っただけだった。
 伊能は「いつかまた」と言った。
 万全は「月に一回サラマンダーの定例会を開きましょう」と提案したが、皆に無視された。
 タケトは寂しそうに「また会えますよね」と呟いた。
 須賀は「今度会う時までに、わしはホームレス2級を取得しておきます」と言って、部下から「親っさん、ホームヘルパー2級です」と間違いを指摘されていた。


 タクシーが伊能のマンションに着いたとき、夕暮れ時にさしかかっていた。

 ふとマンションを見上げた伊能の顔が、訝しげになった。
 自分の部屋に電気が煌々と灯っているのだ。

 部屋の前にきてドアノブを回すと、カギはかかっておらず開いた。
 何か美味しそうな匂いが漂ってくる。

「パパだーおかえりなさーい!」
 跳ねるように由美が駆けてきて、伊能の腰に抱きついた。

 真澄がエプロン姿で出てくる。
 伊能は驚き、戸惑っていた。

「お帰りなさい」
 そう言う真澄の眼は悪戯っぽく伊能を見つめている。

「ま、真澄、どうして?」

「だから、貴方は私の考えていることだけは分らないって言ったでしょ」
 真澄は優しく伊能を見つめている。

 伊能は思わず真澄を抱きしめていた。

 ふと、玄関に万全がアホみたいに突っ立っていることに気がついた。

 伊能は万全に目配せして、顎をしゃくり「帰れ」と有無を言わせぬ調子で言った。

 おろおろとしながらも、伊能の強い調子に万全は部屋の外に追い出された。そのうえ、ご丁寧に鍵まで掛ける音がした。

 おそらくまだ玄関で抱き合っているのだろうと思うと、彼女いない歴25年の万全はふつふつと怒りが湧いてきた。

 万全は閉じられたドアに向かって立った。

 うぞぞぞぞぞぞぞとキューピー頭の毛が蠢きだす。
 くおおおおおおおおと食いしばった歯の間から空気が漏れる。

 前に突き出した両腕が、微妙な動きを見せる。

 ドアの内側では、しっかりと真澄を抱きしめる伊能がいた。
 突然、真澄がはっと体を硬くする。

 ブラジャーが外れ、急に自由になった豊満な胸がぶるんと弾んだ。

 頬を赤らめて伊能を恥ずかしそうに睨む。
「まだ早いでしょ。エッチね」と囁いた。

 伊能たちの横では、由美が「まだ早いでしょ、エッチねえ」と言いながら、ぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねていた。

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75 国家の誠意

 伊能たちの勾留は12日だった。

 取り調べでは全員が真実を語った。
 警察を馬鹿にしているのかと、激昂する刑事もいた。

「異能力」「ネットに存在する少年の意識体」「カラスの王様」「千代田区を対象とした生物テロ」「多重人格の殺人鬼」など刑事でなくても理解し難いだろう。

 しかし、一つ一つが客観的に裏付けられていく――。

 回収したGB缶は、確かに兵器級の威力があった。

 開発した三上准教授は、その世界では超一流の学者だった。

 事件の前日、自宅の火災で死んでいる。研究所のような造りの建物で、普通ではない激しい燃え方をしていた。遺体も完全に炭化して、一切研究書類らしきものは残っていなかった。

 事件当日、千代田区にカラスが異常集結していたことも、すぐに確かめられた。ジュースの缶を捨てた人間が、数人カラスに突かれて軽傷を負うという事故も起きている。

 二宮は確かに警視庁本庁ビルから飛び降りて死んでいた。
 警戒の厳しい本庁の中を、どうやって屋上まで上ったのだろうと大きな疑問が残った。

 「ネットの意識体」は本人である長野希が、植物状態から5年ぶりに意識を回復したことで、「奇跡譚」としてマスコミにも取り上げられた。
 意識を回復した時間が、希が消滅したと伊能たちが言っている、10月31日午前10時30分だったことも奇妙だった。警察は希のところにも行ったが、こん睡状態の頃の記憶は全く残っていなかった。

「異能力」に関しては、伊能たち全員から能力が消えてしまったため、実証のしようがなかった。

 12日間勾留されたのは、国家としてこの事件をどう扱えばいいのか苦慮したための時間だろう。

 最後の三日間は、容疑者というより賓客のように丁重に扱われ始めた。

 最初は留置場もバラバラにされた5人だったが、最後の三日間は一緒だった。

 釈放の日、年配の看守がきて牢屋のカギを開けた。
 そして、恭しく一礼して「本当に有難うございました」と言った。

 私物を返してもらう時も、やはり年配の係員で、伊能たちに深々とお辞儀をしたのが印象的だった。

「まだ時間がある。皆こっちにきて話そうや」
 伊能たちの取り調べの指揮を執っていた警察幹部が自室の応接間に招いた。

 全員が座ったところで、堂園と名乗るその男がつらそうな表情で
語り始めた。

 鼻も耳も潰れている、いかにも修羅場をかいくぐってきたタイプの刑事だ。
 喋り方も突き放すような感じがある。

「俺は、お前らの言うことを信じることにした。だけど、お化けは信じねえぞ。とにかくお前らの話は馬鹿げているし、滅茶苦茶だが、全て裏が取れる。だから、お前らは日本を救ったヒーローだ。こんなに凄いヒーローはテレビにもいないだろう」

 堂園はそこで言葉を切って、煙草に火を付けた。爪が脂でまっ黄色になっている。土岐といい勝負のヘビースモーカーらしい。

「1本もらえますか?」
 土岐が言うと箱ごと寄こした。

 煙を天井に向かって吹き出しながら話を続けた。
「だが結果として、今回の事件はすべて闇に葬ることになった。だってそうだろう。お前らの話を国家が認めたら、大変なことになる。だから事件の存在をすべての記録から抹殺する。須賀のところの若い衆もチャカを持っていた奴は、少し臭い飯を食ってもらうが、他の公防(公務執行妨害)でパクられた連中はすべてパイ(保釈)だ」

 伊能が口を開いた。
「俺たちは誰かに褒めてもらいたいとか、有名になりたいとか思ってやったわけじゃないですから、そうして戴いて結構です」

 警察官が部屋に入ってきて「車の用意ができました」と伝えにきた。
「じゃあ、そこまで送りましょう」

「いや、僕ら自分で帰れますよ」

「まあそう言わないで、これは本当にささやかな気持ちですから。あ、さっきあなた達を牢屋から出した看守がいたでしょ?」

「はい、年配の感じのいいお爺さんでしたね」

「あの方が警視総監です」

「ええ!」
 伊能たちは飛び上るほど驚いた。

「私物をお返ししたのが、警察庁長官です。公的に貴方達に何もしてやれないので、せめて……そんな気持ちを察してください」

 伊能たちは2台のパトカーに分乗して乗り込んだ。
「一か所寄り道しますけど、すぐ終わりますから」

 パトカーはサイレンを鳴らしてスムースに走った。
 そして警官が門を警備する大きな屋敷に入って行った。

「ちょっと車を降りましょう」

 降りた伊能たちに、屋敷の一角を指差した。
 大きな窓に白髪の老人が立ってこちらを食い入るように見つめていた。

「総理大臣!」
 伊能が気付いて思わず直立不動の姿勢になった。
 他の者も慌ててそれにならう。

 総理は伊能たちに向って、神仏を拝むように両手を合わせ、深々と礼をした。

 どぎまぎしながら伊能たちも頭を下げる。
 しばらくして頭を上げたら、まだ総理は頭を下げていたので、慌ててもう一度頭を下げる。

「さて行きましょうか。どこに行けばいいですか? お好きなところで降ろしますよ」

 伊能たちは暫く声もなかった。須賀などは感涙にむせている。
 それでも行き先を聞かれて、お互いの顔を見た。

 全員が同じところに行こうと思っていたのだ。
「帝都大学付属病院にお願いします」

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74 永遠の90秒

「駄目だ! あの高さじゃ、落ちた瞬間にGB缶が破裂する!」
 伊能も苦痛の表情で叫んだ。

 すでに肉体も精神も限界を超えていた。
 全身の神経や脳が白熱して、溶解していく感じがする。

 それでも伊能は必死で、落ちていく小さな缶を、上空500kmの距離から軍事衛星のカメラで捉え続けた。


 YUKIは歓喜の表情を浮かべて、狂ったように笑っていた。

 突然身体が、意志とは関係なく動き始めた。
 操り人形が踊っているような、ぎくしゃくとした動きだ。

 笑いやんだ。
 いや、顔の半分が笑うのを止めた。

 顔の右半分は、唇を吊り上げて笑うYUKIのままだ。
 しかし左半分は、哀しげだが決意を秘めた男の顔になっていた。
 二宮の顔だ。

 唇の左側だけが動いて、二宮の声で喋った。
「半分なら取り戻すのは簡単だ」

 静かな声だった。
「さあ、一緒に行くんだ」

 二宮の声に、右側のYUKIの顔が恐怖に歪んだ。


 伊能たちは全員が手を繋いだまま、呼吸することも忘れて、伊能が見せる映像を見ていた。

 銀色に輝く缶と重なるように、地上を歩く人々の姿が映り始めた。

 全員が、お互いの絶望を感じた。
 繋いだ手から、絶望までが増幅されて流れ込んでくる。

 落ちる!
 全員が身体を強張らせた瞬間、映像の中を黒い影がよぎった。

 1秒か2秒、映像が途切れた。
 伊能が再度目標を捕捉するまでの時間だ。

 GB缶は地上に触れることなく、空に向かって上昇していた。
 地上に落ちる寸前、カラスの王が舞い降りてきて、獲物を捕えるように缶を掴んだのだ。

 ――まるで鷲だとタケトは思った。カラスの王様じゃなくて、きっと鳥の王様だ。
 なぜか、涙が流れて止まらなかった。

 伊能が時計を見た。
「タケト! 王様に缶を離すように言ってくれ。万全、いやレッドはあの缶に全力を集中しろ!」

「どこに向かって動かすんですか?」
 そう聞きながら、万全の髪が早くも蠢きはじめている。

「上だ! とにかく上へ向って、有り得ないほどのスピードを出せ! イメージを強く持つんだ。あの糞ったれGB缶なんか、一瞬で宇宙までぶっ飛ばしてやるってな」

「で、でも……」

 不安そうな万全を伊能が怒鳴りつけた。
「俺たちの能力は、もともとが有り得ない力じゃねえか。ということは何でもあり得ると信じろ」

 最後は語りかけるような口調になっていた。
 万全を見る伊能の眼は優しい光を湛えていた。

「やります! やってみます、ブルー」

「土岐さんは、俺たちに時間をください。出来るだけ長く引き延ばして下さい」

「分かった。やってみる」

「希君、これが最後だ。君にこんなこと頼むのは辛いんだけど……」

「うん大丈夫。僕の全てで、皆の力になります」

「俺たちに残されたのは一分半、90秒だ!」

 レッド(万全)、ブルー(伊能)、ピンク(土岐)、ブラック(タケト)、ホワイト(須賀)のコスチュームを着た5人が、もう一度固く手を繋ぎなおした。


 イエローを着るはずだった男は、自分の中のYUKIを道連れに、警視庁の屋上から宙に身を躍らせた。

 最後の瞬間、二宮の心は正義のヒーローだった。
 YUKIなど、どこかに消し飛んでしまったのだ。


 フル装備の警官隊を相手に、素手で戦ってきたヤクザたちも残り僅かになった。

 伊能たちに殺到しようとする警官隊に向かって、ついにヤクザたちは拳銃を抜いた。
 威嚇するように構える。

 警官たちにどよめきが起こった。

 ヤクザの拳銃に驚いたのではない。
 ヤクザの背後に固まっている戦隊ヒーローたちに驚いたのだ。

 5人の中で赤いコスチュームの小さな男だけが、マスクをしていなかった。

 突然その大きく禿げた頭頂部から、強烈なピンク色の光線が空に向かって放射された。

 大空に吸い込まれていく光線を、警官たちもヤクザたちも呆気に取られた表情で見つめていた。


 いったいどれだけの時間が過ぎたのか?

 誰にも分らなかった。
 何時間なのか、何日なのか、それとも何十年も過ぎたのか?
 時間感覚の消失。

 分かっているのは、万全が何百回も丸禿になったことと、GB缶がロケットのように上昇を続けていることだけだ。

 万全の髪の毛が、見る間に抜けおちていく。
 ぼぼぼぼぼと抜けていく音が聞こえるほど凄まじい。
 あっという間にツルツル頭になる。
 すかさず禿げたところから、にょろにょろと毛が生えてくる。
 そしてまた抜け落ちていく。
 脱毛と発毛の無限のループだ。

 異能力を使うと毛が抜けるのか、毛が抜けると異能力が使えるのかは謎だ。
 どちらにしても抜ける毛が無くなったら、万全の異能力は使えないらしい。

 希は万全に入り込み、髪の新陳代謝を極限にまで高めた。

 万全だけではない。
 希は全員の中にいた。

 ヒーローに憧れ、純粋にセイギを信じるココロ。
 幼い頃、男の子が誰でも持っているココロ。
 全員がそれを感じていた。

 希は限りなく力を与え続けた。
 そして限りなく消耗していった。


 ふいに伊能が手を離して言った。
「終わった……やったぜ! もう宇宙のゴミくずだ……」
 そう呟いて崩れ落ちるように倒れた。

 大の字になって空を見上げる伊能の目から、涙が溢れていた。

 土岐も顔を両手で覆って泣きじゃくっている。

「ありがとうって言ってましたね」
 タケトがそう言って、膝を抱えて座り込んだ。
「完全に消えてしまうまで、ありがとう、さようならって言ってたよ……」 

 希は消滅した。
 その瞬間を全員はっきりと感じていた。
 土岐によってぎりぎりまで引き延ばされた90秒間の最後の1秒だった。


 我に帰った警官たちが猛烈な勢いで殺到してきた。

 抵抗しない伊能たち5人を、乱暴に地面に押さえつけ手錠をかける。
 ヤクザたちも拳銃を捨て、おとなしく逮捕された。

 いつの間にか野次馬が集まっていて、特撮ヒーローのコスプレをした男たちが連行されていくのを笑いながら見ていた。

――マスクをしていて良かった。
 万全以外の4人は同じことを思っていた。


「ご臨終です」
 医師がそう告げても、母親は少年との添い寝を止めなかった。
 医師の声など聞こえていないようだ。

 父親はがっくりと椅子に腰をおろした。
 医師はちらりと看護師に目配せして、形だけの礼をして病室を出て行った。

 それからどれだけ時間が過ぎたのか。
 母親は少年をきつく抱きしめたり、髪を撫でたりしながら何かを語り続けていた。

 他愛のないことばかり。

 あなたが生まれたとき、どんなに嬉しかったか。
 あなたはお魚とピーマンが嫌いで困ったこと。
 中耳炎になった時、あんまり痛そうに泣くので、私まで泣いたこと。
 あなたはとってもやんちゃだったけど、本当に優しい子だった。
 あなたは一番大事なママの宝物。
 あなたのママになれて良かった。

 悲し過ぎて、どうしようもなくなって、少年の冷たい頬に自分の頬を擦りつけた。

 堪らなくなってきて、力一杯ぎゅっと少年を抱きしめた。

 そのとき何かが聞こえた気がした。

 胸のあたりで何かが動き、何かを言ったような気がした。
 母親はおそるおそる掛け布団を持ち上げて、中を覗き込んだ。

「ママ? 苦しいよお」
 胸に押しつけた希が、希の目が開いてこちらを見ていた。

 5年以上開くことのなかった希の大きな瞳が、昔と変わらない悪戯っぽい光を湛えて母親を見ていた。

 母親は拳を口にあてた。
 そうしないと叫びだしてしまいそうだった。

「ああ神様、神様のおかげなの! こんなことって……ああ、希!希! 目を瞑っちゃダメよ。絶対目を閉じないで!」

 父親も何事かと来て、希を見た。

「あ、パパもいる」
 狼狽した父親はいきなり病室から駆け出し、臨終を告げた医師を呼びにいった。

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73 そして死が、宙に舞った

 YUKIはGB缶(生物兵器)を取り出した。
 スイッチを入れて足元に置く。

 散布が始まる直前に、思いきり蹴とばして下に落とすつもりだった。その方が広く散布できるだろう。

 YUKIは突然背後に強烈な視線を感じた。

 小型の拳銃を握り締めて、素早く振り向く。
 誰もいなかった。大きなカラスが1羽いただけだ。

 YUKIは苦笑しながら拳銃をしまった。

 感覚の鋭いYUKIには珍しいことだった。
 人間の視線とカラスの視線を間違えるとは……。

 YUKIが視線を外しても、カラスは黒ダイヤのような眼で、じっとYUKIを見ている。
 気のせいだろうが意志的なものを感じて、少し気味が悪かった。

 細身の煙草を1本口にくわえた。
 そしてさりげなく横目でカラスを観察した。
 相変わらずYUKIから目を離さない。

 ――それにしても大きなカラスね。こんな大きいカラスは初めて見たわ。目つきも獰猛だし、ちょっと怖いわね……。

 突然カラスが動き出した。
 飛び立つのではなく、のっしのっしという感じでYUKIの方へ歩いてくる。

「しっ! しっ!」
 手で威嚇するようにしたが、気にする気配もない。

 なぜかYUKIを睨みつけたまま、時折背中を膨らませながら、のっしのっしと歩いてくる。

 実はYUKIは鳥類が苦手だ。鳩でも嫌なのに、こんな化け物カラスには恐怖を感じてしまう。

 思わず一歩二歩と後ずさりしていた。
 内側にいた二宮はこの機会を逃さなかった。

 一気にYUKIと交代を図った。
 人格交代の瞬間、YUKIの顔が驚きに一瞬歪んだ。
「おのれ! 二宮かああ!」

 YUKIが言葉を発し終える前に、二宮が表に出ることに成功した。当然YUKIは二宮の意識の底に落ちていく。

 二宮は屋上の端に行った。
 周りの景色、今いるビルの入口を見て自分がどこにいるのか分かった。

 YUKIの携帯を取り出して伊能に電話した。
 伊能は二宮の声を聞いてひどく驚いているようだった。

 しかし、嫌悪している感じがなかったので、二宮は涙が出るほど嬉しかった。
 話したいことはいくらでもあるのだが、時間がなかった。

「伊能さん、二宮です。色々とごめんなさい」

「二宮、そのことは今度話そう。きっと医者がお前の力になってくれるはずだから。それより今は時間がない。今自分が何処にいるかわかるか?」

「はい、ここは霞が関の警視庁ビルの屋上みたいです」

「周りに小さな銀色の缶が見当たらないか?」

 二宮は屋上を見渡した。
 ぎょっとするほど大きなカラスが1羽いて、そのすぐそばに銀色の缶があった。

「ありました!」

「二宮よく聞いてくれ。そして急いで行動してくれ。時間はあと3分しかない。その缶の上に赤いスイッチがある。おそらく今は押し込まれている状態だ。それを指でつまんで引き出してくれ。それが終わったらそれを持って警視庁から出てきてくれ。こちらは入っていけないからな」

「分りました。いますぐやってみます。電話はこのままでいいですか?」

「ああ、分らないことがあったらすぐ聞いてくれ」

 伊能の後ろから懐かしい万全の声が聞こえてくる。
「二宮君なら僕も話したいなあ、タケトだって話したいよね」

 まるで親が子供を叱るような口調の土岐の声も聞こえて来た。
「いいかげんにしろ! 今は時間がない。話なんかあと、あと!」

 ほんの数日会っていないだけなのに、それらの声はひどく懐かしかった。ひどく温かかった。そして遠かった。

 伊能は電話からしばらく二宮の声が聞こえないのが気になった。
「どうだ? 二宮うまくいってるか?」

 聞こえてきたのは、ぞっとするような笑い声だった。
 その嘲るような笑い方に覚えがあった。

「YUKIか?」

「おひさしぶりねえ、伊能さん。二宮君はもう二度と現れないでしょう。私の隙をついたけど、あなた達のことを思い出して涙ぐんでいる間に、簡単に取り戻すことができたわ」

 伊能は話しながら、懸命に警視庁本庁舎ビルの屋上の映像を探していた。
 軍事衛星の精密映像にそれを見つけ、急いで拡大し焦点を合わせていく。やがて携帯電話で話しているYUKIの姿を見ることができた。

「そろそろ散布の時間ね。わくわくするわね」

 YUKIの足もとに銀色の缶があった。

 YUKIが足を大きく振りだすのを見て、伊能は大声で叫んだ。
「やめろ! それだけはやめろ!」

 YUKIに蹴られた缶は屋上のフェンスを高く越え、大勢の人間が出入りしている玄関前に向かって落下を始めた。

「あの高さじゃ、落ちたら缶が破裂するぞ!」
 土岐が珍しく顔を歪めて叫んだ。

 YUKIが狂ったように笑っていた。

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72 ラストワン

 AM10:17

 退避行動まであと3分。

 伊能たちを逮捕しにきた警官隊と、少しでも時間稼ぎをするために抵抗する、ヤクザたちとの争いはすでに乱闘状態になっていた。

 囲みを突破して何人かの警官が伊能たちの近くまで来た。
 しかし際どいところで、須賀の部下たちの捨身の抵抗に食い止められていた。

 ついに発見数が19個に達していた。
 あと1個である。ただし、その1個が数万人を殺す能力を秘めている。

 能力を限界以上に使っている伊能の顔は、僅かな時間で一気に年老いたように見える程やつれていた。

 その表情や口調に、焦りの色がはっきりしてきた。
「土岐さん、あと3分で退避時間です。皆を連れて急いで避難してください」

 土岐はポーカーフェイスを意地でも崩さない。
 しかし、咥えたタバコは逆で、唇から力無くぶら下っている。

 土岐は疑わしげな眼で伊能を見た。
「お前も一緒だろ?」

「いや、俺はもうちょっとだけ探します。皆は危険ですから地下に避難してください」

「悪いが、俺も同じことを考えていたんだ。ここまできて後に引いたら、一生ギャンブルで目が出ない気がする」

 須賀が伊納と土岐の方へ急ぎ足でやってきた。
 目の輝きが違う。おそらく希君のほうだと、伊能は思った。

 早口で、ちょっと舌足らずな話し方はやはり希だった。
「最後の1個ですが、もしかすると、YUKIが持っているんじゃないかな? YUKIなら誰にも見られずに設置できるし」

 伊能はしまったという顔になった。
「そうか! YUKIは二宮の能力も使えるのか!」

 土岐が腕組みして、溜息混じりに言った。
「YUKIと二宮は同一人物なんだろ? しかし、俺には二宮が悪人だとはどうしても思えない。というより匂わないんだ……」

「希君、二宮の人格に呼びかけることはできないかな。俺たちに呼びかけるように……おそらく今はYUKIだろうが、心の奥では二宮が眠っているはずだ」

「できるかどうか……でも試してみます」


 その頃YUKIは警察機構の中心部にいた。

 通称桜田門と呼ばれる、霞が関2丁目にある警視庁本庁舎ビルだ。
 二宮の「見られない」能力を最大限に生かし、誰にもとがめだてされずに屋上まで登ることができた。

 YUKIは三上の家から、生物兵器用の防護服を一着持ち出していた。散布が始まったら着込むつもりだ。

 少なくとも、今日一日は警視庁の屋上という最高のロケーションで、この空前のテロがもたらす死や破壊を見物しながら、パニックに陥った人間たちの惨めなショーを楽しむつもりなのだ。

 ドラッグでもこれほどハイな気分になったことはない。
 YUKIは上機嫌で、これから死の街に変わるはずの眼下の風景を楽しんでいた。

 YUKIは気付かなかったが、YUKIが意識の底に閉じ込めて、もう二度と目を覚まさないはずの二宮が、このときにふと眼を覚ました。

 どこからか聞こえてきた、二宮を呼ぶ幼い子供の声に起こされたのだ。

「希君?」
 希のメッセージを受け取った二宮は、ひどく恥ずかしかった。
「僕は何をやってるんだろう? 皆が必死で戦っているのに、僕だけが逃げていた……」

 二宮は意識の外に出ようとしたが、表に出ているYUKIには隙がなくて難しかった。

 二宮がもう決して表には出ないと決め、YUKIに全てを譲ったのは、須賀や伊能たち、サラマンダーの仲間を自分が裏切ってしまったことをYUKIから知らされたからだ。
 さらにYUKIは殺人まで犯しているという。

 いくら知らなかったとはいえ、自分が殺人者で、さらに仲間を裏切っていたとは……。

 二宮にとって、伊能たちは初めての仲間と呼べる相手だった。
 その伊能たちが、自分の助けを必要としている。いまどこにいるのかを教えるだけでいいのだ。

 なんとかしたかった。時間もないらしい。

 暗く冷たいYUKIの意識の奥で、二宮は祈るような気持ちでチャンスを窺った。

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71 異能戦隊サラマンダー

 AM10:00

 日比谷公園の7か所の入り口から警官隊が突入した。

 通報によると須賀たちは大噴水あたりにいるらしい。
 日比谷公会堂、大音楽堂、テニスコート、花壇や池の方向から、須賀一味を押し包むように突入した。

 しかし、昼前の日比谷公園は閑散としていて、やけにカラスばかりが目に付いた。
 須賀たちはどこにもいない。

 肝心の大噴水では、特撮ヒーローショーが行われていた。
 平日の昼間だというのに、オタク連中が集まっている。

「いい年して、こいつら働いてないのか?」
 フル装備で汗だくになって走ってきた警官たちは、いまいましげに眺めていた。

 ヒーローショーはオタクたちの人垣でほとんど見えない。時折、赤やピンクの衣装が見えるくらいだ。

「どうもガセ情報らしいな……畜生め! 人騒がせな野郎がいたもんだ」

 ヘルメットを脱ぎながら、口惜しそうに吐き捨てた警官が、ショーの方を見て訝しげな顔になった。

「おい、このショーは何かおかしいぞ! どこにも看板がない。ポスターやチラシもない。大体ショーだというのに、音楽もないし司会者もいない。マイクすら無いじゃないか!」

 その警官は緊張した表情になって、ショーの人だかりに向かって歩いて行った。

 人垣の一番外側にいるオタクに声をかける。
 やけにでかいオタクだった。
 まるで格闘家のように獰猛な体つきに見えた。

 しかし、服装が珍妙だった。
 ど派手な緑色に光る、電飾付きのカエルの帽子を目深にかぶっている。
――よくこんな帽子をかぶれるもんだ。
 内心呆れながらも、顔の汗をタオルで拭いながら、気安い調子で声をかけた。

「これは何のショーなんですか?」

 カエル帽子の男は、こちらを振り返りもせずにぼそっと答えた。
「えーっと、確か落武者戦隊ハゲテンジャーかな」

 そのドスのきいた声、喋り方をきいて警官は、改めて周りを見回した。

 そこにいる全員が背を向けている。
 しかし、全神経をこちらに対して研ぎ澄ましているのが分かった。

 良く見ると、ジーンズに蛇皮の雪駄履きの男とか、首にも腕にもやたらに太いゴールドの鎖を巻いている男とか、なんかチグハグだった。

 警官はさりげなく立ち去り、途方に暮れている上司に報告した。
「噴水のところにいるオタク連中は怪しいです。ひょっとすると、あれは全員がヤクザ者かもしれません。連中が輪になって取り囲んでいる中に須賀たちがいるんじゃないでしょうか」


 AM10:00

 法務省や検察庁、裁判所などが集中する霞が関1丁目。

 街角に置かれた自販機の前で、二人の男が缶コーヒーを飲んでいた。ごく普通の勤め人に見えた。

 10時になると男たちは時計を見ながら、ビジネスの約束でもあるかのようにそそくさと立ち去った。

 空き缶を捨てる際、ゴミ箱の裏側に銀色の缶を隠すように置いた。

 誰にも不審を抱かれることのない、自然な動作だった。

 しかしカラスたちの眼は見ていた

 ビルの上から、街路樹の枝から、カラスたちの数十個の眼が、男たちの行動を見逃さなかった。

 置き去られた銀色の缶の周りに、カラスたちが数羽舞い降りてきて「ギョエーギョエー」と喧しく鳴き喚いた。

 どこからか、別の二人の男が現れた。
 銀色の缶を大きな魔法瓶のようなものに入れた。

 一人の男がカラスたちに手をあげた。
「サンキュー、カア公」


 伊能たちは極度に集中していた。
 警官隊のことは完全に意識にない。

 10時を過ぎてから矢継ぎ早に、回収成功の報告が入り始めた。

 約10分の間に、15個が回収された。

 カラスたちの活躍は思った以上だった。
 半分以上がカラスのおかげだった。


AM10:10

「あと5個だ! どこだ? 土岐さん、何か見つからないか?」

「今、もう少し範囲を広げられないかやっているところだ。ところで伊能、屋内ってことはないのか? ビルの中で空調とか狙われたら、カラスたちにも見つけられないぜ」

 須賀の部下が二人同時に叫んだ。
「回収!」

「これで17個。あと3個だ!」
 伊能がそう言いながら時計を睨んだ。

 伊能たちを守るように取り囲んでいるヤクザ達の方で、激しい怒号が聞こえてきた。

 やはり警察には見破られたと伊能は苦笑した。
 しかし怯む気持ちは全く無かった。
 逆に覚悟が決まって、すっきりした気分だった。

――とにかく今は集中しなければ。皆、あと15分持ちこたえてくれ。これが終わったら、刑務所に送られても、死刑になっても構わない。我ながら身勝手に生きてきた俺が、知らない誰かの為に命さえ懸けようとしている。馬鹿臭いと思うけど、俺は俺の人生の中で、初めて正しい事をしている自信がある。意味もなく殺されようとしている人がいたら、精一杯助けようとする。誰が何と言っても、それが正しいことだ。
できれば今の俺を真澄に見てもらいたい……。

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70 出撃

 AM7:00

「出撃じゃ!」
 須賀の声に全員が一斉に立ち上がった。

 須賀の部下が伊能を呼び止めて、紙袋を差し出し中身を見せた。
「昨日、秋葉原で買い集めた衣服の中に混じっていたんですが……必要ないですか?」

 伊能は少しの間黙り込んだ。
 やがて何かを思いついて顔をあげた。
「使えるかもしれない。一応持ってきてください」


 千代田区は、昼間人口と夜間人口の差がもっとも激しい区だ。
 夜間人口(居住者)は4万4000人と23区で最も少ない。
 ところが昼間人口は約19倍の85万人に膨れ上がる。
 その差は約80万人。

 その人数の大部分が、朝の通勤ラッシュに揉まれながら出勤してくる人間だ。

 この朝、その約80万人の中に、千人足らずの偽オタクたちが紛れ込んだ。

 付け焼刃的な扮装なので、相当おかしなものも多い。
 オタクというより、ただの変質者に見えるものもいる。
 それでもヤクザには見えなかったので、全チームが無事に配置についた。


 AM8:30

 霞が関に出勤してきたOLたちが不安そうに空を見上げた。
 無数のカラスが、空を縦横に飛んでいた。
 注意して見ると、信号の上、道路標識の上、自販機の上、ビルの看板など到る所で羽を休めている。

「ねえ、こんなにカラスって多かったかしら ?なんか変じゃない?」

「ホラー映画みたい……気味が悪い」

「まさか地震とか起きないよね?」
 そんな会話を同僚と交わしながら官庁ビルに入って行った。

 他にも不安げに空を見上げる者は多かった。
 しかし、これだけのカラスがいながら、ほとんど鳴き声をあげていないことに気が付いた者は僅かだった。

 伊能たちは日比谷公園にいた。
 大噴水の淵に5人並んで腰かけた。
 さりげなく手を繋いでいる。

「じゃ土岐さんフルパワーで始めましょう!」

 伊能と土岐はそれぞれの異能力を発動させた。
 土岐は嗅覚で、伊能は監視カメラ等の映像から、テロリストのサーチ(探索)を始める。

 希の力が流れ込んでくる。
 伊能も土岐も極限まで能力が高まるのを感じていた。


 帝都大学病院の一室では、困惑する医師を無視して、少年に繋がる全てのチューブを取り外していく母親がいた。

 外し終ると、母親はそっと少年の傍に横たわり、きつく抱きしめた。どんどん冷たくなっていく体を抱きしめ続けた。

 AM9:00

 警視庁に1本の電話が入った。

「サラマンダーの事件で手配されている男が日比谷公園にいる。変な髪形の危ない奴だ。一緒に手配されているヤクザの組長らしき男も一緒にいる」という情報に警察は色めき立った。

「須賀が一緒だとすると抵抗する恐れがある。組員たちが一緒かもしれない。拳銃の携帯、防弾チョッキ、盾の装備など態勢を整えて逮捕に向かえ!」
 即座にフル装備の警官約100名が準備された。

 AM9:20

「伊能! 国会議事堂周辺に、カメラを集中させてくれ!」

 土岐の叫びに伊能は国会周辺のすべてのカメラ映像を映し出した。

「あれだ。中国人風の二人。手にガイドブックらしきものを持っている! 観光客を装っている。一人は長身、小太り、ベージュのジャンパー、紺のズボン。一人は長髪、小柄、赤いセーター、白いズボン!」

 須賀の部下が携帯電話でその方面に連絡する。

「霞が関A―4出口! 日本人2人組。茶髪、中肉中背、黒っぽいスーツ、大きな黒いボストンバッグ、もう一人は灰色の作業服、サングラス、短髪、小柄!」

「東京地検前! 外国人風、イラン人かな。短髪、黒髪、長身、白長袖トレーナー、ジーンズ。もう一人も外国人。同じくイラン人かもしれん。野球帽、紺のジャンパー、紺のズボン、小柄だがデブだ!」

 伊能の見せる映像から、異臭を嗅げるまでに土岐の能力は高まっていた。
 要チェック人物を土岐が次々に特定していく。
 連絡を受けた偽オタクたちは、該当者を発見して尾行を始める。
 伊能の能力と土岐の能力は完全に連動し始めていた。

 AM9:40

「現在までに11組発見です!」
 須賀の部下が叫ぶ。

 何か言いかけて、かかってきた電話に出た。
 電話を終えると蒼白な顔になって叫んだ。

「警視庁近辺に配置したチームから連絡! 警官隊が緊急出動しました! 100人近くの大部隊です。目的地は日比谷公園方面。サイレンを鳴らさずに向かっているとのことです!」

 伊能はちっと舌打ちをした。
「見つかったか! やっぱり警察は敵だな。別動隊を急いで集めて俺たちの周りをガードしてくれ。2、30分食い止めてくれればいい。俺たちは急いでこれに着替えるぞ!」

 伊能は先ほど須賀の部下に見せられた紙袋を指差した。

 中を覗き込んだ万全が歓声をあげた。
「わーい! 戦隊物のコスチュームだ!」

 渋い顔の伊能や土岐と対照的に、万全とタケトは嬉しそうだ。
「これから、異能戦隊サラマンダーのコスプレショーだ! 顔も隠れるしな。別動隊はファンのふりをして俺たちをしっかりと取り囲んでくれ!」

「俺って何色だっけ?」
 土岐に万全が答えた。
「ピンクです!」

「ええええ! 別の色じゃダメか?」
「駄目ですよぉ。決まりですもん」
 苦い顔でピンクのコスチュームを土岐は着始めた。

「うぐぐぐぐぐぐ」
 万全が苦しそうな声を上げた。

 頭を覆うマスク部分に頭がどうしても入らない。
 ボディはぶかぶかなのに。

 伊能が呆れた声を出した。
「なんで、そんなに頭がでかいんだ?」

「あ、頭がでかいのは万全家の唯一の誇りです!」

 10時が迫ってきた。
 そのとき、日比谷公園に警官隊が突入を開始した。

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69 兆し

 その日の朝、YUKIは空を見上げ、やけに多くのカラスを目にして思わず微笑んだ。

 手配は完璧に終えている。
 今日、未曽有のテロが行われ、この国は混沌に陥るだろう。

――カラスは死者の出るところに集まってくる。素晴らしい兆しだわ。

 AM5:00

「最後の確認です」
 伊能が須賀の4人の部下を含めた全員の前で話し始めた。

「須賀さんの部下、待機組を除いた880名。これを2名ずつ440組のチームに分けました。このうち400組は先ほど説明した通りの場所に待機してもらいます。現場到着は8時30分」

 伊能が指したホワイトボードには、永田町20組、霞が関20組、丸の内20組など地域別の動員数。国会議事堂、首相官邸、検察庁、法務省など建物別の動員数など細かく記してあった。

「武器の携帯については最後まで悩みましたが、敵2名に対してこちらも2名で当たることを考えれば、やむをえないという結論に達しました。ただし目的はテロリストを捕えることではありません。所詮彼らはこのテロだけに雇われた者にすぎません。目的はGBという生物兵器の回収です。回収方法については――」
 伊能は再びホワイトボードを指した。

「缶の上部にある赤いスイッチ。これが押し込まれている状態がONの状態です。これをつまんで引上げる。それでOFFになります。目覚まし時計と同じ、単純な構造です。ただし念のため各チームで用意した大型の密閉型ポットに必ずしまってください」
 伊能は言葉を切って、皆の顔を見渡した。

 どの顔も決意に満ちていた。
 万全ですら凛々しく思えたほどだ。

「行動時間は10時20分まで。10時20分になったら速やかに退避行動を取ってください。基本的には地下鉄で、地上は危険が大きくなります。俺と伊能さんは別々に行動したほうがいいと最初は思いましたが、俺たちが繋がることでの能力の増幅を考えて、一緒にいることにしました。俺たちがいる、いわば作戦本部は日比谷公園に置きます。残る40組80人の方には、別動隊としてそれぞれオートバイで各所に待機してもらいます」

 ふと窓から外に目をやって伊能は「あっ」と声を上げた。
 皆が一斉にその方を見た。

「凄い……」
 全員が一斉に同じ呟きをもらした。

 タケトは窓際に駆け寄って声もなく見つめている。

 外は明るみ始めていた。
 遠く千代田区のある方向の空に、無数の黒い点が固まって、そこだけ真黒な雲がかかっているように見えた。

 伊能は力強く言葉を続けた。
「特にカラスに注意するように! カラスが騒いでいたら、すぐにその場所へ行ってください。最後に隊長から一言お願いします」

 須賀が少し照れくさそうに立ち上がった。
「えー、おほん」と咳ばらいをしたとたん止まらなくなった。

「えーほ! えほげほげほほほへええへへへ!」
 ひとしきり咳きこんでから、急に真顔になって言った。

「本来は希君から何か言ってもらうべきなんじゃが、その時に備えて希君には力を溜めてもらっておる。わしからは一言だけ!」

 須賀は80歳を超えた老人とは思えない気迫を籠めて全員を見回した。
「正義の力じゃ!」

 須賀はひとり感極まった顔になった。

「討ちてしやまん! 鬼畜米英じゃ! 断じて事を行えば、鬼神もこれを避けるじゃ! 欲しがりません、勝つまでは! 一人一殺! 毒を食らわば皿までも!」

 伊能が慌てて須賀を止めた。
「とにかく……まあそんなことだ! 皆、いっちょう、やったろうじゃないか!」

 おお!というウォークライが響き渡った。
 時刻は6時に近付いていた。

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68 前夜

 伊能たちが部屋に戻ると、須賀の4人の部下たちがひっきりなしにかかってくる電話と格闘していた。
 オタクに変装せよとの指示にとまどった、ヤクザ達からの電話だ。

 たちまち伊能たちも巻き込まれた。

 一人が叫ぶ。
「伊能さん! つるつるに頭を剃っていて、でかい蜘蛛の刺青を入れてる奴がいるんですが、どうしましょう?」

「帽子、野球帽をかぶってください!」

 別の男が叫ぶ。
「鰐皮のスニーカーはダメですか?」

 万全が答える。
「だめです! 普通のにしてください!」

「右手の指が1本、左手の指が2本足らないんですが?」

 土岐が苦笑いしながら答えた。
「手袋してください。アニメキャラ付きの!」

「顔に大きな切り傷が……ちょっと待ってください……おう、何? バッテン? ああ、そりゃひでえな。すみません顔にバッテンの大きな切り傷があるんですが?」

 伊能たちは顔を見合わせた。
「待機!」

 男は肯いて電話に向かった。
「お前は待機だ! 外には出るな!」

「女装はダメですか? 本人の趣味らしいんですが?」

 伊能がため息をついた。
「その人の体格は?」

「はい、いま聞いてみます。お前、ガタイは? なにい! 195センチ、120キロ?」
 伊能が呆れて手を振った。
「だめだめ! 待機!」

 須賀が叫んだ。
「破門じゃ! なんじゃ女装趣味とは! うつけ者め!」

 伊能が土岐に向って言った。
「土岐さん、ちょっとここ任せていいですか? 俺は明日の配置を考えますんで」

「ああ、まかせろ」

「タケトと万全も頼むな」
「はい!」
 タケトが元気良く返事した。
 万全は何か不満そうだ。

 伊能は言い直した。
「頼むぞ、レッド!」
「はい!」
 万全が誇らしげな表情で返事をした。

 帝都大学病院の一室では、目覚めぬ少年の手をさすり続ける母の姿があった。

「危篤状態と考えてください」
 医師がためらいがちに言った言葉は、まるで聞こえていないようだった。

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67 百万羽のカラスと千人のオタク

 希からテロ計画の全貌を知らされた後、しばらくだれも発言できなかった。

「バイオテロってやつか……」
 伊能が呻くようにつぶやいた。

「これは……俺たちじゃどうしようもない」
 土岐がそう言いながら時計をちらりと見て、先を続けた。
「おおよその場所が分かったとはいえ、明日の午前十時に千代田区内20か所で一斉に生物兵器の拡散が始まる。しかもそれが小さな銀色の缶だ。今が午後3時、たった19時間後だ。警察や自衛隊に動いてもらうしかないだろう?」

 伊能が首を振った。
「それは二つの理由で出来ません。まず、この話をどうやっても、国家権力に信じさせることができないということです。情報の入手経路一つとっても、希君の存在をどう説明します? ましてや俺たちは立派なお尋ね者です。もう一つは、こちらがより重要ですが、なんとか信じさせて国家権力を動かせたとします。テロリストたちは警戒態勢を見れば、動かないでしょう。そしてまったく俺たちの予想もつかない時、予想もつかない場所でテロを決行する。20個の生物兵器をすべて回収するチャンスは明日しかない。しかも俺たちだけで、むしろ警察は邪魔になるだけの敵と考えたほうがいい」

「しかし……どうやって……」
 土岐と万全が同時に言った。

 伊能も腕を組んで黙り込んだ。
 重い空気の中、須賀の部下がコーヒーを運んできた。相変わらずオタクの格好のままである。

 コーヒーを受け取りながら、伊能がはっとした顔になった。
「須賀さん! この前須賀さんが招集した、潜行しているという千人の組員はどうなっています?」

 須賀が怪訝な顔つきで答えた。
「まだそのままじゃ。わしの組への警戒が強くて、動くに動けんのじゃ」

「よし! それではその方々を戦力にしましよう」

「いや、しかし奴らが動けばすぐに逮捕される……」

 伊能がコーヒーを配る須賀の部下を指差した。
「その人たち全員にオタクになってもらいましょう。この前オタクに扮した4人の方にも指南役をつとめてもらいます。あまり同じ恰好ばかりじゃおかしいので、万全にバリエーションを考えさせましょう」

「え? ぼ、僕が? できるかなあ……」
「お前が普段する格好を教えてやればいいんだ」
「あ、そうか」
 照れ笑いを浮かべる万全をよそに、須賀は早速部下に指示を与え始めた。

「今夜中には全員準備させます。明日はどう動かせば良いのでしょう?」

 血色のよくなった須賀に伊能は力強くうなずいた。そして土岐のほうを見て言った。
「土岐さん、俺はこのところ妙に能力が強くなっているのを感じているんですが、土岐さんはどうです?」

「確かに、俺もそう思っていた。以前は近くの人間の匂いしか感じられなかったのが、今は相当広い範囲、おそらく半径100メートル以内の異臭なら嗅げると思う」

「俺と土岐さんの能力をフルに発揮して、テロリストの位置を特定する。ある程度生物兵器が置かれる場所は分かっていますから、あらかじめその周辺に配置した須賀さんの部下に回収してもらう」

 土岐が険しい顔になった。
「生物兵器のスイッチが入れられるのが午前十時。噴霧開始がその30分後……僅か30分足らずの時間で全部を発見できるか? どう考えても無理だと思うぞ」

「あ!」
 それまで黙りこんで膝を抱えていたタケトが突然大声を出した。

「カラス!」
 皆気味の悪そうな顔つきでタケトを見た。

 タケトは一人興奮して話し始めた。
「僕、この前警察病院でカラスの王様と友達になったんです」

「ああ! 言ってたね!」
 万全がうれしそうに言った。

 伊能は疑い深げに「それで?」と訊いた。

「そのときに王様が言ってたんです。もし助けてほしいことがあったら、100万枚の光るコインと100万個の光る玉を持ってこいって」

 伊能はますます渋い顔になった。
 しかしタケトは気にする様子もない。ますますニコニコとして言った。
「これは説明するよりも、実際に見てもらったほうがいいですね」

 タケトはパソコンに向かって何か操作を始めた。
 しばらくするとプリンターが動き出し、1枚の紙を吐き出した。

「なにそれ?」
 万全が興味しんしんで覗き込んだ。

「千代田区の航空写真です。じゃ皆さん、屋上に行きましょう!」

 訳のわからないまま、タケトの勢いに押されて全員が屋上に上がった。

「おい、何をする気だ?」
 たまりかねて伊能がきいた。

「今からカラスの王様を呼びます」

「だ、だってお前100万枚の何んとかはどうすんだ?」

 タケトはズボンのポケットから数十枚のパチスロのメダルと一つかみのパチンコ玉を取り出して見せた。

「なるほど、しかし数が全然足りないぞ」

 タケトは悪戯っぽく笑った。
「何かで読んだんですけど、カラスって3までしか数えられないんですって。きっと大丈夫ですよ」

「そ、そんな無茶をして王様が怒ったらどうすんの? 僕、突かれるのは嫌だなあ」

 タケトは万全の震え声など聞こえなかったように、空を見上げながら言った。
「皆で繋がると能力が強くなるし、同じことを体感できるんですよね? じゃあ、手を繋ぎましょう」

 須賀、伊能、土岐、万全、タケトの5人が手を繋いだ。
 タケトにならって全員が空を見上げた。

 一羽のカラスが見えた。
 タケトが鳴いた。
 カラスそのものの声で。
 しばらくしてそれに呼応するかのようにカラスの鳴き声がきこえた。
 何も起こらない。

 万全はそっとタケトの顔をのぞき見た。
 タケトの目が鳥のように表情のない真っ黒な目になっていた。
 あわてて目をそらす。

 日の落ちていく方向の空に、ポツリと黒い点が現れた。
 その点は一直線に悠然と、しかし物凄いスピードで向かってきた。
 見る見るうちに影は大きくなる。

「わ、鷲だ……」
 万全が怯えた声をあげる。

 伊能は羽ばたきの風を頬に感じた。

 目の前に見たこともないほど巨大なカラスが舞い降りていた。
 翼のさしわたしが1メートルはゆうに超えるように見える。
 太く巨大な嘴、威圧的な鋭い眼。
 まさにカラスの王の風格だ。

 タケトが鳴いた。
「王様にお願いがあります」
 皆にはそう聞こえた。

 カラスは首を傾げるようなしぐさをした。
 そして首をのばして、タケトを訝しげな眼で睨んだ。
 伊能たちのことは眼中にないといった風に見える。

 カラスの嘴がわずかに開いた。
「お前か。百万枚の光るコインと百万個の光る球は用意したのか?」
「はい、ここに」

 タケトはカラスの前にパチスロのコインとパチンコ玉をありったけ置いた。

 ギョロリとカラスの目玉が皆を睨んだ。
 万全は思わず目を伏せた。
 完全に位負けしていた。

 カラスはのしのしと置かれた物の周りを歩いた。
 そして一つ、二つといった風に嘴でつつき始めた。
 5個まで数えたところで、ふいに顔をあげて凶悪な目でタケトを睨んだ。
 鋭い嘴を大きく開いた。

「確かに! 百万枚の光るコインと百万個の光る玉受け取った! 私への願いは何だ?」

 タケトは航空地図をカラスの前に広げた。
「ここが僕と王様が初めて会った病院です。分かりますか?」

 カラスは首を伸ばして地図を覗き込んだ。
「もちろんだ」

「明日一日、この地図の範囲内で、このコインと同じ色の缶を置き去るものを見つけて欲しいんです。見つけたらその場所で鳴き続けてください。王様の全ての家来にお願いしたい」

「そんなことか。分かった。簡単なことだ」

 伊能がタケトに囁いた。
「いったい何羽位家来がいるのか聞いてくれ」

 タケトが訊ねると、飛び立とうとしていたカラスの王様が答えた。

「百万羽だ」

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66 折れないココロ

「ぬかったわ!」
 丸一日以上、こんこんと眠り続けていた須賀が、喚きながら寝室を飛び出してきた。

 三上が炎に包まれる、わずかに前のことだった。

 居間には万全一人がぼんやりとテレビを見ていた。
「お、万全さん、皆さんはどこじゃ?」

 万全は、泣きそうな顔で須賀を見つめた。
「伊能さんと土岐さんは昨夜別々に出かけたきり戻ってきません……タケトはパチンコに行くとか言って今朝出て行きました。もう……皆戻ってこないんじゃ……」

「うぬぬぬぬぬぬぬぬぬ……」
 須賀の顔が真っ赤になった。
「ぬかったわ! わしが年寄りだから気を使いおって! 希君も、他の皆も!」

「の、希君?」
 訳が分からず、万全は須賀のボケが始まったのかと思った。

「希君もいないのじゃ! わしの中に自分のカケラを置いて、外に出ておるんじゃ。おそらく、敵の手がかりを必死で探してるんじゃろう……おそらく伊能さんたちも……」


 伊能は、マンションの屋上にいた。
 両手を高く空に突き上げ、くるくると回っていた。

 昨夜から一睡もせずに、千代田区中のありとあらゆる監視カメラをチェックして、YUKIの姿を探していた。

「俺はなんでこんなことをやっているんだ! 誰が死のうと関係ねえ! ましてや腐った官僚どもが減るなら結構じゃねえか! 畜生、頭がどうにかなりそうだぜ!」

 伊能はそう喚き散らしながら、能力がどんどんパワーアップしていくのを感じていた。恐ろしいほど数多くの映像が鮮やかに脳裏に浮かび、それを瞬時に識別できるのだ。

 その中に土岐の姿を何回か見つけていた。
 土岐は霞が関や秋葉原の人ごみの中で、一人立ち止って顔をあげ、目をつむって何事かに集中していた。
 土岐もまたYUKIの匂いを探しているのだと伊能は思った。


 希はネットの海に、自分を拡散していた。

 残り少なくなってしまったと感じる自分自身を、さらに拡散するのは怖かったが、パパやママを救うためだと思ってすべての勇気を振り絞った。

 今までとは比較にならないほど大量のデータが流れ込み、もはや希は自分が破裂する極限状態にいると感じていた。

 破裂したら、その後どうなるのか分らなくて、希は絶叫したいほどの恐怖に囚われた。

 そのとき希の拡散した極小な一部が、三上の発信した「願い」に接触した。
 希は一瞬で「願い」の内容を読み取り、再び自分を一つにまとめた。

 希は呼びかけた。
「異能戦隊サラマンダー! 大至急集合してください! 全てが分かりました!」

 伊能はピクリと反応して回転を止めた。しばらく動けないのがもどかしかった。

 土岐は日比谷公園でベンチに座って目を瞑り、人々の匂いを嗅いでいた。その目がはっと見開いた。

「やったか! 希君!」
 伸びた不精ひげを撫でながら、嬉しそうに立ち上がり、タクシーを拾いに通りへ向かった。

 タケトはパチスロをやっていた。
 突然びくっと体を震わせると、店員が見ていないのを確認してパチスロのコインをポケットに詰め込んだ。


 須賀はオタクの扮装をしたままの部下たちに大声で命じていた。
「飯の支度をせい! 腹が減っては戦も出来ぬからな。みんな腹を減らして帰ってくるじゃろう!」

 すっかり元気になった須賀を見て、万全の顔にも生気が戻った。
「あ、僕髪型セットしなきゃ!」
 いそいそと万全は鏡の前に座った。

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65 末期(まつご)の願い(2)

 母屋に足を踏み入れた時、三上の顔は仮面のように強張っていた。

 家屋敷すべての売買契約は完了している。
 その代金のほとんどがテロに費やされた。

 唯一の使用人だった老婆は、三上からたっぷりの慰労金を貰い、昨日、孫のもとへ去って行った。

 三上はゆっくりと無人の母屋の中を歩いた。
 全てに別れを告げる儀式なのかもしれない。

 長い廊下の突き当たりに、祖父の使っていた書斎があった。
 祖父が死んで以来、三上はこの部屋にだけは入ろうとしなかった。
 使用人にも、この部屋への出入りを固く禁じてきた。

 ドアの前で三上は一瞬立ちすくんだ。
 しかし意を決したように、ドアを開いた。

 むっと埃臭いにおいが押し寄せてくる。

 広い書斎の中ほどに、祖父のお気に入りだった大きな樫の机が据えられている。かろうじて空間らしきものがあるのは、机の上だけで、壁際の大きな書棚から溢れた書籍類が、床のほとんどを埋め尽くしていた。

 机の上には書きかけのレポートと、参考資料らしきものが高く積み上げられていた。

 祖父の愛用の万年筆を見て、三上はポケットにしまった。

 そのとき、レポートの下から封書が覗いているのが見えた。
 取り出してみると、きちんと封がしてあり、宛名は「聖へ」となっている。

 三上はその封書も背広のポケットにしまった。

 庭に下りると、邸内の私設研究所に向かった。
 中に入り自分のデスクに座った。

 こんなとき、煙草の一本でも吸えればよかったのにと、苦笑いを浮かべた。

 無菌室の冷蔵庫から、銀色の缶を取り出した。
 そして完全密閉された空間の中で、赤い起爆装置を押した。
 これで30分後には、自分の体でGB(GOD BLESS)の威力を確認できる。

 すでに研究室は外側から完全にロックされている。
 あまり苦しむのは嫌なので、5時間後には大量の火薬とガソリンによって、跡形もなく燃え尽きるようにセットしてある。

――これで終わりだ……
 椅子に座っていたら、少しうとうとしてしまった。

 目が覚めたのは、缶がシューと音をたてて薄い霧のようなものを発射し始めた音でだった。

 匂いはない。吸い込んだ感じでも特に違和感は感じなかった。
三上は腕時計を外して、時間の経過による症状の変化を書きとめようとした。

 さっきポケットに入れた祖父の万年筆を使うことにした。
 そのとき同じようにポケットに入れた祖父の手紙に気がついた。

 三上は丁寧に手紙の封を切った。
 便箋には懐かしい祖父の力強い字が書かれていた。

 時折文字が乱れているのは、余程焦っていたのかもしれない。
 おそらく自分を裏切った官僚どもへの血を吐くような怒りが綴られているのだろうと思いながら、三上は祖父の手紙を読み始めた。

 
『聖へ
 今回のことでは、お前たちにまで大変な迷惑をかけてしまった。全ては私の科学的な先見性の無さに起因している。少しの権威を鼻にかけて、新しい事態を見ようとしなくなっていたのかもしれん。今、目の前にいる患者を救うことばかりに目が行ってしまった結果がこれだ。聖よ、官僚どもを恨んではならんぞ。あれらは、ああいう生き物なのだ。なんとか責任を回避し、失点を最小限に抑える。友人でも仲間でも、引っ張れる足は引っ張る。そしてひたすら組織のヒエラルキーの上を目指す亡者のようなものなのだ。我々は科学者だから、責任の回避はできない。人の命という最も大切なものを扱っているのだから尚更だ。聖、私がいま一番悲しいのは、お前にだけはこんなにみじめな姿をさらしたくなかったことだ。私の失脚により、お前もつらい学究生活になるかもしれんが、どうか三上家の誇りを抱き続けてくれ。聖、覚えているか?お前が5,6歳のころカブトムシを庭で飼っていたよな。紐で繋いであったのだが、ある日寿命だったのか、死んでぶら下がっておった。お前の悲しみ様といったら大変だった。聖、お前は寂しい育ちだったが、優しい心を持っている子だ。いつか大きな研究を成し遂げて、私の汚名をすすいでほしい。お前と過ごした時間は、私にとって何にも代えがたい時間だった。私の孫に生まれてくれて、本当にありがとう。心から、ありがとう』

 読み終わっても三上は、ぼんやりと手紙を見詰めていた。

 突然、胸の奥から押し出されるような咳が出始めた。
 時計を確認する。
「30分で肺炭疽の初期症状か。相当早いな……」

 露出している皮膚を調べる。
 手、首筋にうす赤い斑点のようなものが出ている。
 体温は37,2度。微熱だ。

 三上は、祖父の手紙にひどく動揺を感じていた。
 だがもう後戻りはできない。
 たとえ計画を中止しようと思っても、YUKIへの連絡方法もない。第一この部屋は完全密閉すると、携帯電話は使えない。

 椅子に掛けた上着のポケットがチカチカ光っていた。
 外にいる時に受信したメールだ。
 別居中の妻貴子からだ。

 貴子には明日、帝都大学に来るようにいってある。
 離婚届に判を押してやると言ったら、二つ返事だった。
 三上にとって一人息子の尊(たける)を奪った憎い女でしかなかった。帝都大学は高濃度の炭疽菌が撒かれる予定だ。

 メールを開いた。
 思わず立ち上がった。
 その瞬間ひどくせき込んだ。
 口を拭ったティッシュに赤い血痕が残った。

{明日予定通り10時に伺います。学生会館のカフェですわね。書類はこちらで用意いたしますので、あなたは印鑑を忘れないように。それから、あなたに会うことを、うっかり尊に言ってしまったの。そうしたら、幼稚園休んで一緒に行くってきかないの。なにがなんでもパパに会いたいって泣くから、今回だけ特別に連れて行きます。なんか買って手なずけないで下さいね。それでは}

 尊が来る!

 三上は慌ててメールの返信を打ったが、電波状態が悪くて送信できない。パソコンから、と思って貴子のアドレスを携帯電話で見ようとしたら、電池切れで画面が真っ暗になってしまった。

「くそ!」
 怒りにまかせて机を叩こうと腕を上げたら、肩甲骨から肩にかけて激しい筋肉痛に襲われた。
 さらに猛烈な腹痛が起きたと思ったら、突然噴水のように嘔吐した。

「外部と連絡が取れるのは、パソコンだけか……」
 しかし、すでに両手の指までが強張りはじめていた。

 再び嘔吐。
 今度は真っ赤な血液だった。
「早い、いくらなんでも早すぎる」
 三上は生まれて初めてパニックに陥っていた。

――三上家の誇りを……
――私の汚名をすすいでくれ……
――人の命という最も大切なもの……

 三上は狂ったような眼で時計を見た。
 あとどれだけの時間が残されているのだろう?

 強張りはじめた指をこじ開けながら、三上は猛烈な勢いでパソコンに向かい始めた。

――このメッセージを拾ってくれ!気が付いてくれ!頼む、俺のバカげたテロを阻止してくれ!異能戦隊サラマンダー!

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64 末期(まつご)の願い

 テロを翌日に控えて、三上は満足げに自宅の庭を散策していた。

 須賀の殺害に失敗するなど、小さなミスはあったが、それも結果としては警察権力が、奴等の動きを封じる結果になってくれた。

 実行部隊のリーダー役のYUKIも失敗に恥じる風もなく、ひたすらにテロの確実な成功に向かって集中していた。

 つい先ほど、YUKIに細菌兵器と指示書を渡した。
 三上は須賀のことには一切触れず、全ての報酬をすでに振り込んだことと、短い感謝の言葉を呟くようにいった。

 全額が前金で貰えたことに、YUKIは驚いたが、受け取った大きなボストンバッグの軽さにも驚いた。

 バッグの中身は、テロに使われる細菌兵器が20個。

 全て、床に置くタイプの噴霧式殺虫剤を、三上が手作りで改造したものだ。高さ15センチ、太さが直径15センチほどなので、ずんぐりした小さな銀色の缶だ。

 トップに赤い小さな突起があり、それを押すと30分後に噴霧が開始される。

 自動販売機の横とかに置いても誰も気にしないだろうし、ちょっと雑草でも生えていれば、容易に姿を隠すこともできる。

 あまりの軽さに何も入ってないように思えるほどだが、中には1グラム当たり五千億個の炭疽菌が詰められている。

 伝染性こそ付与できなかったが、発症スピード、致死スピード、100パーセント近い致死率を達成した。

 三上は文字通り自分の全てであるこの小さな菌に{GOD BLESS 神の祝福}と名づけた。
 明日、神の息吹が本物の地獄を出現させるだろう。

 ――私がやることは、あと一つ――
 母屋へ向かおうとしたとき、あるものが目に飛び込んできた。

 最初に見えたのは小さなシーソーだった。
 木立の隙間から、それは見えた。

 三上は邪魔な木の枝をかいくぐりながら、そっちに向かった。
 ようやくその場所にたどり着いた。

 三上は立ち尽くしたまま、目の前に広がる光景を見つめていた。
 遠い昔、この場所は三上のもっとも大切な場所だった。

 もう何十年も来ていなかったが、ここにある全てのものが、自分を待っていてくれたのだと感じた。

 新品でピカピカ黄色に輝いていたシーソーは、今ではペンキも剥げ落ち、木も腐っていたが、それでも三上に「乗ってごらん、きっと楽しいよ」と語りかけてくる。

 ブランコも滑り台も、サッカーの練習に使ったネットも、ボロボロになっていたが、ちゃんとそこにあった。

 ここは祖父の聖一郎が、三上のために作った公園なのだ。

 両親も無く、友達もいないらしい三上のために、聖一郎が独力で作った公園だった。

 肉体労働の経験の無い聖一郎にとって、木の伐採から始まる作業はつらかった筈だが、使用人たちが手伝おうとしても決して許さなかった。

 いつも背広姿のお爺ちゃんが、たまの休みにはランニングシャツ一丁になって、ふうふう言いながら泥だらけで笑っていたのを思い出す。

 だが、いつまでも完成しないので、三上も関心を失っていった。

 確か5歳のクリスマスのことだ。

 普段より一段と慌しく働いて、三上の相手もしてくれない祖父に腹を立てて、三上は一人で絵を描いていた。

 外は薄暗くなってきた。
 ケーキとか買ったのかな、と心配になったころ「聖! 聖! ちょっと来てみろ!」と祖父の大声が玄関から聞こえてきた。

 走っていくと、泥だらけの祖父が、見たことも無いような笑顔で笑っていた。

「さあ来い! さあ、早く早く!」
 手を引っ張られるように、三上も走った。

 祖父の手が妙にごつごつして傷だらけだった。

 夢かと思った。
 あるいは魔法か何かだと思った。

 小さな三上にとって密林みたいだった木立のなかに、まん丸の小さな公園が出来上がっていた。

 ブランコもシーソーもジャングルジムも見たことが無いくらいピカピカ光っていた。

 小さな砂場と池まであって赤い魚が何匹も泳いでいた。

 可愛らしい絵の描いてある小さなベンチに、祖父は腰を下ろした。
「どうだ? お爺ちゃんのクリスマスプレゼントだ。お前だけの公園だぞ」

 三上は目を丸くした。
「僕だけの? 本当に僕だけの? じゃ、僕がここの王様?」

 祖父は聖の冷え切った両頬を優しく挟んで肯いた。
「そうだ、お前が王様だ。お前が許してくれなきゃお爺ちゃんだって勝手にブランコにのったりできない」

 もう相当暗くなっていたが、さっきからむずむずしてくる衝動を抑えきれなくなった。
「じゃ、お爺ちゃん、遊んでみていい? いいでしょ?」

「もちろん、いいさ。お前が王様だ。好きに遊びなさい」

 もう夢中で遊んだ。
 意味も無く笑えてしょうがなかった。

 いつしか真っ暗になって、空からチラチラと雪が降り始めて、祖父は三上に声をかけた。
「王様! ご飯の時間だよ。さあ、帰ろう!」

 三上は滑り台のてっぺんで、ちょっとべそをかいた。
「これ、明日もある? 消えない?」

 祖父は豪快に笑った。
「この公園はずーっとお前のものなんだから、安心しなさい」

 そして、いつもの言葉を言った。
「お前は何も心配することはないんだよ」


 あのとき祖父が座っていたベンチは子供用の小さなものだった。
 だいぶ朽ち果てていたが、なんとか腰を下ろすことができた。

 無性にタバコが吸いたくなったが、持ってきていなかった。
 そこらの木の陰から、祖父が出てきそうな気がした。

 三上は何かを振り払うように、激しく何度も頭を振った。
 落ちている木の葉を拾ってしげしげと眺めた。
 小石を蹴った。

 とにかく、自分が泣いていることだけは認めたくなかったのだ。

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63 セイギって何?

 はうあ!と言って万全がいきなり立ち上がった。

 目がイッちゃてるので、とりあえず無視しようと伊能は思った。
 考えることは皆同じのようで、タケトも急に寝たふりをしているし、土岐はトイレに行ってしまった。

 伊能は顔を伏せて、自分の手相を真剣に見つめるふりをしたが、万全の視線の圧力に耐えかねて顔を上げた。

 万全の目がすがるように絡みついてくる。
 物凄く器量の悪い野良犬みたいな目だ。

 ため息をつきながら、伊能は仕方なく訊ねた。
「どうした?」

「ここ何日か、会社に欠勤の連絡するの忘れました。どうしよう! きっと皆心配してます。僕がいないと分らないことも色々あるのに……」

「心配ならお前のケータイに連絡してくるだろう? それよか、ニュースでお前を見て、パニくってるんじゃないか?」

 物凄く器量の悪い野良犬が、悪い病気にかかって死にかかっているような目になった。

「そ、そうです! あわわ、大変だ大変だ大変だ。電話しなきゃ、部長が怒る! 課長がキレる! 課長代理が怒鳴る! 係長が呆れる! 主任が……主任は笑うか?」

 一瞬考え込んで「そんな事より電話、電話!」と言いながら、あたふたとケータイを取り出した。

 突然普段より200%明るい声で喋りはじめた。

「あ! 万全です。あ、係長ですね? いや、あれこれとありまして、連絡が遅れて申し訳ありません! ちょっと立て込んだ事情がありまして……は? いや、あら、そんな一言でですか? はい、はあ、時間がないですか……警察? はあ、あの、そりゃまたご迷惑を……いや、あの、僕は無実です! 純潔です! 潔白です! 信じてください……はい? 部長? 部長に代わるんですか? は、はい! あ! 部長! なんか変な誤解とか、もういやんなっちゃいます。何をしておるんだと言われましても、僕のほうが聞きたいくらいな感じでして。はあ、あ! それは分ってます! 実はですね、全てはセイギのためなんです! え? あ? ちょっと、お、お待ちなせえ……」
 電話を切られたらしく、万全は呆然とケータイを見詰めている。

「どうした? なんて言われたんだ?」
 さすがに可哀想になって、伊能は少しは情をこめて声をかけた。

 万全の目が伊能に向けられた。
 物凄く器量の悪い野良犬が、悪い病気で死ぬ寸前に気が狂ったような目だった。

「僕がセイギのためですって言ったら……部長があきれ果てたような声で、言いました。セイギ? ああそうか。お前はクビだ、二度と会社には来るな。電話も許さん。この、度し難きバカ者め……ってどういう意味ですかね? なぜ怒るんだろう? あ、もしかすると、部長って悪なんですかね?」

 万全はしきりに首をひねりながら「会社に来るな。電話も許さん。これからどうやって仕事をすればいいんですかねえ」と途方に暮れたように呟いている。

 伊能は立ち上がって、万全を励ますように肩を叩いた。
「もういいんだ。会社には行かなくていいんだ。何かいい仕事を紹介してやるよ。お前は正しいことをした。俺たちもだ。誰にも理解されない、何の利益もない、ただ誰かを助けるために命を懸ける。だからこそセイギなんだ。ねえ、そうだろ?」

 いつの間にか土岐とタケトも万全の周りに集まっていた。
 少し照れたような顔で、万全は笑った。
「そうか、僕、クビになったんだあ……なんか人生ゲームみたいだな……全然予定してなかったから驚いちゃった。あはは」
 万全の小さな目に涙が光っていた。

 少し器量が悪いが、愛嬌のある子犬のような目だった。

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62 目覚めぬ眠り

 止めるのも聞かずに外に飛び出した万全とタケトは、雨に打たれたずぶぬれの姿で帰ってきた。

「大声で叫んだのに、姿を見せてくれなかった……」
 しょんぼりと肩を落とす二人に、伊能たちが沈痛な目を向けた。

「希君も相当危険な状態らしい。病室には面会謝絶の札が下がり、医師や看護師がひっきりなしに出入りしているそうだ。中がちらりと見えたそうだが、小さな体から何本ものチューブが出て、機械につなげられているらしい……」

 土岐は黙って立ち上がり、窓際に行くとじっと暗い空を見つめた。
 須賀は、希の影響か、こんこんと眠り続けている。

 ずぶ濡れのまま立ちつくす万全とタケトに伊能が声をかけた。
「二人とも暖かいシャワーでも浴びてこいよ。風邪をひくぞ。万全、お前水から上がった河童みたいだぞ」

 万全は口を尖らせて、伊能に何か言い返そうとしたが、再び肩を落としてシャワー室に向かった。

 静まり返った部屋に、雨音だけがやけに大きく響いていた。


 YUKIの勝ち誇った声が二宮の脳に鳴り響く。
「これで分かったでしょ。あなたはもともと存在していないの。私の妄想なの。私の中に生まれた、取るに足らないような人格」

 二宮はもう何度目になるのか、あの恐ろしい映像が脳裏によみがえるのを見せられた。目をつぶっても見えてしまう恐ろしい映像。

 タケトの喉を自分の手がすっぱりと切り裂いていく。
 恐怖に見開かれたタケトの目。
 あふれ出す真っ赤な血。
 狂ったように笑いが止まらないのは、まさに自分だった。

 二宮は頭を抱えて座り込んだ。
 雨に打たれて蹲る二宮に気がつく人はいない。

 このまま消え去ってしまいたかった。
「分かった。僕は消える。僕は消える。僕は消える……」

 数分後、すっくとYUKIが立ち上がった。
 服装は二宮のままだが、明らかにYUKIだった。

 周りに誰もいないことを確かめて、YUKIは声を上げずに哄笑した。愉快でたまらないといった様子だ。

 アイデンティティの希薄な二宮が、図書館の古文書を読んだ拍子に憑依された生身剥ぎ(ナマハゲ)とかいう化け物も、サラマンダーの馬鹿げた連中に撃退されてから姿を現さなくなった。

 二宮が目覚めることも、もうないだろうと確信できる。
 ついにYUKIは完全な体と人格を手に入れた。

 3日後に迫る史上空前のテロを思うと、YUKIの体はかつてどんな薬物でも、SEXでも得られなかった興奮に震えた。

 雨はひときわ激しくなって、やがてYUKIの姿を覆い隠してしまった。

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61 佇む人

 土岐はずっと窓から外を眺めていた。
 希の容態を確かめに行った男たちの帰りを待っているのだ。

 空は嫌な色の厚い雲に覆われて、今にも雨が降り出しそうだった。

 須賀はまた眠っている。
 タケトと万全はテレビの前でなにやら騒いでいる。
 どうやら万全がブラジャーはずしの技を見せているらしい。
 伊能は煩げに眉をひそめながら、何か考え込んでいた。

 土岐はひっきりなしにタバコに火を付けていた。
 病室で見た、希の青ざめた陶器のような頬が脳裏に浮かぶ。

――あの子を救えるのなら、俺のくだらない人生にも意味ができるかもしれない。
 同じことばかり考えていた。

「土岐さん、まだ雨は降りませんか?」
 伊能がそう言いながら、土岐の隣に来て空を見上げた。

「そろそろだな」
 土岐が言ったとたん、大粒の雨が音を立てて落ち始めた。

「あ、帰ってきた」
 伊能がマンションから少し離れた場所で止まったタクシーを指差した。

 4人の男たちが降りてくるのが見えた。
 用心してマンションの前までは来なかったようだ。
 練習したとおりの歩き方で、4人のオタクがこちらに向かってくる。
 雨など気にしていない様子の、妙に堂々としたオタクだった。

 伊能が苦笑した。
「雨が降るのは想定外でした。雨が降ったら紙袋のポスターが濡れないように、抱きかかえて走ってこなければ……」

 男たちがマンションの中に入るのが見えた。
 伊能は玄関に向かった。

 ふと、土岐の様子がおかしい事に気づいた。
 土岐は食い入るような目で、外を見つめていた。

 そして、いきなり窓を全開にした。
 激しさを増した横殴りの雨が、容赦なく室内に入ってくる。

 土岐は体を乗り出すように、一点を見つめている。
 伊能は土岐の見つめる先に眼をやった。

 マンションの向かい側に立つ1本の電柱の脇に、雨に打たれてぼんやりと人の姿が浮かび上がっていた。
 眼を凝らすと、次第に明確な人の姿になった。

 二宮だった。
 いつからそこに佇んでいたのか、二宮の姿は悲惨なほどやつれきっていた。

「二宮!」
 思わず伊能は叫んだ。

 万全とタケトも窓際に駆け寄ってきた。
 土岐はほとんど落ちそうなほど身を乗り出している。

 伊能が「土岐さん、危ない」といって土岐のベルトに手をかけた。
 土岐は二宮の感情の匂いを嗅ごうとしていた。

 二宮の目が土岐の眼をしっかりと捉えた。
 二宮の目はあふれる涙で一杯だった。
 青ざめた唇が震えながら、何かをつぶやいたように見えた。

 伊能がもう一度、二宮の名を呼ぼうとしたとき、そこにはすでに二宮の姿はなかった。
「土岐さん、二宮はなんて言ったんだろう?」

 土岐はひどく悲しそうな顔をしていた。
「ごめんなさいって言ったんだ。あいつは心の全部でごめんなさいと謝っていたよ」

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60 伊能の脱ヤクザ講座(2)

 物凄い形相で、須賀が部屋から飛び出してきた。
「わしの刀はどこじゃ? 曲者を成敗してくれる!」

「お、親っさん! 自分です! よく見てください!」

 そう叫びながら、狼狽して追ってくる男を、須賀は訝しげな目でじっと見つめた。

 頭に手ぬぐいみたいなものを巻いている(後でバンダナというものだと教えられた)。
 擦り切れたようなジーンズ。
 アニメが印刷されたシャツ。
 背中には大きな横長のリュックを背負い、腰にもポーチが付いていた。
 両手にぶら下げている紙袋には美少女アニメのキャラクターがでかでかと印刷してあり、丸めたポスターが何本も突き出していた。
 不恰好なメガネの奥の目は、須賀を必死で見つめていた。

 その目を見て、ようやく須賀は曲者の正体がわかった。
「なんと! お前か!」

 男はほっとした表情で何度も肯いた。
 須賀は後ろを振り返った。
 満足げな表情の伊能と、笑いを必死でこらえているタケトがいた。
 その背後にいる見慣れぬ三人の男たちも須賀の部下のようだ。

「これは伊能さん! こやつら、まったくヤクザ者には見えませんぞ。素晴らしい変装じゃ! ところで、これは何に変装したのかの?」

「オタクですよ。外見から一目でわかるところは、ヤクザと同じです。ただし他人に与える影響は正反対です。ヤクザに対しては恐怖心を抱いて、警戒し注意をはらう。オタクだと分かれば、安心して無警戒になります。特に千代田区にはオタクの聖地・秋葉原もありますから、オタクを見慣れていますしね」

「なるほど……これがオタクという者ですか。なんか貧乏そうな感じじゃのう。これなら警官に見られても、職務質問とか受けなくてすみますな。よし! お前たち、早速希君の病院に行って、現在の希君の容態を調べてくるのじゃ」

 大きな返事をして、飛び出して行こうとする男たちを伊能が呼び止めた。
「ちょっと